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本書について一言で表すなら、AIに対する警鐘だと私は思う。
AIはこれまでの技術革命と違い、人間とは異質な知能(エイリアンインテリジェンス)が意思決定できる点でリスクを伴うと述べていた。
難しい内容が多く、私がAIに対して肯定的なスタンスのためそこまで響かなかったが、読み物としては面白かった。
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【感想】
ユヴァル・ノア・ハラリの新作『NEXUS』は、AIを含む「情報」と「情報ネットワーク」について歴史学的視点から論じた書だ。ハラリはかつて自身の著作『ホモ・デウス』で、人間社会を構築してきたのは、サピエンス自身よりもむしろサピエンスが創造した物語、概念といった「情報」によるものが大きいと論じており、これからの新しいテクノロジーが社会にもたらす危険性を示唆していた。
本書『NEXUS』は、今までのハラリの提言の中から特に「情報」にスポットを当てて書き下ろした本だと言える。『NEXUS』の上巻では、人類史において情報はどのような役割を担ってきたのか、また、情報を完全に掌握しようとする政治体系である「全体主義」が歴史上どのようなタイミングで現れ、その時の権力者はどのような方法で人々を統制していたか、などについて語られていく。
まず人類社会の初期段階である原始時代や農耕時代において、情報は「物語」や「文書」という形で、サピエンス同士を結び付けることに成功した。サピエンスは宗教や国家、法律、貨幣といった「共同主観的現実」を信じることで、見たこともない、会ったこともない人々と紐帯していた。これがコミュニティにおける構成員の数を爆発的に増加させ、サピエンスが他の生物を支配する決定打となった。
その後、情報は社会の発展とともにその数を増していった。しかし、情報が増えていくにつれ、検索性は低下していく。この困難を解消し、情報の取っ散らかりを上手くまとめあげた仕組みが、官僚制である。官僚制は、現実の情報を画一的に整理して、社会を秩序付ける重要なシステムだ。官僚制は公共サービス等を提供し、社会が円滑に回ることを可能にする。
だが、官僚制や物語は、秩序のために真実を犠牲にする傾向がある。現実は概して複雑であるが、それを分かりやすく単一的にまとめることで、社会制度が維持されていく。当然、単一化にあたって世界の様相は実態と違った形に歪められていく。
そうした官僚制の歪みが最大限に発揮されたのが、全体主義、つまり独裁制である。全体主義下においては、情報はすべて中央に吸い上げられ、そこで権力者の意向に沿った形で出力される。歴史を紐解いてみると、実は民主制よりも独裁制のほうが長い。完全な民主制のためには情報の透明化が必要であるが、そもそも人民が十分な情報を得るためには、テレビやラジオ、新聞、インターネットといったテクノロジーの発達まで待たなければならなかったからだ。
では、インターネットが発達してあらゆるものが結びついた今は、民主制の黄金時代なのか?
ハラリに言わせれば、それは大きな誤りだ。そもそも情報の多さ=透明性の高さではない。データはあくまで「現実の一面を切り取った事実」に他ならず、それをどのように意味づけるか/活用するかはシステムの構築者次第になるからだ。そこには誤情報を流す人間、偽情報を利用して利益を得る人間、そしてテクノロジーの力を悪用して新しい全体主義を目論もうとする人間など、様々な障害が待ち受ける。
最近勢いを付けているAIについても、その危険性は計り知れない。人間はAIが行っている���理や創造する成果物について、正誤/善悪の判断ができるほど賢くはない。人間は自らの手に余るものを利用し続けているのだ。
AIの進化が臨界点を超えた先には、いったい何が待っているのか?今までの社会は民主主義vs全体主義という、人間同士の争いであった。それが、人間主義vs AI主義という新たなフェーズに突入するのではないか?そのときにAIは、民主的な自己修正メカニズムをもたらしてくれるのか?それとも情報ネットワークから人間の存在を抹消し、新しい秩序のための全体主義を構築していくのか?
こうしたリスクが、まさに今、水面下で発生し始めているのである。
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以上が上巻のおおまかなまとめだ。
上巻を読んだ感想だが、主張のあれこれを歴史的事実に結びつけようとして、だいぶくどくなっている。大量の歴史雑学に、本筋がおまけのようにくっついている状態だ。未来への類推のために歴史の深掘りも必要であるが、「流石にここまで厚く書く必要はないんじゃないか?」と思えてしまった。
といっても、上巻は物語と文書のルーツ、政治制度の歴史など、いわば今までの人類史と情報史をおさらいするための本であり、こうした構成は仕方のないことなのかもしれない。下巻以降は、現在と未来、特にAIという新たな可能性(危険性)が、民主主義と全体主義という旧来の権威のあり方を根本的に変えうるかもしれない、という話が始まってくる。これからに期待しよう。
下巻の感想
https://booklog.jp/users/suibyoalche/archives/1/4309229441
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【まとめ】
0 まえがき
私たちホモ・サピエンスは、過去10万年の間に途方もない力を身に着けた。しかしながら、その力を誤用するあまり、生態系崩壊の危機に瀕している。
私たちは自らが制御できない力を手にし、それを濫用している。この傾向は、個人の心理ではなく、私たちの種に特有の、大勢で協力する方法に由来する。人類は大規模な協力のネットワークを構築することで途方もない力を獲得するものの、そうしたネットワークは、その構築の仕方のせいで力を無分別に使いやすくなってしまっている。私たちの問題はネットワークの問題なのだ。
「情報は本質的に良いものであり、多ければ多いほうが良い」というのが、情報についての素朴な見方である。だが、私たちは大量のデータを貯め込んだというのに、相変わらず温室効果ガスを大気中に放出し、海や川を汚染し、森林を伐採し、さまざまな生物の生息環境をまるごと破壊し、無数の種を絶滅に追い込み、自分自身の種の生態学的な基盤を危険にさらし続けている。そしてまた、水素爆弾から人類を滅亡させかねないウイルスまで、ますます強力な大量破壊兵器も製造している。
いっそう多くの情報を手に入れれば、状況は良くなるのか?それとも悪くなるのか?
無尽蔵のデータを内包したAIは世界を救うのか?それとも人間同士の分断を煽るのか?
あるいは、人間そのものを支配するに至るのか?
1 情報とは何か
「情報」という言葉を一意に定義することは難しい。情報の素朴な見方によれば、真実を探し��める状況では、現実の特定の面を表すものは「情報」と定義できる。別の言い方をするなら、情報は現実を表す試みであり、その試みが成功したときに、情報は真実と呼ばれることになる。
真実とは現実の正確な表示であるという主張には、本書は同意する。ただ同時に、本書は以下のようにも考える。ほとんどの情報は現実を表す試みではないし、情報はそれとはまったく異なるものによって定義される。人間社会の情報の大半は、いや、それどころか他の生物系や物理系での情報の大半も、何も表してはいない。
情報は現実を表さないのは何故かというと、現実には数多くの見地があるからだ。「1万人の兵士」という言葉は、現にそこに1万人の兵士がいたら現実の特定の面を正確に指し示しているが、その1万人の中に古参兵や新兵がどの程度いるのかを具体的に述べることは怠っている。歴戦の兵が1万人いることと、傷病者を含めた新兵が1万人いることの違いを比べれば、戦争における「現実」は全く異なる様相を呈するだろう。
要は、現実は1つしかないが複雑であり、情報はいつも現実の不正確な表示にならざるをえないということだ。
情報のそうした不完全な側面は、「誤情報」――現実について取り違えた情報や、「偽情報」――故意の嘘によって現実を歪めた情報を招く。
情報の主な仕事は、現実を正確に表すことではない。さまざまな点をつなげてネクサス(結びつき)を作り、新しい現実を創り出すことだ。聖書は人類の起源や移動や感染症にまつわる現実を正しく表示できていないのにもかかわらず、じつに効果的に何十億もの人を結びつけ、ユダヤ教とキリスト教を生み出した。
したがって、歴史における情報の役割を考察するときには、「どれだけうまく現実を表しているか?正しいか、それとも間違っているか?」と問うのが理に適う場合があるものの、より重要な問いは「どれだけうまく人々を結びつけるか?どのようなネットワークを新たに作り出すか?」であることが多い。歴史においてサピエンスが世界を征服したのは、情報を現実の正確な地図に変える才能があったからではなく、情報を利用して(ときには嘘や誤りで)大勢の人を結びつける才能があったからだ。
2 物語の力
物語はサピエンスに新しい種類の連鎖を与えた。人間と物語の連鎖だ。サピエンスは、協力するためには互いを個人的に知らなくてもよくなった。同じ物語を知っているだけでよかった。そして、その同じ物語は、何十億もの人に馴染み深いものになりうる。それによって物語は中心的な接続装置のような役割を果たすことができる。無数の差込口がついていて、無数の人が接続できるわけだ。たとえばカトリック教会の14億の信徒は、聖書やその他のキリスト教の主要な物語によって結びつけられているし、14億の中国人は、共産主義のイデオロギーと中国の国民主義によって結びつけられている。そして、グローバルな交易ネットワークに属する80億の人は、通貨や企業やブランドについての物語で結びつけられている。
人は物語によって、今まで有していた2つの次元の現実――客観的現実と主観的現実に、あらたな次元の現実である「共同主観的現実」を作りだした。法律、神、国民、通貨、企業などがそうだ。共��主観的なものは、大勢の人の心を結ぶネクサスの部分に存在し、情報の交換がそれらを創り出した。共同主観的現実は何千人、何万人ものヒトを結びつけ、協力関係に置いた。
虚構が歴史で果たす重要な役割を理解すると、情報ネットワークについて次のことがわかる。人間の情報ネットワークはどれも、生き延びて栄えるには、真実を発見し、しかも秩序を生み出すという、2つのことを同時にする必要があるということだ。一方では、情報のより正確な理解と処理の仕組みを構築する必要がある。もう一方では、正直な説明ばかりではなく虚構や空想、プロパガンダ、そしてときには真っ赤な嘘にも頼り、大勢の人々の間でより強固な社会秩序を維持するための情報の利用方法を構築する必要がある。
人間の情報ネットワークはしだいに強力になったが、同時に知恵を欠いた無分別なものにもなっていった。それは、この2つの仕組みが理由なのだ。
3 文書
物語にさらなる力を与えたのが文書だ。文書は、物語と違って、人々の心を動かすほどの熱を帯びてはいない。ただ起こったことを淡々と表記するだけだ。しかし、文書が財産や税や支払いのリストを記録してくれたおかげで、行政制度や王国、宗教団体、交易ネットワークを生み出すのがはるかに楽になった。より具体的に言えば、文書は共同主観的現実を創出するための方法を変えた。口承文化では、共同主観的現実は、多くの人が口で繰り返し、頭に入れておける物語を語ることで創り出された。したがって、人間が創り出せる種類の共同主観的現実には脳の容量という限度があった。人間は、脳が記憶できない共同主観的現実は創出できなかった。この限界を、文書が乗り越えたのだ。
しかし、文書が増えてくると新たな問題が生じた。検索性の低下である。情報の量が増えていくにつれ、それらを整理し情報ネットワークとして利用できるように秩序立ててやる必要が出てきた。その秩序のことを、官僚制という。
官僚制は、大規模な組織の人々が検索の問題を解決し、それによってより大きくより強力な情報ネットワークを作り出すにあたって採用した手段だ。官僚制は公共サービスを提供し、社会が正確に回ることを可能にした。だが、官僚制も神話と同じで、秩序のために真実を犠牲にする傾向がある。官僚制は、新しい秩序を発明して、それを世の中に押しつけることで、人々による世界の理解の仕方を、独特の形で歪めた。
官僚制をはじめとした強力な情報ネットワークはみな、設計の仕方と使われ方次第で、良いことも悪いことも行ないうる。ネットワーク内の情報を増やすだけでは、恩恵が得られる保証にはならないし、真実と秩序の間の適切なバランスを見つけやすくなるわけでもない。それが、21世紀の新しい情報ネットワークの設計者と利用者にとっての、重要な歴史的教訓だ。
4 不可謬の情報ネットワーク
官僚制と神話はともに秩序を維持するために必要不可欠なものだが、どちらも秩序のためなら喜んで真実を犠牲にする。
では、そうした不完全さを排除し、全く誤りの無い情報ネットワークを作ることができるのか?今日ではAIがそのようなメカニズムを提供できるかもしれないと期待する向きもある。
しかし、それは不可能だ。そもそも、「全く誤りの無い情報ネットワーク」(という空想)なら、既に構築されてきた。宗教だ。
歴史的に見て、宗教の最も重要な機能は、社会の秩序のために超人的な正当性を提供することだった。だが、聖書についての解釈をめぐって何千年も人々が対立しているように、人間の制度や機関が入り込む限り、不可謬の文書は存在しえない。そして、不可謬の文書に権威を付与することで人間の可謬性を迂回する試みは、決して成功しなかった。
では、不可謬の文書がありえないならば、人間の誤りという問題にはどう対処すればいいのか?
情報の素朴な見方は、教会とは正反対のもの、すなわち情報の自由市場を創出すれば、この問題は解決できると断定する。もし情報の自由な流れに対する制限をすべて取り除けば、誤りは必ず暴かれ、真実に取って代わられるというのが、素朴な見方だ。だが、それは楽観的すぎる。印刷術の発明がヨーロッパでの魔女狩りを急速に広める役割を果たしたように、情報の流れの障害物を取り除いても、真実の発見と普及につながるとは限らない。
5 自己修正メカニズム
真実が勝利するためには、事実を重視する方向へ舵を切る力を持った、キュレーションの機関を確立する必要がある。
歴史上では、「科学アカデミー」がそうした信頼に足る情報ネットワークを築き上げ、科学革命に貢献した。
彼らが有していたのは、機関自体の誤りを暴いて正す強力な自己修正メカニズムだった。ある事柄が真実であると、特定の時代の科学者のほとんどが信じていたとしてもなお、科学の機関はそれが不正確あるいは不完全であることが判明するかもしれないという立場を取る。19世紀には物理学者の大半は、宇宙を包括的に説明するものとしてニュートン力学を受け容れていたが、20世紀にはそのニュートンのモデルの不正確さと限界が、相対性理論と量子力学によって暴かれた。科学史上とりわけ有名な瞬間はみな、妥当なものとされていた通念が覆され、新しい説が誕生したときにほかならない。機関が大きな誤りを進んで認めるおかげで、科学は比較的速いペースで発展しているのだ。
ただし、自己修正メカニズムは、真理の追求には重要極まりないが、秩序の維持の点では高くつく。強力な自己修正メカニズムは、疑いや意見の相違、対立、不和を生み出したり、社会の秩序を保っている神話を損なったりしがちだからだ。
6 民主主義と全体主義
独裁社会と民主社会では、情報の流れ方がどのように違うか?
独裁制の情報ネットワークは高度に中央集権化されている。中央は無制限の権限を享受し、情報はその中枢に流れ込み、そこで最も重要な決定が下される。また、中央は不可謬であるという前提に立っている。要するに、独裁社会は強力な自己修正メカニズムを欠いた中央集中型の情報ネットワークだ。
それとは対照的に、民主社会は強力な自己修正メカニズムを持つ分散型の情報ネットワークだ。民主的な情報ネットワークを眺めてみると、たしかに中枢がある。民主社会では政府が最も重要な行政権を持っており、したがって政府の諸機関は厖大な量の情報を集めて保存する。だが、それ以外にも多くの情報の経路があり、独立した多数のノードをつないでいる。民主的な政府は、人々の自立性を重んじ、中央で決めることはできる限り小さくする。民主社会は誰もが可謬であることを前提とするため、多種多様なノードの間で継続する話し合いの体制となる。
加えて、民主制は自己修正メカニズムも取り入れておかなければならない。有権者の51%の選んだ政権が、宗教的少数派を抹殺すると決定したとしても、それは民主的ではない。民主制は多数派による独裁制とは同一ではないからだ。民主制とは多数決原理のことではなく、万人の自由と平等を意味する。
ここで、民主主義と全体主義の歴史を紐解き、情報ネットワークがそれぞれにどのような影響を与えてきたかを見てみよう。
狩猟採集社会では、指導者による独裁はめったに起こり得ず、経済ははるかに多様化していた。農業革命後、書字の力を借りて大規模な官僚制の政治組織が誕生すると、情報の流れが中央集権化され始めた。3世紀には、ローマ帝国だけでなく地球上の他の主要な人間社会もすべて、強力な自己修正メカニズムを欠いた中央集権型のネットワークになっていた。これは単に強権的な指導者が現れたからというよりも、話し合いを行うための物理的な手段が無かった(互いの声が聞こえる範囲にいない)こと、また人民の多くに話し合いのための初歩的な知識・教養が無かったことが原因である。
何百万という人口規模での民主制がようやく可能になったのは、マスメディアが大規模な情報ネットワークの性質を変えてからだった。16世紀から印刷物の出版が始まり、民主化傾向が強まると、テクノロジーの発達に合わせて情報の流れが強化され始めた。19世紀から20世紀にかけては、電話、ラジオ、テレビといった新しい通信技術のおかげで、マスメディアの力は途方もなく強化された。
しかし、現代の新しい技術は、大規模な全体主義体制への扉も開いた。ローマ帝国のネロは残虐な処刑を行ったが、それは自分の行動範囲内にいる人間に対してのみだ。一方、スターリンのような現代の全体主義は、ラジオや出版物といった新しい情報テクノロジーによって、それとはまったく違うスケールで人々を抑圧した。
新しい情報テクノロジーは大規模な民主主義体制と大規模な全体主義体制の両方の台頭につながったが、これら2つの体制が情報テクノロジーをどのように使ったかには、きわめて重要な違いがあった。
民主制は中央を通ってだけではなく、多くの独立した経路を通って情報が流れるのも促し、多数の独立したノードが自ら情報を処理して決定を下すことを許す。情報は、大臣のオフィスをまったく経由することなく、民間の企業や報道機関、地方自治体、スポーツ協会、慈善団体、家庭、個人の間で自由に流れる。
一方、全体主義はすべての情報が中枢を通過することを望み、独立した機関が独自の決定を下すことを嫌う。たしかに全体主義には、政権と党と秘密警察という3つ組の機関がある。だが、これら3つを併存させるのは、中央に楯突きかねないような独立した権力が登場するのを防ぐためにほかならない。政権の役人と党員と秘密警察の諜報員が絶えず監視し合っていれば、中央に逆らうのははなはだしく危険になる。
民主主義と全体主義を異なる種類の情報ネットワークとして見られるようになると、両者が繁栄する時代もあれば、存在しない時代もある理由も理解することができる。両者の有無は、人々が特定の政治の理想に対する信頼を獲得したり失ったりするからだけではなく、情報テクノロジーの革命のせいでもある。
7 あたらしい全体主義
現代の情報テクノロジーは、全体主義と民主主義に新たな局面をもたらしている。
全体主義政権は秩序を維持するために、現代の情報テクノロジーを使って情報の流れを中央集中化したり、真実を抑え込んだりする。その結果、硬直化の危険と闘う羽目になる。しだいに多くの情報が一か所だけに向かって流れるようになると、それは効率的な支配につながるのか、それとも動脈が詰まって、ついには心臓発作が起こるのか?
民主主義政権は現代の情報テクノロジーを使って情報の流れをより多くの機関や個人の間で分散化し、真実の自由な追求を奨励する。その結果、砕け散る危険と闘う羽目になる。中央は依然として体制を維持できるのか、それとも体制はばらばらになって無政府状態に陥るのか?
歴史は全体主義に敗北をもたらし、民主主義に勝利をもたらした。この勝利はしばしば、情報処理における基本的な利点という見地から説明されてきた。全体主義がうまくいかなかったのは、あらゆるデータを中枢に集中させて処理する試みが、きわめて非効率的だったからというわけだ。
ところが、未来は民主主義の手の中にあるとはいい難くなっている。新しい情報革命がすでに本格化し始めており、民主主義体制と全体主義体制の競争における新しいラウンドの舞台が整いつつある。コンピューターやインターネット、スマートフォン、ソーシャルメディア、AIは、権利を奪われた集団にだけではなく、インターネットに接続できる人なら誰にも、さらには人間以外の行為主体にさえも声を与え、民主主義に新しい難題を突きつけてきた。2020年代の民主主義国は、社会秩序を損なうことなく公の場での話し合いに新しい声の洪水を取り込むという課題に、またしても直面している。同時に、さまざまな新しいテクノロジーのおかげで、すべての情報を一か所の拠点に集中することを依然として夢見ている全体主義政権は希望を新たにしている。たしかに、赤の広場の演壇に並んでいた長老たちには、単一の中枢から何億もの人の生活を統制する能力はなかった。だが、ひょっとしたらAIにならできるのではないか?
そして、現在の情報革命には、これまでに私達が目にしたものとは全く異なる独特の特徴がある。
これまでは、歴史上のどの情報ネットワークも、人間の神話作者と官僚に頼って機能してきた。粘土板やパピルスの巻物、印刷機、ラジオは、広範に及ぶ影響を歴史に与えたが、あらゆる文書を作成し、それを解釈し、誰を魔女として火あぶりにするかを決めるのは、つねに人間の仕事だった。
ところが今や、人間はデジタルの神話作者や官僚を相手に回さなければならなくなる。21世紀の政治における最大の分断は、民主主義政権と全体主義政権との間ではなく、人間と人間以外の行為主体との間に生じるのかもしれない。新しいシリコンのカーテンは、民主主義政権と全体主義政権を隔てる代わりに、全人類を、人知を超えたアルゴリズムという支配者と隔てるかもしれない。
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● 2025年3月7日、母と新宿 紀伊国屋にあった。フロアに何箇所も平積みされてて大々的に売り出してる。帯に「サピエンス全史を超える衝撃」とある。中身はそれなりに難しいので、こんなのが読めたらいいね本。→紀伊国屋1階の入口の1番外の風があたる正面の手前にこの本が売り出されていた。
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上下巻一気に読みました。
情報とは何かについて、とても興味深い視点を得られました。
人類史をふまえて語られるハラリさんの作品は、いつもスケールが大きく、そして論じる、私たちに必要な行動につなげる、というところも、とても読みがいがあります。
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情報テクノロジーがもたらすもの。
・客観的現実と主観的現実の他に、サピエンスは物語の力によって共同主観的現実を持ち得る。
・これにより、集団を維持し大きな力を発揮できる。
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サピエンス全史を読んだ時の感動はなく、同じような内容を文脈や構成を変えて再構築した印象は否めない。
人類の統制の鍵となる『情報』の形が大きく進化する中で今後社会はどう変化するのか、テーマとしては非常に面白いと思う。
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中世の魔女狩りは社会不安の解消装置。情報を統制し、魔女をでっち上げ、抹殺
→今のフェイクニュースやSNS炎上と同じやん
全体主義、民主主義の情報の扱い方の違いが興味深かった
そしてAI時代、人間は情報統制を放棄するのか?
下巻は更に期待!
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テクノロジーは情報の流通に寄与するが、情報の流れ方を決めるのは人間自身であり、それが民主主義と全体主義を分けるという趣旨の本。
スパルタや秦王朝も全体主義の発想はあった。しかし、情報技術の不足により完全に実現することはなかった。
人間の考えることは時代を超えて変わらなくとも、技術によって世界の形は異なるものとなる。このことは技術革新が起こるときは過去の失敗が形を変え再び起こりうることを意味する。
情報という眼鏡を通して、歴史の推移を眺めた本であった。
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情報→真実→知恵&|or力。だけではない。
情報→秩序→力のノードもある。
可謬という認識と自己修正メカニズムが科学の発展を促した。
ただし、秩序を求めるさいには不可謬なものを仕立てていくことが有用なことも。それが神話であり、ヒトラーであり、宗教。
単純な善悪二元論や、直接かつ単一の因果関係で世界が成り立っているわけではない。という著書のスタンスが、考える際の大変重要な学びである。
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上巻は言語や印刷などのメディアがコミュニケーションを発達させ社会をいかに拡張してきたかが書かれる。この辺りはcotenradioの科学技術の歴史とセットで読むとさらに理解が深まる。
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上巻読了。
人類と情報の関わり方とその影響、情報管理の変遷を歴史に沿って解説してくれている。本著では昨今の分断やポピュリズムにも触れ、情報がどれほど人類の思想や行動に影響を与えているか気づかせてくれる。間違いなく自分にも当てはまることであり、納得感と自戒の念が押し寄せる。緻密なロジックと豊富な事例が内容に厚みを与えているが、それにより多少冗長な印象も受けた。ただ主張が明確なため迷子にならずに読めることができる。
前半の「物語」パートに本著のエッセンスが詰まっている。近現代に近づきデジタルやAIが与える影響をどう解釈するかは期待が高まる。
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その危険の大きさを踏まえると、AIは全人類の関心事でなければならない。誰もがAIの専門家になれるわけではないにしても、私たちはみな、AIが自ら決定を下したり新しい考えを生み出したりすることのできる史上初のテクノロジーであるという事実を肝に銘じるべきだ。(中略)AIはツールではない――行為主体なのだ。(p.21)
まず、AIについての話す立ち位置をこのように設定し、それまでの「情報」についての歴史を追っていく。データを見つけて処理する能力が生身の官僚よりもあるというのはそうとして、ほとんどの人間よりも物語をつくり上げる能力も獲得しつつあるということで、情報処理に限らないところまで来つつあるということらしい。そこが文書を複製する機能に留まる印刷機の発明との大きな違いだ。
聖書やコーランなど、聖典の解釈のずれの話は面白かった。
「安息日に労働してはならない」と書かれていても、何をもって「労働」となるのかは分からない。聖典の外側の世界の変化に耐えられなくなってきた時に、典拠としながらも解釈を考えることになる。雁字搦めなのか柔軟なのかわからなくなる。
かつての「情報」であったこうした内容とAIがどのように異なり、どのような使われ方をしていくのか。こうした問いをベースに下巻に続く。
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「ホモサピエンス」程のインパクトはない。中世から近代の歴史を”情報”といった観点で切り込んだ内容。情報がどのように広がるようになり、どのように、扱わられ統制されてきたかを紐解いている。
情報は真偽を定めるものではなく、人や物事を結びつけるものとしている。
魔女狩りのように嘘も人が信じれば正しいことになってしまう。貨幣も同じ事だと。紙とみるか紙幣とみるか。
独裁制や教会とかは不可謬(間違えをみとめない)だと。地動説や進化論を認めなかったのが例かなと。自己修復が出来ないとそうなる。
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ハラリ大先生の新刊、ちょっと面白すぎた。
『サピエンス全史』にも通じる「情報史」を綴った内容で、歴史を振り返るのが前半、未来を語るのが後半という構成。そして、これからの情報史を語る上で避けて通れない主題が——やっぱりAIだ。
つまり、AIによってもたらされる課題を、人類史(情報史)の観点から予測するというアプローチ。
「情報」というものが人類史の中でどう扱われ、どう伝達されてきたかを振り返り、その土台の上でAIのインパクトと向き合う。
まさに、「賢者は歴史に学ぶ」ってやつ。
AIがもたらす未来、と言っても「仕事が奪われる/奪われない」みたいな話ではなく、もっとスケールがでかい。
「人類という種が、これからどうなっていくのか?」って話。
人類は、「同じ幻想を共有できる」という超特殊な社会性によって繁栄してきた。
そこから生まれたのが「民主主義」と「全体主義」。
どちらも、全人類に同じ幻想を見せるには至らず、未完成で課題だらけ。
そしてその課題が、AIの登場によってどう変わっていくのか——その未来像が語られている。
もう、めっちゃスケールでかいし、エキサイティングすぎた!
なお、ハラリ大先生ほどの知性を持ってしても、最終的には
「これからは変化し続けるしかないよね」
という、めちゃめちゃ“凡”な結論に行き着くのが、軽く絶望させてくれる。
AIという「人類より上位の知性」が生まれてしまった今、ハラリほどの知性と僕ら凡人の差は丸められちゃうのか…。
まあでも、絶望したって仕方ない。
やっぱり僕らは、「変化し続ける」しかない。
そしてその“変化すべき範囲”は、この本を読む前に想像していたよりもはるかに広い。
「変化」の可動域を、極限まで広げなきゃいけない!
というわけで、この本はきっと——
「変化の可動域を広げるための、思考のストレッチ本」なんだと思う。
痛気持ちいいくらいの強さで、しっかり伸ばして行こう
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人間社会において情報が本質的にどのような機能を果たしているか、いくつかの社会体制の大分類がそれぞれ情報をどのように扱っているかについて、著者の豊かな歴史の知見に基づき整理されていた。本書の核心部分は飽くまで下巻であり、上巻ではそこに向けた基礎の整理がなされていた印象だが、そんな中でも著者特有の知的ユーモアがふんだんに散りばめられて読み応えは期待どおり抜群だった。星5つ。
以下、概要をまとめる。
情報とは現実を表現しようとする「試み」である。
とにかく情報を充実させれば真実に近づき世の中は良くなるとの楽観的で素朴に見る向きもあるが、著者は、印刷技術の発達が魔女狩りの大規模化と凄惨化につながった例を上げて反論し、一方で、人間社会の本質は物質であるとして情報を副次的な存在と軽視する唯物史観に対しても、情報が意思決定や社会体制の構築において決定的な役割を果たしてきた事実を列挙して反論する。
つまり、情報は真実を表すとは限らないが、真実でない情報が力を持たないというわけでもないということだ。
情報の本質的な機能は、真実の伝播と秩序の維持の2つであるが、両者は相反する作用をもつことが多く、両立困難であるため、両者のバランスをどうとるかが歴史上常に課題であった。
かつては聖書が多分に現実に反する内容を含みながらも、物語の持つ力によって秩序維持に絶大な力を発揮した。さらに官僚制が物語以外の部分において重要な機能(税や貸借などの直感で記憶しにくい共同主観的現実の運営)を担った。聖書は不可謬を前提としているくせに嘘と誤りを多分に含むため、現実との不一致に常に悩まされ、それをうまく解釈する官僚達が結果として社会のルールを左右できることとなり、権力を握った。一方、その後に現れた科学は、可謬であることを前提に置き、強力な自己修正メカニズムを備えたため、真実の探求において極めて高い成果を上げた。
前者は秩序の維持において、後者は真実の探求において機能し、たまにこれらが衝突した時は概ね前者が優先された。
ここで著者は、社会の情報の扱い方や情報との向き合い方を捉えるうえで、打ち立てた物語や規則の可謬性の有無と、自己修正メカニズムの強さという評価軸を提示した。
次に、人間社会の体制の歴史だが、狩猟採集時代は民主的な社会がほとんどであったと思われるが、社会規模が拡大するにつれ民主的に意思決定するための技術が決定的に不足していたために権力者が全てを決める独裁体制が主流となった。その後、印刷、ラジオ、鉄道などの技術の進歩に伴い、民主的に意志決定する民主主義と、独裁体制を追求した全体主義という2つの選択肢が生まれた。
この近代以降の2つの社会体制について、著者の評価軸で捉えると、民主主義は分散型の情報処理を行い可謬を前提として強力な自己修正メカニズムをもつ社会(民主主義の本質は決して多数決ではなく、少数派の人権と公民権を政権が保証するところにある❗)で、全体主義は中央で情報を集中処理し不可謬を前提として自己修正メカニズムが弱い社会である。前者はレジリエントな社会を構築できるが非常時に秩序が揺らぐリスクを孕み、後者は非常時にも極めて効率的に統一された動きをできる秩序を維持できるが誤りの可能性や変化に対して脆弱である。
この両陣営の競争は、1960年代の混乱で民主主義が収束に苦戦する中で全体主義が比較的首尾よく乗り気ってみせたものの、その後の消費者の嗜好の変化と技術の変化に対して分散型情報処理ネットワークの民主主義が概ね対応できた一方で全体主義の情報処理を一手に担う中央の長老達がこれに対応できなかったことをもって、民主主義が勝利を納めたかに見えた。
しかし、AIという新たなゲームチェンジャーの登場で競争の行方は再びわからなくなり、むしろこの両陣営のどちらでもないAIそれ自体が勝利するかも知れない不穏な予感を漂わせて上巻は幕を閉じる。
サピエンス全史から続く、虚構を構築して大規模に協力するネットワークを形成する力がホモサピエンスの強力さの源泉であるとの著者の主張を、情報と「ネクサス」(つながり)の観点からとらえ直したもので、これまでの著作に比べて、上巻では真新しい内容や驚きは少なかった印象だが、下巻を読み込むための前提知識を整理する巻として非常に有意義であった。