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全体性と無限
著者 エマニュエル・レヴィナス , 藤岡 俊博
本書は、エマニュエル・レヴィナス(1906-95年)の主著にして、20世紀を代表する哲学書(1961年)の決定版となる新訳である。
リトアニアのユダヤ人として生まれたレヴィナスは、ストラスブール大学で哲学を学び、生涯の友となるモーリス・ブランショと知り合うとともに、決定的な出会いを経験した。それがエドムント・フッサールの現象学との、そして1927年に刊行されたマルティン・ハイデガーの『存在と時間』との出会いである。翌年からフライブルクでこの二人の講義に出席し、1930年にはフランスに戻って現象学を主題とする博士論文を出版したレヴィナスはフランスに帰化した。
第二次世界大戦では通訳兵として召集されたが、ドイツ軍の捕虜として収容所で終戦を迎える。戦後は東方ユダヤ師範学校の校長として教育に携わる傍ら、講演や論文執筆などに注力した。そうして書き上げられたのが国家博士号請求論文となる本書であり、これは後年の『存在するとは別の仕方で あるいは存在の彼方へ』(1974年)と並ぶ主著として読み継がれている。
本書は、西洋を支配してきた「全体性」を標的に据えている。全体性は、個体を「自分に命令を下してくる諸力の担い手」に還元し、個体から主体性を奪う。そうして主体性を失った個体は他者に暴力をふるうだろう。レヴィナスは、このような全体性に対抗するものとして「無限」を掲げる。無限とは、本書の副題「外部性についての試論」にも示されているように「外部性」を指す。外部性とは「他者」であり、他者は「私のうちなる他者の観念をはみ出しながら現前する」とき、私の前に「顔」として現れる。その顔に現れる無限に応答すること――それこそが重要なことであり、存在論は倫理学に取って代わられねばならない。
全体性ゆえの暴力にさらされたレヴィナスの父や兄弟は、ナチスの手で殺害された。そうした暴力は、その後も、そして今も、世界の至る所でふるわれ続けている。レヴィナスの思想を多くの人が希求する時代は、よい時代とは言えないかもしれない。だが、そのような時代にピリオドを打つためにも、本書は正確さと明快さをそなえた日本語で訳される必要がある。気鋭の研究者が全身全霊を捧げて完成させたこの新訳によってこそ、本書は次の世代に受け継がれていくだろう。
[本書の内容]
第I部 〈同〉と〈他〉
第II部 内奥性と家政
第III部 顔と外部性
第IV部 顔の彼方へ
訳者解説
*お詫びと訂正
第1刷の「訳者解説」(561頁14行目)に記述の誤りがありました。心よりお詫びいたしますとともに、以下のとおり訂正させていただきます。第2刷以降は訂正いたします。
【誤】
博士論文としての審査後に
【正】
博士論文としての審査の少し前に
全体性と無限
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全体性と無限
2022/01/09 01:49
個人であることは他者の存在が不可欠と書くと語弊がある。
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:L療法 - この投稿者のレビュー一覧を見る
非常に濃密で、無数の引き出しを持つ本。
とりあえず結論と解説を読まずに。
こちらの知識不足と、咀嚼力の足りなさで、感想として何かを書くことがむずかしいのですが、一番気になった点は、「女性的」って言葉の使い方。
自由や社会について語られた後のエロスや愛の話。
意味的にはこの本の中で非常にわかりやすいパート(多分澁澤龍彦をかじっていれば了解可能)で使われているのですが、ここに何か、女性に対する先入観が強いように思う。
愛撫されるもの、肉色の柔らかなものを、女性的とすることはわかるのですが、これは、女性の欲望なり男性の欲望なりの、男の体あるいは人間以外、もしくは空想の存在に対しても成り立ちませんか?
いや、ヘテロ男子(社会が形作る存在としての?)としてそう思うのはわかるし、実際男性であるわたしには、非常にわかりやすいのですが。
この本は、頁ごとに何かしら気になる言葉が、時に複数見つかるような超高密度ですが、フッサールのような悪文ではなく、むしろ何か美しい調べがある。
しおり/付箋などを挟むと、かなりの厚みとなるだろう。
色々周回して、次に読む時は、メモをしていこうかと思う。
で、結論を読む。
多分一番わかりやすい、文章が一直線に走っていくので、いくつかの用語を気にせず、まずここから読んで、初めから読むのがいいのかもしれない。
わたしがひっかかった、「女性的」って表現も、中性的=唯物論に抗するためのものであるとわかるのだが、
関連する、繁殖性の理屈もわからなくはないのだが、なんだろうか、合意はしたくないな。
ここで性別や家族と国家の関係は、保守主義の匂い、あるいは神の下の秩序のようなものを感じてしまう。
主体や、自由、善性などの言葉で語られることは、その強い性別の協調が本当に必要なものなんだらうか?
他者の話、あるいは顔の話をする時に、性別は問題視していない。
エロスにおいてもそれは成り立つであろうし、エロスは繁殖から切り離された欲望なのでは?
形而上学である、全ての根源についてあるいは神についてのはなしで、個人というものを扱っている。
そこで中性化を批判するのはわかるのだが、雄雌ではなく、女性的という言葉を用いて、繁殖の流れの中にある個人を描くことに、性別に対するこだわりが違和感として残る。ジェンダーの話でしょ?
もちろん動物としての人間は、性別の話を避けるわけにはいかないんですが、主体についてこれでいいのか?
解説は、本書の読解については他をあたるようにと、来歴など基本的な情報にとどまるが、『レヴィナス著作集3』に、小説に描こうとしたエロス関係の文章などが含まれているらしい。
全体性と無限
2021/02/10 10:32
20世紀を代表する哲学書として名高いレヴィナス氏の作品です!
1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、エマニュエル・レヴィナス氏の主著であると同時に、20世紀を代表する哲学書でもあります。同書は、西洋を支配してきた「全体性」を標的に据えた内容で、全体性は、個体を「自分に命令を下してくる諸力の担い手」に還元し、個体から主体性を奪うと筆者は主張しています。そうして主体性を失った個体は他者に暴力をふるうとも言い切ります。筆者は、このような全体性に対抗するものとして「無限」を掲げます。無限とは、副題となっている「外部性についての試論」にも示されているように「外部性」を指します。外部性とは「他者」であり、他者は「私のうちなる他者の観念をはみ出しながら現前する」とき、私の前に「顔」として現れる。その顔に現れる無限に応答するこそが重要なことであり、存在論は倫理学に取って代わられねばならないと論理が展開されていきます。ぜひ、この機会に読んでいただきたい名著です!
全体性と無限
2020/07/12 16:48
レヴィナスを知っているか
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:とめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
道徳に欺かれていないかどうかを知るのは極めて重要と大上段に構えてはいるが、責任の無限とは引き受けられるに応じて責任が増大していくこととわかりやすい部分も散見される。