カメラ・オブスクーラ
2024/05/02 22:38
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投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
ナボコフによるのちの『ロリータ』を髣髴とさせるような、親子ほど年の離れた男女の恋愛を描いている。男のほうは家庭を崩壊させても女と添い遂げようとするが、女には昔の恋人が現れ、両方と関係を持ってしまう。やがて関係は破滅へと向かっていくのだが、細かいところにも読みどころがあり、何度も読み返せる本だと思う。
オブセッションかちょうどいい仕掛けか
2024/04/27 16:04
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投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
1932年から33年にかけてナボコフがロシア語で執筆し、自身の手によって英訳を行った。これまでの邦訳は英訳などからの重訳でロシア語からの翻訳は本書が最初なのだという。ストーリーはどうしても『ロリータ』を想起せざるをえないが、これはナボコフ自身のオブセッションと見るべきか、ちょうどいい仕掛けであったととるべきか迷う。作品はいかにもナボコフという感じとなっている。
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ロリータの原型とも言える、少女によって破滅する中年男の物語。物語自体はまったく救いが無い。が、何故か美しい。プルーストの文体模写が笑える。
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初ナボコフ。「アンナ・カレーニナ」を現代風にして「居酒屋」「ナナ」「椿姫」「マノン・レスコー」が混じり合ったイメージ。小説というよりは映画を観ている感じだけどそれは意図したものらしい。プロットは「マノン・レスコー」だけどアイロニーで味付けしてある。題名はラテン語で「暗室」という意味で解説によると「見ること」が隠されたテーマらしい。ナボコフ初期の作品で源ロリータらしいがかなり面白い。時間をおいて再読してみよう。キーワードに注意して。
ナボコフはイタズラ好きらしい。
p213
「トルストイですって」ドリアンナ・カレーニナは聞き返した。「いいえ、おぼえていませんわ。でもどうしてそんなことがお知りになりたいの」
他にもプルースト風の変な話中小説が出てくるし。
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物語終盤のマグダとホーンは本当に下衆である。
でもそれをドキドキしながら眺めている読者というわたしもたいして変わらないのかも。
見える こと
見えない こと
このふたつがこの小説ではいろいろな意味を持っている。
良い本でした!
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確かに『ロリータ』にすごくよく似ている。語りが全知の三人称とハンバート・ハンバートの強烈な一人称っていう違いもあって(もちろん、多分それだけじゃない)、ロリータっていう万華鏡の鏡の中に入って、内側から外を眺めている感じ。いや、ハンバート・ハンバートについて言えば『ロリータ』が中で『カメラ・オブスクーラ』が外なのか。
『ロリータ』より短くて分かりやすい。
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ナボコフ33才の作品。俗物たちのメロドラマを世にも美しい文章で。この人、30代のころは文章もノリノリで読みやすく、どこか清々しい作品が多い。楽しい!
マグダのイメージは、ちょっと前のスカーレット・ヨハンソンがぴったりくる。
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あの「ロリータ」のナボコフの初期作、ということで期待して読んだけど、
レトリックに関してはやっぱり「ロリータ」ほどではなかった。
初期作だからこそだと思うけど。ロシア語作品だし、訳の問題もあるかな。
良くも悪くも読みやすい作品。
「ロリータ」の前にこれを読んでおけば、もっと早い段階で「ロリータ」も楽しんで読めたかもしれない。
ストーリーは特にどうということもなく
クレッチマーが普通の思考回路を持った人だったり登場人物が割と多かったりしたせいで、
ラストまで現世離れせずにストーリーが進んでいった気がする。
(だからあまりレトリックにのめり込めなかったのかもしれない。
「ロリータ」は完全にハンバートとロリータの二人の世界で、
難解な描写や比喩も全部ひっくるめて「世界」を形作っていたんだな、と今になって思う。)
ナボコフの作品は、細部を読み解くところに楽しみがある。
独特の比喩とか表現はもちろんだけど、
例えばマグダの蛇のイメージとか。(これはちょっと露骨すぎるなとも思ったけど)
そういう意味ではこの作品も相当読みごたえはあると思う。
登場人物も多いし、繰り返し読んだらまだまだいろんな発見が出てきそうだ。
解説によると、この作品のテーマは「見る」「見えない」らしい。
要素はいたるところに。
私がいいなと思ったのはマグダがクレッチマーの家に押しかけた後、
書庫の隙間から赤い裾が覗いていて…のくだり。
割と象徴的な部分だと思った。
結局クレッチマーは何を見てて、何が欲しかったんだろう。
「カメラ・オブスクーラ」と「ロリータ」だったらやっぱり「ロリータ」の方かな、と私は思う。
もちろん細部の凝りようは言うまでもなくなんだけど、
ドリーとマグダなら断然ドリーの方がすきだから。
マグダの悪女っぷりがただの年を取った悪女と同じそれで、なんとなくしっくりこない。
成熟しきれない素朴さとか、素朴ゆえの残酷さとかそういうものは幼いものの特権だと思う。
そういう幼さを存分に発揮してるドリーの方が私には魅力的だった。
全然関係ないけど「カメラ・オブスクーラ」っていうとどうしても
楠本まきと有村竜太郎が先に出てきてちょっと中二病っぽいイメージを持ってしまう。
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一人の妻子持ちの中年男性が一人の少女(悪女)に惹かれ、どん底に落ちていく過程の物語。
少女がすっごく悪女すぎるのに、それでも少女が好きすぎて妻と別れたくない中年男性。中年男性がもうどうしようもない描写をひたすら読者に読ませる物語なんです。
しかも、壮絶に救いようのない話で、ここまで中年男性を地に落ちるなんで、逆にもう清々しくなってしまうと思えてしまうほど残念さが残る。
全体の文体としてそれをなんでこんなにユーモアに書いちゃうの?
っていうツッコミを入れたくて仕方ない。
中島哲也監督の「嫌われ松子の一生」ように「話や展開自体が暗い作品もユーモア描写がすごい」みたいな作品になってます。
少女が好きになってしまって破滅するという意味では、こんな雰囲気で似てる谷崎潤一郎の「痴人の愛」が好きなんだけど、とはいえ、そんな変態小説ではないのであしからず。
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ストーリーよりもむしろ、人が誘惑・欲望に負ける瞬間や将来の希望や絶望を夢見る瞬間などを描く言葉の使い方にとても惹き付けられた。
「中年男が小娘に夢中になる」という展開にはそこまで引き込まれなかったにも関わらず、飽きることなく読めたのは、そのような言葉の使い方によって、登場人物たちの心情をすんなりと受け入れることができたからかもしれない。
特に誰かに感情移入したわけではないのだが、彼らの苦悩が胸に染み込んできました。
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ロリータを読んでから、ナボコフという作家に興味がわいて買いました。
前作よりも読みやすく、比喩もロリータよりかは息をひそめている感じがしてすらすらと読めました。
後半の盲目になった時の絶望感はすごかったです。描写から今見えている視界がきえたかのように、その時に感じる肌の風の感触とか、遠くの衣擦れの音とかも聞こえてくるような気がして・・・
読後感がすごいです。何とも、自らまいた種というべきなのでしょうけれど、娘と妻を捨てて他の女の所へ行ったとしても、この最後はあまりにも酷過ぎる。
恐怖がぞわぞわと眼球を撫でているかのような感覚。
クレッチマーも悪いけど、後半のマグダとホーンを見ていると微々たるものに思えます。
ドリアンナ・カレーニナの名前ににやり、としていた頃が懐かしいです。
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読み始めは今ひとつ話に入り込めない感があったが、中盤から一気に読まされた。 やはり、何かに溺れて落ちていく物語は面白い。(私だけかも知れないが...)
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ナボコフは、お話を作るのがうまい人なんだと気付かされる作品。
細部の言葉づかいに関心が向かいがちな後期のナボコフ作品に比べて、今作の構成は非常にシンプル。登場人物の役割がはっきりしており、無駄なく物語の進行に貢献する。細部の描写もあるにはあるが、冗長ではなく(ロリータのそれと比べてみるといい)、むしろ、一切の無駄がない(にもかかわらず何層にも折り重なっている)。
シンプルであるがゆえ、尚更ナボコフの才能を感じずにはいられないし、シンプルであるがゆえ、登場人物を徹底的に苛めぬくナボコフの意地悪さが余計に際立つ。
単純に小説として面白いので、力を抜いてナボコフを楽しみたい人にはうってつけではないかと思う。
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帯に書かれている通り「ロリータの原点」ともいえる作品。
妻子を持った中年の男が16歳の少女に惚れて家を出て堕落していくというか少女マグダの悪戯により強制的に堕落させられていく姿が描かれている。
ただの、少女との楽しげな不倫の恋だったら芸がないんだけど、マグダがなかなかのあばずれで、その未熟ならではの底知れない悪さが後半どんどんエスカレートして怖くなった。
特にクレッチマーが盲目になったのをいいことに愛人を一緒の家に住まわせ、せめて自分の部屋の色彩を教えて欲しいと頼むクレッチマーに愛人に吹き込まれたでたらめな色を教えるあたり、ぞくぞくした。ステレオタイプではない、悪意を悪意とも思わず振舞える本物の悪女。
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「ロリータ」とストーリー的に重なるところは大きいが、「ロリータ」ほど複雑でないぶんだけ、よく言えば気軽に、別の言い方をすれば〈読む〉という行為に無自覚に読める作品であった。
後半、盲目になったクレッチマーをマグダとホーンがあれこれ騙すが、騙される側の無力は解説にもあるように、読者と同じといえる。
また他方、騙す側のいやらしさ、見えないことが常にふくむいやらしさは、小説であれ何であれ輪廓や構造を有するものに内包されるものといえそうだ。
読者は常にマゾヒスティックにならざるを得ず、だからこそせめて、どうせ騙されるなら華麗に騙されたい。
小説において騙す側は、マグダのように、いやらしければいやらしいほど読者を惹き付けるのではないだろうか。