戦争論 上
戦争論 上 (岩波文庫)
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商品説明
ナポレオン一世により本質的な変貌をとげた戦争形態たる国民戦争を精密に分析して,近代戦争の特質を明らかにした戦争哲学である.なお,戦史の理論的問題に正しい視点を提示し,戦争と政治・戦争の原型・戦争の本性を明らかにする.軍事専門家のみならず,エンゲルス,レーニンなどにも多くの影響を与えた.
目次
- 目 次
- 序 文(刊行者 マリー・フォン・クラウゼヴィッツ)
- 方 針(著 者)
- 序 文(著 者)
- 第一篇 戦争の本性について
- 第一章 戦争とは何か
- 第二章 戦争における目的と手段
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紙の本
クラウゼヴィッツは戦争の本質を述べたが、バカ者たちはそれをハウツウ物へと読み替えていった
2002/11/09 01:43
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:くるぶし - この投稿者のレビュー一覧を見る
クラウゼウィッツの「戦争論」は、戦争がどういうものかを明らかにしようとする試みでしたが、その結論のひとつは、「戦争とは、その勝ち方の処方箋を与えてくれる理論(HOWTOもの)が成り立たないようなものだ」というものでした。つまり彼の「戦争論」は、軍人さんが欲しがっていた「戦争論」(HOWTOもの)があり得ないことを示すものでした。役に立たないだけならまだしも、実はこれから現れるかもしれない「役に立つもの」を始めから不可能だとする、まったく気障りなものだったのです。もちろんクラウゼウィッツの後も、軍人さんたちが欲しがる「戦争論」(HOWTOもの)は次々いろいろと開発されました。古典は新時代に相応しく読み返され、新しい戦争理論家が次々登場しました。もちろん戦争だって世の中から廃絶された訳ではありませんでした。
ジョミニという人は(彼もクラウゼヴィッツと同じく、ナポレオン戦争の申し子でした)、軍人をして思考することを可能ならしめた人です。時は、ナポレオンの登場により、ヨーロッパにおける伝統的な「戦争の仕方」がご破算になり、みんながこれからは何をよすがに「戦略」を立てていけばいいのだろうと思っていた頃でした。ジョミニは、どんなに時代が変わっても(たとえばどんなにテクノロジーなどが発達しても)、あるいはどんな場所や地理的条件においても、共通する「戦争の仕方」のエッセンス、つまり戦略の一般法則が存在し、人はそれを知ることができるし、それに基づいて、戦略を決定することもできる、などと主張しました。彼こそは、普通の意味での「戦争論」の父です。つまり「どんな風に戦争したからいいか、どう戦争すべきか」について語ることが可能であると主張し、また自らもその信念に従い、自説を「戦争論」として語った人です。そしてジョミニは、同時代人であり、先になくなったもののその遺族が編集した著作により、次第ヨーロッパ中に影響を強めていったクラウゼウィッツを、「永遠のライバル」として強く意識していました。実際に罵ったりもしました。
ジョミニにひきかえ、クラウゼウィッツの主張はこうでした。国民総動員、全面対決、誰もが投入した戦力に見合うなにものも手に入れることのできない絶対戦争においては(もはや人は戦争する以上は、そんな具合に徹底的に戦争するだろうし、そうなってしまう他ない、というのがクラウゼウィッツの主たる主張です)、誰も勝利を得ることはできないし、また戦争においては原理的に「うまくやる」方法なんかはあり得ず、つまり「戦争の理論」は、戦争を分析し、戦争を構成する様々な部分とその結合をよりよく理解させることはできても、決して「戦争の処方箋」を書くことはできないだろう、と。総じてクラウゼウィッツは、戦争がどのようなものであり得るかを分析することで、ジョミニが主張したような「一般戦略論」が不可能であることを示していたのです。
けれども、先に述べたように、クラウゼウィッツもまた、「戦争のやり方」を求める軍事理論家たちによって、まるでジョミニのように読まれることになります。たとえばMUSTを「〜であるにちがいない」としてではなく、「〜しなければならない」という風に読んでいくこと。クラウゼウィッツが「これからの戦争は、誰もが投入した戦力に見合うなにものも手に入れることのできない絶対戦争となるにちがいない」と書いているのに、軍事理論家たちはそれを「これからの戦争は、絶対戦争(国民総動員、全面対決な戦争)を行わなくてはならない」と読みかえていったのです。
たかだか、「そのように生きた人があった」と告げただけのことば(自伝)が、例えば「人はこう生きなくてはならない」(人生論)へと読み違えられていったように。
紙の本
人類精神文化進化の勧め
2006/12/24 09:57
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:濱本 昇 - この投稿者のレビュー一覧を見る
戦争は、不必要悪である。しかし、45億年の生命の歴史において、その頂点に立った人間は、遺伝子に闘争という二文字が記憶されているものと考える。従って、戦争とは、人間の本能的な行動だと思うし、それを論理的な意味で世界で初めて世に問うた本書を読む事は、意義の有る事と思い、本書を手にした。
本書は、解説でも述べられていたが、翻訳家が苦労する程、難解な書である。つまり、文字を直接訳しても意味が通らず、行間を読むという姿勢が必要なのである。その意味で、非常に難解であった。正直言って、どんな内容だったか理解出来たとは言えないと思う。唯、世界で初めて「戦争は、政治の手段である。」と定義付けたのは分かった。ナポレオン以降の近代戦では、正しく、この論理で戦争が世界において、展開される。それは、第2次世界大戦の原子爆弾の投下まで続いたと思う。しかし、核兵器という大量殺戮兵器が科学の手によって人類に齎されてからは、その論理は通用しなくなったと思う。映画「クリムソンタイド」でディンゼル・ワシントン扮する副長は、言う。今は、「戦争そのものを避けるのが、軍隊の役割である。」と。即ち、現代における戦争は、そのものが、人類を滅ぼし、勝利者の居ない結論しか導き出せないのである。ここに至って、人類に課せられた課題は、生命45億年の歴史の上に、更なる進化、つまり、生物的な進化を凌駕した、言ってみれば精神文化の進化が必要であるのだと思う。生物的進化は、人間が極限の姿である。しかし、精神文化の進化においては、我々は、エジプトと大差が無いと思われる。ここに人類の可能性と限界を感じるのである。生物的進化の極限に居る我々は、また、宇宙への進出等、科学力を駆使した進化の目も見せている。しかし、精神文化という内なる進化は、科学力など一切関係無く、また、お金も必要無しに可能な進化なのである。本を読み、考え抜き、何が本当の在るべき人類の姿なのか?私も含めて全人類に問うてみたい質問である。