カラマーゾフの兄弟 みんなのレビュー
- ドストエフスキー, 亀山郁夫 (訳)
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カラマーゾフの兄弟 1
2007/05/21 01:50
とにかく読みやすい!なぜ?
39人中、38人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Living Yellow - この投稿者のレビュー一覧を見る
昔から何度もトライして挫折した作品であった。「ロシア人の長台詞が…」などといろいろと自分に言い訳していた。今度も半分あきらめつつ注文して、積んでおいた。
ある夜、ふと思いついて読み始めた。するする読めるのである。寝る前に少しずつ雑に読んだとは言え、3巻読むのに正味全部で24時間かかってないのではないだろうか。
何度も挫折した新潮文庫の原卓也氏訳を引っぱり出して、ちょっと比べてみたが、新版を3巻まで読んだ目で見ると、こちらも名訳である。漢字が減ったのかなと思ったのだが、漢字の量が格段に違うわけでもない。新潮版(改版)が全3巻、こちらが全4巻。総ページ数が違うため、活字の密度が違うのかなと思ったが、両方とも(光文社版はエピローグに解説を加えて別巻が刊行される予定だそうなので、正確には全5巻だが)本編のページ数には大きな差は出ないようだ。。
たしかにレイアウトは柔らかい感じがして、章、節の区切りもわかりやすい。各巻のあとがきに前巻のていねいなあらすじ・物語の背景説明が添えられているのも助けになったのかもしれない。各巻付属のしおりに登場人物一覧表がついているのも便利だった。
でも、それだけでは説明がつかない気がする。
本書は本当に登場人物が長々としゃべる。今回の翻訳では、以前何度も悩まされてきた、この登場人物の長台詞にテンポのよいリズムが感じられ、自然に、読者を「ノリ」に巻き込む感じがするのだ。これまでつっかえていたところで、逆に「ノれる」というか。
本書の内容について評価する資格など私にはありませんが、とにかく、ン十年前から読みたくて挫折してきたのが、このバージョンでは3巻までさーっと楽しく読んでこれたということをお伝えしたくて。失礼しました。
カラマーゾフの兄弟 1
2006/12/09 03:38
この勢い、このリズム!「古典を学ぶ」ではなく「面白いから読む」傑作
21人中、20人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:R_for_KOK - この投稿者のレビュー一覧を見る
いわずとしれた、文豪 ドストエフスキーの未完の傑作。
これが新訳になって登場。
しかし、この訳文のなんと勢いの激しいことか。
ドストエフスキーの序文から、軽快なリズムが刻まれ、脳が翻弄されていく感覚。
本編に入ると、次々に勢いよく言葉が飛び込んできて、思わずクラクラしてしまうほど。難解な言葉を避けて、分かりやすく訳された文章のおかげで、ガンガンと読み進みます。
試しに、途中で新潮文庫の旧約版に目をやると、こちらはやはり、落ち着いた流れで、脳に問いかけてくる感じ。これはこれでやはりいい。
もちろん、内容は同じ。しかし、これだけ違う。面白いです。
古典文学というと、「勉強のため」にと思って、しぶしぶ読む人もいるでしょうし、「勉強っぽいから」と避ける人もいるでしょう。
しかし、そんな思いは忘れてください。何ひとつ面白くないのに古典として愛される小説などないのです。この本だって、面白いからこそ長く愛されているのです。
今の時代に生まれたベストセラーを読む気持ちで、ぜひ読んでみて下さい。
この訳文、非常に読みやすいのです。
お勧めです。
カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻
2007/08/24 11:50
名訳でたどりついた大長編の余韻
17人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:伊豆川余網 - この投稿者のレビュー一覧を見る
2006年夏刊行の第1巻以来約1年、5冊目にあたるこの別巻の刊行で「光文社古典新訳文庫」版の『カラマーゾフの兄弟』が完結した。
この1年、仕事の合間に何冊もの本を読んだが、この『カラマーゾフの兄弟』2巻以降の4冊ほどその刊行を待ち望み、刊行されるや夢中になって読んだ作品はない。とくに、3巻目が出た年初以降は間隔が長く、次巻の出現が文字通り渇望された。
春が終わり夏が近付くと、4巻が最終巻ではなく、別巻というかたちで5冊目が出て、これが真の打ち止めになるという情報が紹介された。その前後から、本シリーズのある種「異様」な売れ行きも、各紙誌で採り上げられはじめ、渇きはさらに募った。カラマーゾフという媚薬(もしくは猛毒)をあつかう光文社の営業戦略にすっかりはまった格好だったが、読み終えた今、本書を出してくれた同社に感謝こそすれ、不満はない。
第4巻と本巻が同時発売されたとき、2007年の夏は、その後の記録的な猛暑をまだ予測させてはいなかった。4巻に引き続いてこの別巻に収録されたわずか60ページあまりの「エピローグ」を、残暑とは名ばかりの8月の盆休みの最中に読み終えてしまったとき、達成感よりも言いようのない寂寥感が、じわりと押し寄せてきた。
そもそも『カラマーゾフ』という小説の存在を知ったのは高校生のときだ。乱読を繰り返していた当時、『罪と罰』その他を文庫版で読んだあと、この作家の最高傑作と呼ばれる本書の深淵に立ち淀んだ。同じ新潮文庫で挑み、挫け、岩波文庫でもだめだった。どうしても、第1部の冒頭で思考停止に陥ってしまうのである。傑作に立ち向かえない自身の無能無力を呪ったこともあった。
爾来幾星霜。昨年この光文社版が出た際、その版元への既成のイメージもあって半信半疑、手にとった。恐る恐る開いて見た。読みやすい。なんとも不思議な律動感で、ことばが体に入ってくる。かくして、いとわしい父親の存在、不思議な3兄弟(主人公であり狂言回しであり、父や二人の兄に比べて「善」を振られているアリョーシャも、実のところ妙な人物である)と膨大な人物が織りなすこの長編に、この一年とことん参ってしまった。
自分のようなただの読書好きからすると、ドストエフスキー(の魅力をおそらく摘出してくれたであろう本訳書)の魅力は、輻輳する思想や信仰以上に、その話術にある。本書は、実は一人称の「私」が、カラマーゾフ家に起こった事件を語る体裁で書かれている。したがって、地の文はもとより、(とくに)三兄弟たちの長過ぎる会話も、壮大なる「語り物」の一部なのである。「語り物」である限り、盛られた思想以上に重要なのはテンポというかリズムであって、この光文社版が私を含めた大多数の読者に支持されたのも、そのあたりを工夫した、亀山郁夫の訳文にあったのは間違いない。
もうひとつ光文社版の成功を言えば、各巻(原作の「4部構成+エピローグ」という仕組みを反映した巻立ても良かったが)巻末に懇切なる「解題」が付されており、錯綜する物語を跡づけるのに有益だったこと。この別巻ではさらに、その集大成というべき長い解題があり、長編と格闘した後の読者の疲労を癒やしつつ、その世界と対峙した余韻を楽しませ(再度悩ませ?)てくれる。併載された、本作に重点を置いた略伝「ドストエフスキーの生涯」も、たいへん知見に富む。
読後一週間あまり、果てしなく続くかに思える今年の酷烈な暑熱を浴びつつ、心は、見知らぬ凍てついたロシアの大地に飛び、さまよっている。
カラマーゾフの兄弟 1
2007/09/12 00:02
巻末の訳者による「読書ガイド」は難解なこの作品を理解するうえでとても重宝である。適度な突っ込みだから読者の自由度を束縛することなく、ポイントをついた手引書になっている。そしておそらく訳者の個性的な翻訳姿勢によってこの書はいまや話題のベストセラーとして注目されることになったのだろう。
11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
世界文学の最高峰とまで言われるくらいのドストエフスキー文学は率直に言って難解である。私のレベルではすんなりとは読むことはできない。ドストエフスキーを読むには腹を据えて気合を入れてとりかかる、それがこれまで『罪と罰』『悪霊』をとにもかくにも読み終えた者の心得だ。さらに、できれば訳者を選択し、わかりやすい訳本を選びたい。これは岩波文庫の米川正夫訳『悪霊』にコリゴリして新潮文庫の江川卓訳でようやく読み通せた経験からである。新潮社の原田卓也訳が何年も積読状態にあって、しかし今回の亀田郁夫訳の刊行でこれがわかりやすいとの評判になって、とびついたものだ。
なかなか手に負えない理由の根本に私がロシアを知らないということがある。ロシアの歴史、政治、思想、宗教、文化、社会生活さらに国際的環境の変動などが小説のテーマと深く関わりあっている(いやむしろロシアそのものの縮図を描いているのかもしれない)のだから、ある程度の予備知識が欠かせない。腹を据えて取り掛かるというのはこのお膳立てのことにある。でもそれをやりはじめると、なにか勉強するとか研究するとか、読書する楽しさとは別の机の向かうとの堅苦しい気分になってしまって、小説世界に没頭できなくなるのだ。これは困ったものである。それでも『罪と罰』『悪霊』のときに仕込んだ知識が今回は役に立ちそうな気がしている。
冒頭「著者より」の序文が面白い。
「むろんだれにも、なんの義理もないのだから、最初の短い話の二ページ目で本をなげだし、二度と開かなくたってかまわない。しかし世の中には、公平な判断を誤らないため、何が何でも終わりまで読み通そうとするデリケートな読者もいる」
と、ある意味で読みにくさを自覚したうえでの挑戦的な宣告が掲げられている。「公平な判断」をするべきデリケートな資格はないのだが、山登りと同じ、なにがなんでもと、とにかく読んだという達成感をうるために私は読んだ。
ドストエフスキーが難解であることはどうやら小説の仕組みにありそうだと私なりに気づいたことがいくつかある。
第一に挿話がめっぽう面白いところである。登場人物の、あるいは登場人物の語るこれらの挿話はそれ自体のディテールにより時に長大であり、それ自体で重みあるテーマをもった一つの短編小説のように全体にちりばめられている。そこで私は目を奪われてしまう。愚かなことだが、読んでいるうちにプロット全体とのかかわりを見逃してしまうのだ。いつ、どんな状況で、だれがあの話をしたんだっけ?そんなことをしたんだっけ?と。つまりこれが単純な挿話ではなくプロットの重要なパーツであること、全体のなかにすっぽりとおさまるべきものであり、なくてはならないものだということが頭で理解しつつも、あまりにも独自性が強いものだから実際にはわからないままになってしまうことがあるのだ。それだけではなく、全体とはあまり関連性のない本来的挿話も混じりこんでいるのだから私には救いようのないジグソーパズルなのだ。すくなくとも一度読み通しただけではこの嵌め絵の完成作品を見ることはできないだろう。
第二に一つの事実に対して登場人物たちの心理に照らして複数の真実が存在することを語る小説だということである。それはひとえに人間の心の襞を解剖学的な緻密さで広げていく作業の積み重ねで構成されているからである。私が「それではいったい真実はなんだったのか」といらいらしながら作者に問いかけたくなる場面になんども遭遇する。しかも作者ドストエフスキーが客観的に叙述する構成ではなく小説は「わたし」という人物の語りでなっているのだからよけい始末が悪いのだ。
序文「著者より」にこんなくだりがある。
「とくに昨今の混乱をきわめる時代、だれもが個々のばらばらな部分をひとつにまとめ、何らかの普遍的な意義を探りあてようとやっきになっている時代はなおさらである。」
このくだりは今の漂流する日本に重ね合わせてもいっこうに差し支えないほど意味深長であるがそれはさておき、ドストエフスキー自身「人々に明快さを求めることが、かえっておかしいというべきなのだろう」と明快さをもともと放棄していることである。
第三に心理の複雑性に加え「言葉の多様性」といわれるところである。単純な例で「笑った」と表現されていてもこれが朗笑であるのか冷笑であるのか嘲笑であるのか苦笑であるのか失笑であるのか。その程度なら文章の前後でわかるかもしれないのだが、ある表現がロシアの精神風土を前提にした言葉となればもう降参である。しかもそれを日本語に変換したとなればわかりにくさの責任は訳者にもあると指摘してよい。
さてこの亀山郁夫訳だがうたい文句に「世界の深みにすっと入り込める翻訳をめざして………」とある。わかりやすい翻訳だと感じた。私は「すっと入り込め」た。おそらく「言葉の多様性」という難物がかなり解きほぐれているからだと直感する。翻訳の姿勢!もうひとつのうたい文句「自分の課題として受けとめた今回の亀山郁夫訳は、作者の『二枚舌』を摘出する」つまり亀山郁夫の主観がかなり入り込んだ翻訳にミソがあるようだ。私は亀山郁夫著「『悪霊』神になりたかった男」を読んだことがある。ここでは『悪霊』の中の「スタヴローギンの告白」をつまみ出し翻訳して解説している。それまでなんどか消化不良のまま『悪霊』を読んでいたが初めてこれで目からうろこが落ちた思いだった。にもかかわらずこの著書について批判があることも知った。おそらく彼が現代日本に軸足をおいた彼の視線で翻訳していたからだろう。本著もその姿勢があるから多くの現代人に受け入れやすく、読まれることとなったのではなかろうか。私はその翻訳姿勢を是とする。いろいろな読み方があるべきだし、ドストエフスキーだってそれを望んでいるような気がするからだ。
カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻
2007/10/16 22:00
『カラマーゾフの兄弟』に圧倒された1ヶ月だった。自分なりに咀嚼したつもりで読んだが、これからも何度か読むことになるだろう。そのときはまた別の感じ方をすることだろう。自分の生きてきた軌跡の長さに比例した奥行きの深さを見いだせる、なるほど最高峰と言われる文学作品だった。
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
ドストエフスキーの描く少年・少女だが、どれもこれも子どもらしさがない、かわいらしさがない、ひとことでいえばこわい。読んだ作品ではじめに印象的だった子どもは『悪霊』の少女マトリョーシャだった。亀山郁夫の『『悪霊』神になりたかった男』は亀山が『悪霊』から「スタヴローギンの告白」だけを抜粋し翻訳して解説している。亀山はマトリョーシャを10歳としている。親から虐待されるのだがその痛みの中に快感をおぼえる人格なのだから驚きだ。スタヴロ-ギン(幼児性愛癖もあるんだな、彼は)は彼女を陵辱する。実は江川卓訳を読んだ限りそんなシーンだとは気がつかないぐらい婉曲な表現だったのだが、亀山訳はやはり婉曲ではあるのだがズバリと本質をあぶりだす翻訳になっていた。彼女はそのあと「神様を殺してしまった」とつぶやき、首をくくって自殺するに至る。「父親殺し」ではなく「神殺し」である。亀山郁夫のこの解説を読めば、なんとも凄まじい、そして高次の自己主張ではないか。
『カラマーゾフの兄弟』にもリーザという少女が登場する。これも薄気味悪い存在なのだが、私には本書5にある亀山の「解題」を読むまでその役割がわからなかった。本当にそうなのかどうか、ここはあらためて読み直したいと思っているひとつのポイントである。
正体不明のリーザはともかく明らかに戦慄を覚える少年が13歳のコーリャだった。すでに「第4部 第10編 少年たち」(ここにも現代に共通する子どもたちのイジメル、イジメラレルのパターンが描かれている)に登場している。恵まれた母子家庭で献身的盲目的な教育ママの愛を一身に受けているが、一歩距離を置いてその母親を観察し、時には疎ましく思いつつも大人びた賢さで上手に折り合いをつけているのだ。彼がアリョーシャに熱弁をふるう。
「ぼくはね(馬鹿な)民衆というのを信じています。いつだって彼らを正等に認めてあげる気でいる、ただし、絶対に甘やかさない。これが必須条件なんです。」
と、これは2~3年前に流行した「仮想的有能感」をもつ「他人を見下す若者たち」にどこか共通するようだ。そして彼は野良犬を徹底的に飴と鞭で飼いならすのであるが、同様のやり方で哀れな少年イリューシャを支配し、少年たちの上に君臨するのである。通りすがりの若者に道端のガチョウを車でひき殺すことができるかと問いかけ、その気にさせて、首をちょん切らせるが、糾弾されると
「けっしてそそのかしてはいない単に基本的な考えを話しただけ、ひとつのありうる計画を話しただけ」
と邪悪の化身さながらに他人の運命をもてあそんでその成り行きを観察しているのだ。これはまさに『悪霊』のスタヴローギンに他ならない。また「審問官」を語り、スメルジャコフのあの行為を期待しているイワンの邪心でもある。
そのコーリャが様変わりする。マイナスのベクトルからプラスのベクトルへ。この作品にはたびたび驚かされたものだが………、この大きな振れによって「最終章 イリューシャの葬儀。石のそばの挨拶」は大長編のラストにふさわしい
盛り上がりをみせる。そこには死にゆくイリューシャの美しさがある。(このかわいそうなイリューシャがただひとり、純真な子どもとして登場している)その死の尊厳にうたれたのか?コーリャは奇蹟とも言える覚醒を果たすのである。ここまでいやおうなく分析的に読まざるをえなかった私も理屈をこえたなんともいいようのない感動で胸が熱くなる瞬間があった。
ただし、第3部で述べたアリョーシャの再生と同質で、やはり異様な狂気をはらんだなにかであるとの思いは消えず、このエンディング、手放しに満ち足りた心で読み終えるほど単純ではない。
第5分冊の亀山郁夫の「解題」について
すばらしい解説だった。なるほどそうであったのかと多くの疑問が解消されていく。やはりそうだったのかと自分の解釈が一致して安堵するところもある。そうじゃないのではないかと首をひねるところだってある。また亀山氏にも解釈しきれないままに残されたこともある。ひと通り読み終えた読者がこの「解題」と一体になって読後感を味わえるのだ。
氏はドストエフスキーの作品を抜本から消化し、ドストエフスキーの人物を徹底的に分析していくなかで『カラマーゾフの兄弟』について氏独自のイメージを見出したのだろう。「解題」のエッセンスはそのイメージの結晶なのではないだろうか。そしてこの結晶に向けて丁寧に具体的な翻訳作業を進めたのではないか。さらに言えばそのイメージには漂流する現代の日本と重なるところが多くあったに違いない。なぜ今この著作がわかりやすいカラマーゾフとして多くの日本人にうけいれられたのか、その鍵はこのあたりに潜んでいる。
「日本のどこかで、だれかが、どの時間帯であっても、常に切れ目なく………それこそ夢中になって『カラマーゾフの兄弟』を話し合うような時代が訪れてほしい」
と夢をみる氏の熱い思いが全編を貫いている。
カラマーゾフの兄弟 2
2009/12/23 00:20
カラマーゾフは中心からこの世を問い直す。
5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る
亀山先生による『カラマーゾフの兄弟』の新訳は累計で100万部を
越えているということだが、いまどきそんな国、あるんだろうか。
4部構成の本書は、第2部をもって文学史上の峰々に連なることとなり、
21世紀日本国の文学市場にも山脈を築き上げてしまった。
やはり第2部である。第2部の後半である。
当時において、神を問い直す、神に問い返す、その、凄み。
そういえば、三島由紀夫の絶筆で日露戦争の残影から始まる
『豊饒の海』4部作も第2部である高みに達してしまったように
感じたが、それはもしかしたら、カラマーゾフ第2部の大審問官が
三島翁の脳裏に焼きついていて、極寒ロシアのウォッカ的熱情が
知らず知らずのうちに、戦後日本を焼き尽くすような表現に
結びついてしまったのではないだろうか。そこに全く根拠はないけれど、
今もなお、カラマーゾフはキリスト復活を問い直す第2部大審問官に
よって、文学なき世界のニッチ市場に揺さぶりを掛け続け、ニッチ
だらけになりそうな愛と幻想の世界市場で鮮やか過ぎるほどに復活して
しまうのだろう。
その引き金を引いたのは、問い直した亀山先生だ。
すでに日本文学界は、アメリカ文学を問い直した柴田元幸先生と
ロシア文学を問い直した亀山先生を擁しており、あとは両者を
越境するような村上春樹氏が熱情の彼方の世界を問い返すプロセスを
見届けるだけとなっている。
もしかしたらカラマーゾフが書かれた頃、文明は第2部だったのかも
しれない。そして今、第3部あたりが終わりを迎え、第4部に入りつつ
あるのかもしれない。仮にそのステージが恥辱にまみれたもので
あったとしても、それでも第4部を迎えるにはカラマーゾフ第2部的な
熱情は、必要だったんだと思う。その余韻の中で、余韻であると
自覚しつつ、我々もロシアからの風に吹かれて問い直そう。
神をも問い直すカラマーゾフとは誰なんだ?と。
カラマーゾフの兄弟 2
2007/09/18 19:52
全巻エピローグまで読み終えたものの混沌の宇宙に放り出されたような頼りないいらだたしい心境にある。最後にある亀山郁夫の解説を読むことは中断してこの酩酊状態をしばし楽しむことにしよう。
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
これはもともと未完の作品だから仕方がないのだと割り切ったってかまわないのかもしれない。前文の「著者より」が暗示するように「個々のばらばらな部分をひとつにまとめ、何らかの普遍的な意義を探りあてようとやっきになって」も徒労になる、そんな作品なのかもしれない。それにしても「個々のばらばらな部分」がスポットライトをあびて鮮明過ぎるくらいに浮かび上がり、強烈な印象をもって心に刻みこめられるのだ。
たとえばホフラコーワ未亡人の娘、リーザ。からだの弱い14歳の少女なのだがアリョーシャを愛している。個性的で忘れられないパーソナリティがある。アリョーシャは彼女と婚約するのだが………。このふたりの心理は描き足りないのかよくわからないし、物語全体の中でどういう意味合いがあるのだろうか。
それにしてもドストエフスキーの作品に登場する女性だが、その人格の現代性にはびっくりさせられる。日本で言えば幕末から明治初期が舞台だが当時の日本女性では考えられない自己主張、存在感、精神的自立を備えている。リーザもそうだがリーザの母、裕福なホフラコーワ夫人、フョードルとミーチャの争いの元になる妖艶な美女、グルーシェニカ。極貧の生活にある少年イリューシャの母、狂気の人、チェルノマーゾフ。なかでも印象的な女性はカテリーナである。ペテルブルグの女学校出のインテリ美人、しかし、愛と憎しみ、誇りと屈辱の板ばさみを自覚し時には錯乱しながら、ミーチャとイワンと自分自身の内面的三角関係に身もだえする。このカテリーナは「父殺し」の裁判でミーチャに決定的に不利になる証言をするのだが、たとえば、さてこの女性心理をどう解釈するか、ミーチャとイワンのどちらを愛していたのか、仲間内で議論すれば喧々諤々かなり有意義な時間を過ごせるのではないか。
ところで『カラマーゾフの兄弟2』はなんといっても「第二部第五編プロとコントラ」にあるイワンの創作詩「大審問官」とアリョーシャの記述「ゾシマの伝記」、この二つのずっしりとした挿話には圧倒される。すでに第一部では長老の部屋で国家と教会の関係が議論され、またスメルジャコフの神の不在論が開陳されている。キリスト教そのものにメスが入れられるのだ(ローマ・カソリックへのメスかもしれないのだがすくなくともには私の手には負えない)。人類史における支配と被支配の起源、神と悪魔の境目、それだけではない現代民主主義政治の混迷を予見するような不条理観。これらを包括した大審問官によるキリスト糾弾の論理はそのとおりだと私には思えるいっぽうで私は信仰の人・ゾシマの語りには心の安らぎを感じるのだ。ただし、私の理性的理解と感性的感覚はせいぜいそこまでしか及ばない。大審問官とゾシマは対立関係にあるのだろうか。そうとも思えないところだってある。カラマーゾフの家族のだれをこの二人に重ねようとしているのだろうか。それにしてもこの肝心なパーツがどのような役割を果たしているのか作品全体の中での納まり具合がさっぱりなのだ。これは残念なことである。読み終えて消化不良のままだから居心地は悪いのだが、主な原因はここにある。
まるで万華鏡の世界に入ったかのようだ。真も偽も、正も悪もごちゃ混ぜになって常に変化し続ける世界である。しかし中心は変わらない。万古不易のその中心をめぐって対称的にもろもろの変化が生じている。中心ってなんなのだろう。人類の叡智?神の存在?東洋哲学にある道?私はそこで酩酊しているのだ。
だが、今は余裕をもってこの居心地の悪さに甘んじよう。『罪と罰』を読んだときも『悪霊』を読んだときも同じだった。また時を変えて読もう。訳者の解説も読もう。そしてやがて自分勝手な解釈の中で納まりのよさを感じられる時を迎えることもできよう。
カラマーゾフの兄弟 1
2007/04/25 22:01
ヨブ記から連なる古典の雄
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:TAKESHI536 - この投稿者のレビュー一覧を見る
素晴らしく読みやすい。「カラマーゾフの兄弟」がドフトエフスキーの最骨頂であることを実感する。
「理不尽とは?」、この聖書から連なる人間としてのはじめの苛立ちを描くもっとも良心的な作家。
ただ理不尽を描くだけではない。とにかくユーモラスなのである。少なくともこの第一巻は初めから最後まで途切れず笑える。その笑いはすべてのインテリの全身を包み込む可笑しさとばかばかしさ、生きていることに前向きになれるから、不思議だ。
登場人物の誰かにあなたが投影されないことはあるまい。売春婦、その敵の貴婦人、兄弟の破滅的長男、現実的次男、天使の三男、その血の源流の父親…
カラマーゾフの兄弟 1
2009/09/21 23:30
本書が爆発的に売れる理由。
7人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:反形而上学者 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は全5巻だが、現時点において総数で100万部を突破したらしい。
登場人物の名前も覚えにくいし、ネタバレするのでストーリーには触れられないが、我々日本人から見れば、かなり不自然であるし、非日常的な物語であるといっても差し支え無いと思う。
それでも、なぜこれほどまでにドストエフスキーの本が若者を中心に売れるのだろうか・・・そういうことを、少々考えてみた。
私も久しぶりに、『カラマーゾフの兄弟』は昔、高校時代に買って読んだ本があるにもかかわらず、この光文社の新訳を思い切って買ってみた。
私自身の久しぶり読書は、やはりけっこう読むのがしんどかった。まあ、すでに内容を知っているということもあるのだが、どうしても次から次と起こる事態と、それに対する、登場人物の心の動きに、共感できなかったのである。
そして相変らず名前が日本人には馴染めないというのも、やはり変わらなかった。
しかし、そういう私の感想とは裏腹に、本書を楽しんでいる多くの若者の気持ちが突然解りだしてきた。それは、こういうことだ。
数年前に「たわしコロッケ」なるものが出てきて、多くの人を驚かせた、大人気の「昼ドラ」があった。以来、「昼ドラ」は好調で、極端なストーリー、有り得ないような設定で、次から次へと「昼ドラ」の量産が始まった。
もちろん、今も「昼ドラ」は好調である。
私はこうした「TVの昼ドラ」のような展開に慣れて、それを好む層というのが、出来上がってしまったのではないかと、実は思っている。だから、本書も「昼ドラ」のような感覚に解釈し直されて、読まれているというのが、真相ではないであろうか。
違いますかねえ・・・・。
カラマーゾフの兄弟 4
2007/10/06 17:50
16歳の少女が斧で警察官の父親を殺害した。つい最近の出来事である。同種の事件は過去にもいくつもあった。現在日本の刑法に尊属殺人という概念は消えている。にもかかわらず私たちには大変ショッキングな犯罪である。私のどこかに親は敬うべきものと儒教思想の残滓があるのかもしれない。
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
『カラマーゾフの兄弟』が扱うのはキリスト教社会において最悪の犯罪とされる父殺しだが、今の私には同様の重さでこのテーマを感じることができる。
第4部はミーチャが父殺しの容疑で起訴された裁判シーンでクライマックスを迎える。はじめにびっくりしたことだが19世紀末の裁判が公開の場でしかも検事、弁護士、裁判官、陪審員が均衡をなし、証拠主義が一貫するなど公平が担保される現在の裁判制度と同質のシステムでおこなわれていた事実である。
ところで、ミステリーには法廷ミステリーというジャンルがあって、そこではこれら当事者の丁々発止のやりとり、意外な展開が魅力的なのだが、このジャンルの上質な現代ミステリーを読む同じ興奮と迫力と意外性で「第12編 誤審」を楽しむことができる。それは現代の裁判制度と同質のシステムが機能しているからである。
そして文豪ドストエフスキーの推理小説家としての異能ぶりにも舌を巻くことになる。心理学の名手とされる頭脳明晰な検事補・イッポリートの立論も凄いが、対する「天才的」弁護士・フェチュコーヴィチの手腕には目を見張るものがある。現代ミステリーに登場する辣腕弁護士そのままに検察側証人の証言のあやふやさを突き、あるいは証人の人格上の問題をあげつらう変化球など、とにかく、時代のズレを全く感じさせない攻守戦の展開がある。この作品にはいろいろと難解さはあるものの、そこはあっさりと読んで、父殺しの謎解きだけ追った読者でもここで満足できるのではないかと思われるぐらいだ。
ミステリー論はさておき、フェチュコーヴィチの弁論には別な観点での新鮮な思想が見出され、ここでも私は驚かされた。彼はミーチャの無罪を主張するのだが、次善の策である情状酌量を念頭に置いて、キリスト教の倫理感覚とは肌合いの違う論理的で説得力のある父親論を展開する。
「子どもをもうけただけではまだ父親ではない。父親とは、子どもをもうけ、さらにそれにふさわしいことをした者のことだ」
『父たるものよ、汝の子らを悲しませるな』
性欲のままに子をなし、愛情のかけらも示すことなく、食うものも身につけるものもろくにあたえず、常識、分別を教えることを放棄した父親に父の資格はない。子が青年に成長しようが
「父親と呼ぶに値しない父親の姿は、とくに、ほかの同世代の子どもたちのりっぱな父親とくらべた場合、青年の心にいつのまにかなやましい疑問を呼びおこすものなのです」
被害者・フョードルがそういう親であった………と彼は断言する。したがって
「こんな父親を殺しても、父殺しとは呼びません。このような殺人を父殺しと見なすことができるのは、ただ偏見によるのみです!」
ここで父殺しを最悪の罪とするキリスト教社会の倫理観を偏見と言い切るのだが、傍聴者のほとんどがこの論理に感動し、賛同する。読んでいる私も人の子、父親だ。内心忸怩たる思いを持ちながら同感します。まして最近の親が子に加える虐待、冷酷の数々を見聞きしているからなおさらだ。19世紀末のロシアのお話とはとてもとても思えないではないか。このくだりは「第十二編 誤審 第十三章 思想と密通する男」なのだが、「思想と密通する」という倫理と論理が微妙に綾なすこのタイトル、なんと思索的かつ文学的修辞であることよ!
ところでわが国で尊属殺人の刑の加重が廃止されたのは1973年の最高裁判決を経てまだ最近の1995年の刑法改正である。事実、そこでは大宝律令以来の刑法の原則について、被害者・尊属に重大な過失があっても加害者・卑属を例外なく重罰にする必然がどこにあるのかと問題にされたのだ。つまり同じことなのである。フェチュコーヴィチは時を超えて現代の日本に生々しく登場したわけだ。
このシーンだけではない。遠くドストエフスキーが伝えるところの多くは今を生きる私たちにとっても同じ波長のメッセージであって、それだからこそ驚きをもってさらに強く大きく共振させられるのである。ドストエフスキーは未来を予見できた人だとちょっと神秘性を誇張した見解がでるのも不思議ではない。しかし、千変万化する世の中であって、明日は今日の延長にはないのだが、一方いつになってもどこにいても変わらないところが同居しているものだ。人間、あるいは人間の営みにある普遍性だ。ドストエフスキーはいくつもの極限状況に遭遇した原体験から人並みはずれた洞察力を持っていて、この普遍性を摘出することができたのだろう。ドストエフスキー、その人物の大きさははかりしれない。
大勢の個性が登場する。その個性の断片に自分にも似たところがあるなと感じる。あるいは身の回りの人にその影を見出す。さらに日本の現状に同様の悲喜劇性を重ね合わせることができる。ドストエフスキーを読む楽しみはこんなところにもある。
カラマーゾフの兄弟 3
2007/09/27 18:04
『カラマーゾフの兄弟』は第一の小説と第二の小説の構想があって第二の小説は書かれていないのだが序文「著者より」によれば全体として三男アリョーシャを主人公にしている。ただこの第一の小説ではアリョーシャの影は薄い。とはいえ「第三部第七編アリョーシャ」には引っかかるところがあって読み返したら、独断的なアリョーシャ印象をくどくどと書いてみたくなった。
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
どんなにスッと入れる名訳でも原書そのものにある難解さをときほぐすのは容易ではない。特に宗教に関連するイメージは私のもっとも苦手なところです。第一部、長老の部屋での「国家と教会の二元支配論」またスメルジャコフの「神の不在論」、第二部、イワンの「大審問官」など観念的哲学的な宗教論はどうにか頭で整理することはできる。だが現実世界にはどう映し出されるのか。煩悩につきまとわれるこの世にあっては、教会に集うことを習慣にしていると人たちいえども俗人はそんな高次の精神とは無関係に生きているのだ。その一般の人たち(信仰心の篤い人や多くの聖職者を含めて)にはおそらく俗っぽい神や悪魔が存在しているのだろう。私は日常に神とつき合っているのではないから、なにが神の作用でなにが悪魔の作用なのか、このあたりのことはとんとわかりかねるのだ。
消化不良の胃の中にある肉の塊は大いに存在感があってそのひとつが「第三部第七編アリョーシャ」となればもう一度口に戻して咀嚼してみたくなる。100ページなので三度読んだ。
おぼろげながらこの第七編は現世に降りた神と悪魔の美しくも妖しい交錯が描かれていることに気がついた。
ついにゾシマ長老が死んだ。だれからも愛され尊敬されていた。そして人々をひとしく慈しむ。謙虚で優しく高潔な精神と深い信仰心。いまなら予知能力ともいえる神秘的力もそなえているようだ。私にはキリストの再来を表現しているのではないか思えるぐらいの聖人だ。まもなく死を迎えることを知らされた人々、身分、貧富を問わずすべての人々が神に召されるにあたっての瑞兆、大いなる奇蹟が必ず目の前で起こると信じていた。私だって大いに期待していた。アリョーシャだってそうだった。
ところがどうだろうか、期待は裏切られる。遺体が考えられない速さで腐敗しひどい腐臭を放つのである。なんという忌まわしさだろうと私だって呆然となる。人々というものは残酷なものだ。尊敬が侮蔑に、信奉が猜疑に、人々が抱いていた偉大な人・ゾシマに対するイメージはひっくり返る。神に祝福されるべき聖人は逆に神に呪われた者であった。鼻をつく腐臭がその啓示であると人々は受け取ったのだ。まえまえからゾシマの批判者であったフェラポント神父は狂ったように悪魔だと告発する。ゾシマは弾劾と軽蔑と汚辱にまみれてラストステージに横たわったのだ。
一言で背筋がゾックとするような衝撃的展開だった。私の記憶にある不可解なあの展開と同じだ。それはキリスト磔刑のシーンだ。神が存在するなら、なぜあれほどの残酷な死を前にして神は奇蹟を起こすことなくただ沈黙し続けるのか。
そして混乱の最中に、アリョーシャの精神は短時間で、いく段階もの劇的な変容を遂げる。これが凄い。第七編はまさにこのためにある。
アリョーシャはゾシマ長老に愛され、またゾシマ同様すべての人に親しまれる信仰の人である。非の打ちどころないやさしい心の純真な若者として私の前に登場していた。
その彼が人々の露骨な背信の光景を目の当たりにしたとき、思いもよらなかった神の意図に愕然とし、不動であった信仰心が動揺するのである。
「僕はべつに、自分の神さまに反乱を起こしているわけじゃない、ただ『神が創った世界を認めない』だけさ」
と神を否定する兄イワンの言葉をひいてゆがんだ含み笑いを浮かべるのだった。彼は落胆の淵にいるのだが、私にはそれでこそリアルな人間なんだと、私との距離が縮まったように思えた。
そして彼なりのいくつかの啓示を受ける。(売女ともいわれるグルーシェニカとの交歓、ゆめうつつの中にゾシマの復活など、この場面も見逃せない)突然、彼の魂は喜びに満ちる。頭上には輝く星たち。微動だにしない静かな夜の大地。大自然の善と美に抱かれて彼の精神は飛翔する。神々しく美しいシーンである。宇宙の法則に導かれた魂の解放だと私には思える。それは東洋的には「悟り」である。『罪と罰』のエピローグ。ラスコーリニコフがあたたかい陽射しを浴びて、広野のなかに自由な遊牧民たちの生活を認め、喜びと幸福に満ちた復活をなす。あの高揚感と同じ感動をおぼえた。
だが、最後の変貌には鬼気迫るものがある。
「この天蓋のようななにかしら確固としてゆらぎないものが………自分の魂の中に降りてくるのを感じとった。なにか理想のようなものが、彼の頭のなかに君臨しつつあった」
「倒れたときにはひよわな青年だったが、立ち上がったときには生涯変わらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた」
これまでのアリョーシャとは似ても似つかぬ人格ではないだろうか。「確固としてゆらぎないものの(降臨)」「理想」「君臨」「戦士」。そこに謙虚なアリョーシャは消え、ひどく傲慢ななにかに変わったかのように私には思える。
観念的神学論よりも現実世界での善悪論のほうが私にはツッコミが容易である。だから、あえて言いたい。彼はだれのために戦うのか。だれを敵とする戦士になるのだろうか。イスラム対キリスト教の宗教戦争ともいえる現代の戦争がある。双方にとって相手は悪魔である。生まれ変わったアリョーシャははたして神か悪魔か。それともいつの時代の青年にもありうる夢のような理想への熱狂にすぎないのか。
カラマーゾフの兄弟 4
2007/09/24 14:51
ドラマはクライマックスへ
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:桑畑三十郎 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「第11篇 兄イワン 5 あなたじゃない、あなたじゃない!」の章で、イワンとアリョーシャが、誰が父フョードル・カラマーゾフを殺したかについて議論している時、イワンはカテリーナが、長男ドミートリーが父を殺したことを数学的に証拠立てる文書を持っているという。それに対し、アリョーシャはそれを否定し、イワンにこう言う。「ぼくが知っているのは、ひとつ」「父を殺したのは、あなたじゃないってことだけです」と。イワンはこのときすでに精神を病みはじめていた。心優しいアリョーシャはそれを知っていた。それなのになぜこんな思わせぶりなことを言ってイワンを苦しめたのだろうか。疑問に感じていたが、この点について、エピローグ別巻解題280ページに詳しく解説されていた。この小説の奥深さを改めて感じさせられた。
「9 悪魔。イワンの悪夢」の章では、イワンが幻覚である悪魔と対話する。そこで悪魔は言う。「もしかしたら、いまの地球自体、もう十億回も繰り返されているかもしれないんですよ。いったん寿命を終えて、凍りついて、ひび割れて、粉々に砕けて、構成元素に分解して、それからまた、大気にわけのわからない溶媒が満ちて、それからまた彗星が現れて、太陽が現れて、またまた地球が生まれて -」 ここで地球が凍りつくと悪魔は言っているが、それはガブリエル・ウオーカーが著書「スノーボールアース」で述べている過去数回、全地球が凍結したという説と一致する。また地球自体が繰り返されるというところも川合光著「はじめての超ひも理論」で述べられている「我々はビッグバン、ビッグクランチのサイクルを繰り返した後の宇宙に住んでいる」という説と共通するものがある。これらの説が提唱されたのはごく最近のことである。ドストエフスキーは自然科学についても驚くべき先見性があったということがわかる。ちなみにこの章で「ホザナ」という言葉が出てくるが、これは新潮文庫版(原卓也訳)の訳注によると、「神の賛美」という意味らしい。
さて「第12編 誤審」で、いよいよドミートリー・カラマーゾフの父殺しの裁判が始まる。「4 幸運の女神がミーチャに微笑みかける」の章で証人に立ったアリョーシャは、突然ミーチャとの別れ際の仕草について思い出す。これは第1部421ページに登場するエピソードだ。第1部終盤の出来事を、第4部の大事な場面で急に主人公に思い出させるあたり、ドストエフスキーが読者の記憶力に挑戦しているようで、改めてこの小説の構成に感心させられる。その後証人に立ったイワンはスメルジャコフから預かった金を証拠として提出し、ドミートリーは犯人でないと証言する。しかし幻覚症がひどくなったイワンの言うことを誰も信用しない。そこへヒステリーを起こしたカテリーナが前述のドミートリーが父を殺したことを数学的に証拠立てるという文書を暴露してしまう。法廷内は混乱していく。さあ裁判の行方はどうなるのか。物語は怒涛のクライマックスへと突き進む。
カラマーゾフの兄弟 4
2018/04/09 16:45
本当にミーチャが殺したのか?
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投稿者:Ge.UK - この投稿者のレビュー一覧を見る
という観点から読んでいると、善人アリョーシャの言葉が引っ掛かります。彼が、知っている事実があれば包み隠さず打ち明け嘘はつかないという意味での善人なのか、あるいは兄弟を守る為なら嘘も厭わないという意味での善人なのか…という探りどころが出てきます。
ここに着目することによって、法廷で争われているミーチャが殺したのかあるいは癲癇持ちの料理人が殺したのかに加え、さらに別の容疑者が浮かんできます。
カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻
2016/09/25 12:19
いよいよロシア名作の最終巻です!
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「エピローグ」では、主人公たちのその後が描かれます。彼らはそれぞれに、どんな将来が待ち受けているのでしょうか。訳者である亀山郁夫氏が渾身の力で描いた「ドストエフスキーの生涯」と「解題」は、この至高の名作を味わうための傑出した素晴らしいガイド=指針となるにちがいないでしょう。ぜひ、最後の一巻を味わって読んでいただきたいと思います。
カラマーゾフの兄弟 4
2016/09/25 12:16
ロシアの文豪ドストエフスキーの名作第4巻です!
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、ドストエフスキーの名作の第4巻です。11月はじめ、フョードル殺害犯として逮捕されたミーチャの周りで様々な人が動き出します。アリョーシャと少年たちは病気の友達を見舞い、イワンはスメルジャコフとあって事件の真相を究明しようとします。そして、いよいよ裁判が始めります。ここで下された判決とはどのようなものだったでしょうか?ロシアの民衆の真意とは一体なんだったのでしょうか?いよいよクライマックスに近づき、読者は目も話せないストーリーに魅了されることでしょう。