紙の本
メタフィクションの王道
2018/05/13 17:17
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投稿者:病身の孤独な読者 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「あなたは今『冬の夜ひとりの旅人が』を買いに行こうとしている」という冒頭からメタフィクションを駆使する作品。本書の内容は複雑ではあるが、メタフィクション初心者にとっては入りやすい書籍だと思われる。メタフィクションの意義の一つとして個人的には、作者の文章技能を知ることができることだと考えている。本書には、まさにカルヴィーノが巨匠らしく小説分野に関係なく様々な物語とその手法が詰まっている名作である。
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冴えわたるカルヴィーノ節
2019/01/25 23:46
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
カルヴィーノいうところの「男性読者」である私は、インチキ翻訳家マラーナに惑わされることなく(多少は惑わされたかも)、彼の世界に引きずり込まれていけた。ということは、私は「女性読者」なのか
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物語の外側の物語…
2017/01/06 04:37
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投稿者:une femme - この投稿者のレビュー一覧を見る
物語を読む人、読む行為に焦点を当てた物語。そのため、ストーリーが進まないといえばいいのか、読みながら「小説」の外側を、うろうろすることになる。小説を読んでいるという感覚とは違う、不思議な本。
物語(ストーリー)を読むことに慣れているためか、どうしても戸惑いを覚えるが、、本に向き合う人(主人公)のぼんやりした輪郭が、心許なくも、親近感をもたらす(人称とその行為ゆえだろう)。
忍耐強く読み進めたいと思う。
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あなたはイタロ・カルヴィーノの新しい小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている。しかしその本は三十頁ほど進んだところで同じ文章を繰り返し始める。乱丁本だ。あなたは本屋へ行き交換を求めるが、そこで意外な事実を知らされる。あなたが読んでいたのは『冬の夜ひとりの旅人が』ではなく、まったく別の小説だったのだ…。繰り返し中断され続ける小説を追いかけて世界をめぐる“男性読者”と“女性読者”の冒険。「文学の魔術師」による究極の読書小説。
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宮沢賢治に『注文の多い料理店』というよく知られた一篇がある。森のなかにある西洋料理店にやって来たハンター二人が、やれ、クリームをすり込めだの、金属でできたものを外せだのという小うるさい注文に、納得するべき理由を自分たちで見つけ出しながら店の奥に進むうち、ようやくその注文が、料理を食べるためでなく、自分が料理されるために出されていたことに気づく、やっつける側がやっつけられるという皮肉風味の香辛料をたっぷり効かせた上出来のコントである。
イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』を読みはじめたとき、その話を思い出した。というのも、語り手は、これから本を読もうと身がまえている読者相手に、やれ小用をすませておけ、足は机の上に投げ出せだのといった注文をやたら繰り出すからだ。まさに注文の多い小説家そのもの。そうして、早く本文を読みたいとあせる読者を焦らしながら、ようやく語りはじめた『冬の夜ひとりの旅人が』という話は、話の途中で突然打ち切られてしまう。
第一章が終わり、第二章へと歩を進めた「あなた」は、そこにまたしゃしゃり出た語り手が本の乱丁を指摘する文章に出会う。十六ページ折りの造本で三十二ページ分がそっくりそのまま同じページが綴じられていたというのだ(確かめてみたが、そんな事実はない。出版社はそこまで馬鹿正直にテクストをなぞらないということだろう)。腹を立てた「あなた」は、本屋に駆けつけ苦情を言う。本屋の言によれば、製本上のミスにより、ポーランド人作家タツィオ・バザクバルの新刊小説『マルボルクの村の外へ』と入れ替わっていたというのだ。
つまり、それまで「あなた」の読んでいた小説は、イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』などではなく、ポーランド人小説家の手になるまったく別の小説だったわけだ。しかし、本好きの常として一度読みはじめた小説はその続きが読みたくて仕方がない。「あなた」は、カルヴィーノの小説など放り出し、バザクバルの小説はないかと本屋に聞く。本屋はさっき別の女性も同じことを言ったと答え、その若い女性ルドミッラを指さす。こうして、男性と女性二人の読者は出会う。
これ以降は、この二人の読者が、小説の続きを読もうと悪戦苦闘するストーリーが展開する。もうお気づきのように、どこまでいっても、『冬の夜ひとりの旅人が』という小説は完結しない。ポーランド人作家が書いたノワール風の小説が、チンメリアという相次ぐ領土分割のため、今は地上から消えた幻の国の言語で書かれた小説へと変わり、その名も『切り立つ崖から身を乗り出して』という別の作品が新たに登場し、というふうに次から次へと別の言語で書かれ、あるいは翻訳された別の小説に姿を変え続ける。
その題名だけ紹介すれば、『風も目眩も怖れずに』、『影の立ちこめた下を覗けば』、『絡みあう線の網目に』、『もつれあう線の網目に』、『月光に輝く散り敷ける落葉の下に』、『うつろな穴のまわりに』、『いかなる物語がそこに結末を迎えるか?』という、人物も筋も舞台背景も全く異なる十の小説が、その冒頭部分だけを、文学好きには分かる著名作家の文体模倣を施され、目も��やに展開される仕掛けだ。アルゼンチンのパンパを舞台に、ガウチョの登場する一篇はボルヘスだろうと見当をつけたが、あとは不勉強で知る由もない。
それだけでも愉しい仕掛けだが、カルヴィーノの愛読者にとって、もっとうれしいのは、その合間合間にはさまれる、作家イタロ・カルヴィーノの小説論だろう。自分の考える理想の小説とは、どういうものか。一度は書きたい究極の小説の形とは?読者として知りたい作家ならではのアイデアを、こんなに明かしてしまっていいのだろうかと思うほど、嘘も隠しも衒いもなく、あからさまに語ってみせる。こんなカルヴィーノ、見たことがない。
自身の分身として登場する作家サイラス・フラナリーは、自分が書けなくなった理由を「あらゆるものを含む」本を書くという「とんでもない野心、おそらくは誇大妄想的錯乱」のせいだという。マラルメ以来、文学者の抱く見果てぬ夢、すべてを包含した「一冊の本」というやつだ。しかし、そんなものはあり得ない。カルヴィーノはだから瞞着的手段に訴える。偽作者や剽窃者、怪しい翻訳家の姿を借りて、世に知られた世界文学の作家から日本人作家やソ連の反体制作家小説に至るまで、すべてのありそうな小説の断片をでっち上げたのだ。
「おのれの外にあるものに言葉を与えるためにおのれ自信を抹消しようとする作家には二つの道が開かれている。そのページの中にあらゆるものを汲み取り尽して、唯一の本となりうるようなものを書くか、それとも部分的なイメージを通じてあらゆるものを追求しうるように、あらゆる本を書くかである。あらゆるものを含む唯一の本とは完全無欠な言葉が啓示された聖なる書物以外にはありえないだろう。しかし私はそうした完全無欠さを言葉にこめうるとは思わない、私の問題は外にあるもの、書かれていないもの、書き得ないものを扱うことにある。私にはあらゆる本を書くよりほかにありうる限りのあらゆる作家の本を書くよりほかに道は残されていないのだ。」
このフラナリーの言葉をそのままカルヴィーノ自身の認識と重ねて読むほどナイーブな読者もいないと思うが、作家晩年の作品の中に披歴されていることを考えると、これまで様々な手法を試してきた実験的作家であるイタロ・カルヴィーノの考える集大成的な書物の姿と考えたくなる気にはなる。
一方で、この作品から分かるのは、カルヴィーノがただ作者が書きたい作品にのみ拘泥する独りよがりの作家ではなく、「理想の読者」を想定し、その読者が読みたいと思う「本」を書くことを突きつめようとする、読者との対話を愉しむ作家だということである。そういう意味では、読者の側も心して読みにかからねばなるまい。足を載せるのに適当な台を用意するのはもちろんのこと、小用などは読書にかかる前にすませておくのは作者に対する当然の儀礼と心得ておかねばなるまい。さて、準備万端を整え、そうしてはじめて「あなた」は、『冬の夜ひとりの旅人が』という小説を読みはじめることになる。
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ちくま文庫版を持っているが、Uブックス版で再読。文庫版は品切れなのかな?
『あなたはイタロ・カルヴィーノの新しい小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている』から始まる冒頭の一節は、何度読んでもユニークで面白い。カルヴィーノは元々、作風をかなり変える作家だが、本書ではその変化するテクストが次々と現れ、まるで万華鏡のように感じる。
久しぶりに読んで堪能した。カルヴィーノ、また久しぶりに読み返そうかなぁ……(でも何処に仕舞ったのだろう)。
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読書が生き甲斐の人間にとっては、非常に深い余韻の残る佳作ではないだろうか。
10の断章はそれぞれ独立した短編のようにも読め、且つほんの少しずつ繋がっている。コミュニケーションの物語でもあり、書かれていない人生を示唆する見本帳のようでもある。
各々の読者は好きな断章のなかで(章立てしてある本流も含め)各々の人生のヴァリアントを生きる。
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年末に途中まで読んだのだが、文字をただ目で追っかけてるだけのような気持ちに陥り、貸し出しを延長し田舎に持って帰り、改めて玉ねぎの皮をゆるゆると剥くように読みました。やはり読者は傲慢なままでいてはいけないな。作者が床に寝転んでいたら自分も一緒に寝転ばないと、作者の意図しようと示唆しようとしてる物が見えてこない。それを「自分には合わなかった」「自分には響かなかった」とか言うのはやっぱ違うんだな。人様が時間をかけて作った物をただ一度だけ前から後ろへめくっただけで、自分の中で結論を出すというのも傲慢なんだなあ。
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新聞の書評か何かで読んだ。これが紹介されたのは、日本人の架空の小説家と小説が紹介されていたからであろう。著者の経歴と少しは関連があるが、わかりづらい。
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第三章まで粘ったけど眠くなりすぎて頓挫。これで3冊連続頓挫。次は川上弘美「大きな鳥にさらわれないよう」。なんとか読み切りたい。きっつー。
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あなたはイタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』を読み終わる。あなたはこの作品の感想を書こうと思うが、同時にそれも一つの作品のようにしてしまおうと思い至り、ブクログを立ち上げ、バーコードを読み取らせ、感想を書き始める。あなたはこの本を読むことで、いくつかの様々な物語を読むことになる。あなたが読んでいたのは、『冬の夜ひとりの旅人が』という本だったのか、それとも何か別の物語だったのか、あなたにはわからない。すべては読んだ人のみぞ知るところである。あなたはこれを傑作だと思う。そして著者略歴を見て、カルヴィーノがトリノ大学の農学部卒だということを知り、あなたの学歴と少し似ていることに喜びを感じる。あなたは次の小説のアイデアを、この本から頂戴してやろう、と思い立つ。あなたはもうじきブクログの感想を書き終えようとしている。
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文学ラジオ空飛び猫たち第30回紹介本。 〈あなたはイタロ・カルヴィーノの新しい小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている〉という書き出しから始まる型破りな小説。作中には10本の小説内小説が挿入され、主人公の男性読書とともに読者(ややこしい)も物語に翻弄されますが、それがとにかく楽しいです。文学の魔術師、イタロ・カルヴィーノの代表作。究極の読書小説。 ラジオはこちらから→https://anchor.fm/lajv6cf1ikg/episodes/30-eq2egv
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久しぶりのイタロ・カルヴィーノ。といっても、私は「不在の騎士」「まっぷたつの子爵」「木のぼり男爵」くらいしかちゃんと読んだことがなく(「レ・コスミコミケ」と「柔らかい月」は持ってるけど途中で投げ出す)、たまたまSNSで知った本書に興味を持って購入した次第。
どんな内容か、というのは帯やカバーの後ろに書いてあるまんまなので省きますが、私が読み始めて感じた最初の印象は「夢みたいだ」です。夢というのは、眠っているときに見るあの夢です。途中で分断され、整合性が全くない。私にはコントロールできない世界。そんな物語が10章にわたって描かれるわけですが、それぞれてんでばらばら。そして、「あなた」つまり読者(男性読者、と規定されている)は、その物語の続きを求めて彷徨うわけです。そこに「あなた」と対極にある「女性読者」が登場し、「あなた」の心はかき乱される。分断された小説の章と、「あなた」が小説(の書かれた本、あるいは原稿)を求めて右往左往する章が交互に描かれるのですが、やがてそのどちらもが結び合わされる結末に向かうのか向かわないのか・・・。
私が思うに、この本は「普通の小説では飽き足らなくなった読書中毒の人」こそが喜びそうな本、ということです。「文学の魔術師」カルヴィーノの魔法に身を委ね、読書という麻薬に酔い痴れるのです。
これを機会に、本書より以前に書かれた「見えない都市」「宿命の交わる城」も読まなければ、と思いました。
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読書という体験そのものをより豊かに読ませてくれる不思議な小説。とにかく没入感が段違いで、読んでる最中の感覚はもう魔術としか言いようがない。
書店で本を買う所からしてバーチャルリアルかつ異様な豊穣さで、言葉の上で本が分子に崩壊する所ですら自分で体験しているような気がした。リフレインしながらとんでもない規模に発展してゆく楽しい眩暈。そして、死んだ言語で書かれた散文の、あの途中までしかない不確かな感じ、断崖から遠くの彼方を望むような感じ。女性を追う男性というイメージと読書との重なり。
意識したことはなかったが、本を読むとはそうした体験だったかもしれない。常にそこにあったはずなのに、言葉にしてもらう事ではじめてたどり着ける場所にたくさん連れて行ってもらった。おかげで不思議にほっとした。
こんな時代だからこそ、詩人、作家、芸術家はいてくれなくちゃ困る。デイヴィッド・シェンク『ハイテク過食症-インターネットエイジの奇妙な生態-』で引用されていて本書を知ったのだが、まさに猛烈な技術革新によって日々加速させられ、錯乱と焦燥でとっ散らかり気味な現代人の精神を落ち着かせてくれるのは、断崖から彼方を望むアーティストたちの言葉であり、視点であり、作品なのではないか。
実際、読んだ後に自律神経のバランスを測ったら、副交感神経がかなり優位になっていた。読んだだけで、リラックスするということだ。
あの世にいるイタロ・カルヴィーノ先生だけでなく、翻訳者、編集者、出版社、デザイナー、割付職人、印刷会社、流通会社、書店、図書館の方々にまで感謝の気持ちがわいてくる読書体験だった。
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「文学の魔術師による究極の〈読書〉小説
あなたはイタロ・カルヴィーノの新作『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている。しかしその本は30頁ほど進んだところで同じ文章を繰り返し始める。乱丁本だ。あなたは本屋へ行き交換を求めるが、そこで意外な事実を知らされる。あなたが読んでいたのは『冬の夜ひとりの旅人が』ではなく、まったく別の小説だったのだ。
話の続きが読みたいあなた(男性読者)は、もうひとりの読者ルドミッラ(女性読者)とともに、物語の行方を追う。」
「はじめはとまどうかもしれませんが、物語自体にあなたをゆだねてみてください。読めば読むほど読書の楽しみというものがふつふつと湧き上がってくる一冊です。」(『10代のためのYAブックガイド150!2』の紹介文より抜粋)