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紙の本
先に逝きしものよ
2010/05/27 08:43
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
どうして彼は私よりも先に逝ってしまうのか。
生者にはつづく時間があり、死者はその時間を共有できない。死者のとまった時間を置き去りにして、生者は生きる者してと当たり前だが、死者のいない時間を生きることになる。
そのことに意味はあるのか。
彼が残るのではなく、私が残ることに。
もし、それが私よりも年若い弟であれば、なぜ、私は残り、弟は逝ってしまうのか。
そのことにどんな意味があるのか。
吉村昭氏の『冷い夏、熱い夏』(1984年刊)は、戦後の混乱のなかで双子のようにして支えささえあって暮した二歳年下の弟に突然襲った癌とその死を、まるでドキュメントのように淡々と描いた長編小説である。
兄は死の迫る弟の姿を、作家として冷徹にじっと見つめている。そのことの方が弟の死よりも怖ろしいくらいだ。そんな作家をなじる妻や兄弟がいることも、吉村昭は書きつづる。そこに記録としてのバランスが生まれる。
たった一人の弟、しかも死の淵をさまよった自身の若い時代を支えてくれた弟、の死にいたる日々は、弟が生かしてくれた者として、このようにして書くしかない。そんな吉村昭の決意を感じる。
しかし、この物語が重い意味をもち、深い悲しみをたたえるのは、そのことが理由ではない。
作家の緊張が時に破綻し、兄としての心情があふれだすからだ。
あと二、三日しか持たないと医者に宣告されたあと、「ホームに立った私は、急に体が激しくふるえるのを感じ、階段の下に身をいれた。弟は死ぬはずはない。死なせてなるものか、と思った。嗚咽がつき上げてきた」と、まさにむきだしになった、裸の兄の姿が描かれる。
そのとき、物語は死に逝く者の記録の視点をではなく、残りうる生者の心の深層をみごとに描いていく。
物語の最終部、柩にはいった弟を運ぶ車の前を折りしも祭りの隊列が行き過ぎる。「紅白の綱をひく子供たち」に生の意味も死のとまどいも、ない。ただ祭りを楽しんでいるだけだ。彼らにある時間を、死者はもう共有しない。
それは、なぜ、私ではなく彼なのか。もちろん、死者はこたえてはくれない。
◆この書評のこぼれ話は「本のブログ ほん☆たす」でお読みいただけます。