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- カテゴリ:一般
- 発売日:2003/02/13
- 出版社: 講談社
- サイズ:20cm/330p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-06-210923-9
紙の本
一号線を北上せよ
著者 沢木 耕太郎 (著)
「北上」すべき「一号線」はどこにもある。私にもあれば、そう、あなたにもある−。10年余りにおける、その時その時の「一号線」を求めての旅のスケッチ。【「TRC MARC」の...
一号線を北上せよ
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商品説明
「北上」すべき「一号線」はどこにもある。私にもあれば、そう、あなたにもある−。10年余りにおける、その時その時の「一号線」を求めての旅のスケッチ。【「TRC MARC」の商品解説】
一号線はどこにある?
「北上」すべき「一号線」はどこにもある。
私にもあれば、そう、あなたにもある。
思わず旅に出たくなる、著者初の紀行短篇集。
青春の記憶に浸る旅、作家の存在に導かれる旅、プロスポーツ観戦の旅、観光客のバスツアー『深夜特急』の旅から20年、旅の達人が見たスピリチュアルな風景とは
【商品解説】
著者紹介
沢木 耕太郎
- 略歴
- 〈沢木耕太郎〉1947年東京都生まれ。横浜国立大学卒業。「テロルの決算」で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。その他の作品でも受賞多数。著書に「若き実力者たち」「血の味」など。
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紙の本
『深夜特急』と一線を画する紀行文、そしてどこを旅しても沢木耕太郎は沢木耕太郎。
2010/05/14 01:18
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:風紋 - この投稿者のレビュー一覧を見る
『深夜特急』と本書とを区別するものは、前者は「ある時期の『私』を描こうとしたもので、『旅』そのものを描こうとしたものではない」(本書あとがき)のに対し、本書は紀行文、つまり「旅」について書いている点だ。
この違いは大きい。『深夜特急』の主役は、マカオにいようとインドにいようと、あくまで「私」つまり沢木耕太郎である。他方、本書の場合、主役は旅先の土地なのだ。
この点は、本書のさいごに置かれた『記憶の樽』を読めば明らかだ。「私」は、スペインのマラガを訪れ、二十年前に立ち寄った酒場をさがす。フラッシュバックのようによみがえる記憶を懐かしむ一方、失われた記憶のほうが多大である悲哀をあじわう。・・・・この紀行文の主役をなすのは土地である。『深夜特急』の旅の二十年後の今、マラガにおいて目にするもの、味わうもの、そして風物に触発されて湧きおこるさまざまな思い、つまり旅情である。
とはいえ、どこを訪れても沢木耕太郎は沢木耕太郎だ、と思う。本書の舞台はヴェトナム、パリ、ポルトガル、スペイン、米国、オーストリア・・・・とさまざまだが、どの紀行文も文章は軽快で、抵抗なく入っていくことができる。そのくせ、読み捨てるには惜しい質実さがあって、噛みつづけても味が薄れないチューインガムのような感じなのだ。
これは、細部の事実からなにかを発見する眼がたしかであり、記述が堅実だからだ。
たとえば、紀行文として本書の冒頭におかれた『メコンの光』は、「バスの乗り方がわかり、食事の値段がわかり、ヴェトナムの言葉でありがとうのひとことが自然に出てくるようになって、私はホーチミンで少しずつ自由になっていた・・・・」といった調子で、じつに軽やかに現地に適応している。そして、適応ぶりを報告する文章も軽やかなのだ。
また、おなじ『メコンの光』から引くと、「ハッとさせられたのは、英文のパンフレットに記されていたひとつの単語を眼にしたときだった。その中に『ヴェトナム戦争中』とあるはずのところに『アメリカ戦争中』とあったのだ」という発見があり、「よく考えてみれば、ヴェトナムの人々にとってあの戦争は『ヴェトナム戦争』などではなかった。少なくとも北ヴェトナムとヴェトナム解放戦線にとっては、アメリカとの戦争、つまり『アメリカ戦争』だったのだ」という省察がある。この発見は、著者のみならず日本人全体の・・・・おそらくは「アメリカ」及びその盟邦の人々の固定観念をひっくり返す発見でもある。
文章の軽快、著者なりの発見、そしてそのもとになる微細な事実は、本書にあまねく見いだすことができる。
評者にとって、集中もっとも楽しめたのは、さきに挙げた『メコンの光』、そして『ヴェトナム縦断』だ。つまりアジアの旅である。自分の旅をふりかえってみても、「石の文化」の西欧を旅するより「木の文化」のアジアを旅するほうが気楽だったような気がする。
『ヴェトナム縦断』は、ホーチミンからハノイまで、国道一号線を北上する旅を記す。妙味を逐一あげて、これから読者となるかもしれない方々の興を削いでもつまらない。本書でいう「一号線」には二重の意味がある、とだけ付記しておこう。第一は具体的な、ヴェトナムの国道一号線である。第二は象徴的な、沢木耕太郎が「夢見た旅」である。
「もしかしたら、誰にも『北上』したいと思う『一号線』はあるのかもしれない。もちろん、それが『三号線』でも『』66号線』でもいいし、『南下』や『東上』であってもかまわない。/たぶん、『北上』すべき『一号線』はどこにもある。ここにもあるし、あそこにもある。この国にもあれば、あそこの国にもある。私にもあれば、そう、あなたにもある」(本書『一号線はどこにある?』)。
紙の本
センチメンタルジャーニー
2003/03/09 17:20
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「中年も過ぎた年代になると、誰にもたくさんの持ち物があります。持ち物が少なければ少ないほど思い決めることは簡単ですから、思い決めるにはみんな持ち物が多すぎるのでしょうね。でも、本当に大事なものというのは、実はそういくつもない。旅に出ると、そのことが本当によくわかります」。
沢木耕太郎はこの「一号線を北上せよ」という新刊の刊行に合わせた「週刊現代」(3月1日号)のインタビュー記事でそう語っている。檀一雄のポルトガルの生活をなぞろうとして旅に出た「鬼火」、写真家キャパの青春の日々を訪ねてパリの街を歩く「キャパのパリ、あるいは長い一日」、そしてあの「深夜特急」の旅から二〇年後の地中海に面した港町を旅する「記憶の樽」など八つの旅行記を収めたこの本は、沢木耕太郎の魅力を存分に味わえる紀行文集である。
沢木の魅力。それは彼の「感傷」的な物事の捉え方の魅力と云っていいだろう。この本の中の一篇「象が飛んだ」は、一九九一年アメリカ東海岸の古いリゾート地で行われたヘビー級タイトルマッチを描いた、とりわけその「感傷」が濃い作品である。終わらない日々に決着をつけようとする元世界ヘビー級王者ジョージ・フォアマンを描きながら、沢木は自身の「感傷」を描いたともいえる。沢木は書く。「『感傷』が『論理』を打ち砕かないとも限らない」(106頁)と。私にはそんな沢木が自分自身の「感傷」性に気がついているように思えてならない。そして、沢木の作品を読み続けてきた私自身もまた自分の「感傷」を捨てきれないでいる。
沢木耕太郎は常に「ここではない場所」「今ではないいつか」「あなたではない誰か」を書き続けてきた。考えてみれば、それらは「論理」ではない。結論が導きだせない「感傷」でしかない。閉じることのない、永遠のメビウスの輪だ。たくさんの持ち物を持ちすぎた私たちは、多くの荷物を抱える一方でそんな柔な「感傷」を否定し続けてきたともいえる。しかし、閉塞した時代にあって「感傷」もまた明日を夢見る原動力になるかもしれないと、沢木の作品を読みながら思った。なぜなら、私たちもいつか「ここではない場所」を求めてそれぞれの一号線を歩き始めなければならないのだから。
冒頭の週刊誌のインタビュー記事で、沢木耕太郎は最後にこう語る。
「もう歳だとあきらめる必要はない。間に合わないときはない−僕はそう思うのです」。
紙の本
この本の装丁は平野甲賀、装画はカッサンドル。デザインもだけれど原点は、やっぱりあの名作『深夜特急』なんだよね
2003/11/26 20:22
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「沢木の、そして誰の心の中にでもある一号線。どこにあるかは、本人も知らないけれど、その道を辿って見よう」旅行記。久しぶりに、良いタイトルだなあ、と思った。気取りがなくて、それでいて思わず手にとりたくなる。グラデーションを上手く使ったカバーも、レトロなレタリングも抜群。名作『深夜特急』の補遺といったら沢木は怒るだろうか。
少年時代に好きだったTV番組、その頃から移動することに惹かれていた沢木が思い続けたヴェトナムの一号線、誰の心にもあるかもしれない北上したい一号線「一号線はどこにある?」。沢木が行きたかった三つの都市、1930年代のベルリン、昭和10年代の上海、そして1975年の解放前のサイゴン。近藤絋一の文章に惹かれた沢木が訪れた現在のヴェトナム「メコンの光」。
自ら関係したキャパの伝記の翻訳で一層近くなったパリ。銀行のストで両替も出来ないフランスを再訪した沢木の「キャパのパリ、あるいは長い一日」。アリとの激闘に敗れて17年、伝道師となった42歳のフォアマンが、若いチャンピオンに挑むために再びリングに上がる「象が飛んだ アトランティック・シティからの手紙」。20年前に初めて来たポルトガル。冷え切った彼を迎えたバルの親父はビールの注文を断って「鬼火」。
再訪したヴェトナムで見た欧米の老いたバックパッカーたちの姿「ヴェトナム縦断」。初めて見るスキーの滑降のレース。目もくらむような斜度「落下と逸脱 アルプスだより」。スペインのマラガで飲んだ一杯のワインと、食べたレモンをかけただけの生の貝。あの味にもういちど会いたくて「記憶の樽」。この本をまとめるにあたって、編集者との出会いを描く「あとがき」
どれをとっても楽しいけれど、時間を感じさせるのはフォアマンとホリフィールドとの闘いを描く「象が飛んだ」とスペインの再訪記「記憶の樽」だろう。ボクサーとしては老人といってもいいフォアマンが見せる成長した人間としての大きさを描く前者。記憶の曖昧さと20年という時の経過が酒場にもたらしたものに自然体で向う姿勢が心地よい後者。
正直、最近の沢木の、自分の顔写真を前面に押し出して「私は良い男です」風の売り方が鼻について仕方がなくて困っていただけに、昔を思い出させるこの本は、素直に読むことができた。既に書いたように、素晴らしいカバー、装丁 平野甲賀、装画はカッサンドル。デザインはあの名作『深夜特急』を連想させる。
1991年に書かれたものから書き下ろしまで、様々な雑誌に掲載されたものを集めたものばかりだが、ひとつ芯が通っている感じがする。でも、単独で読むよりは『深夜』で行った国を再訪している部分もあるので、やはり過去の本と関係させて読んだほうがいいかもしれない。
20年の歳月の中で変わってしまったもの、今も厳として残っているものなどに思いを馳せるのも一興。読んだ長女も、旅のもつ魅力に目を開かれたようだった。彼女にとって、最大の問題は語学力だろうか。度胸で世界を股にかけるだけの勇気と気概は、まだ娘にはない。
紙の本
ヴェトナムほかの海外紀行文集7編
2003/06/29 23:21
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:格 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は突然,ヴェトナムの国道一号線をバスで行こうと思い立つ.南のホーチミンから北のハノイまで北上していくのだ.理由はどうでもいい.とにかく,いきたくなる.そんな何かがだれにもあるのではないか,と著者は言う.そう,私にも,突然,何かの理由でむしょうに,旅をしたくなることがある.それで生きていけたら,こんないいことはないが,それでも,一年に一回くらいは,旅をしたいもの.それにしても,一つの街に,何をするでもなく,何日も滞在する旅,そこには,人々との数々の出会いがある.濃密なつきあいとはならないが,それが旅であろう.
何かの跡を追う旅が多い.近藤紘一の著作の跡を追うサイゴンの旅,キャパを追うパリ,壇一雄を追うポルトガルの旅,昔行った酒場を探すスペインの旅.これもまた,一つの一号線,すなわち,夢,ということなのだろう.深い思索を中心とした著作かと思っていたら,むしろ単純な紀行文と言ってもいい.著者自身,それを狙っているようで,あとがきに自分でそう書いている.人それぞれに旅の理由はあればいい.でも,理由などなくたって,旅はいいものだ.単純に一号線をたどる旅が一番面白いのはなぜか.