紙の本
日本の歴史の意外な一面も垣間見れる男同士の幽玄な世界
2003/03/13 00:44
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:武田淳一 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本の著者である白州正子は、男性に対して相当込み入った感情を抱いていたのではあるまいか。自分のことを“ボク”と呼び男の子のような遊びばかりしていたという幼少の頃、“所詮は男にしか舞うことのできない”と悟ってしまうまで懸命に能を学んでいた頃、青山二郎や小林秀雄を中心にした集団の中へ血反吐を吐きながら飛び込んでいった頃など、その生涯には否応無しに“性のかべ”といったものを意識せざる得ない場面が見え隠れしている。男同士の世界というものはなかなか女性には理解し難いものがあるようだが、白州正子という人はその世界に並々ならぬ関心を抱いてしまったらしい。別の著書の中で「他人を羨ましがるようなことがかつてなかった私が、このこと(青山二郎らの緊密な男同士の関係)には猛烈な嫉妬を覚えた」と語っているのだ。そして“切り込んででも入ってみせる”と夫や子供もそっちのけで、青山二郎、小林秀雄、大岡昇平といった男同士の付き合いの中に飛び込んでいくのだから尋常ではない。著者はその交流の中で、本当の人間同志のぶつかり合いを身を持って体験していく。そのような体験から著者が知りえたものの一つが、本当の魂と魂のぶつかり合いは美しいということだろう。そのような本物の魂と魂の交流を求めて、日本古来からの“両性具有”の深い世界へ著者は踏み込んでいく。“両性具有”といっても、取り上げられるのは全て男性ばかりなのは偶然ではない。そこには”本物の美しい魂と魂の交流”があると、著者は信じているのだ。そのような著者自身こそ、両性具有的な鑑識眼をもった希有な人物といえるであろう。
しかし日本の歴史の中で、男色というものがこれほど当たり前のようにあったとは知らなかった。「(武士の間では)肉体的な交渉があって当然だった」とか、「伝統というものは肉体的な形においてしか伝わらない」などとさらっと書かれても、現代の感覚で想像してみることは難しい。そのような歴史の裏側にあった日本の男色の歴史として読んでも、面白いと思う。最後にこのエッセイの文体。どこかで御眼にかかったと思っていたら、洲之内徹の「気まぐれ美術館」の文体である。著者はおそらく本質に近づく手法として、この文体を使っているのだ。
(書評:2003.03.13 武田淳一 )
紙の本
新聞の読書欄に載っていたのが気になって
2015/08/14 13:33
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投稿者:卯月 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ほとんどがお能と男性が持つ女性的な美についてであり、女性側からの両性具有的な事には触れられていない。
有る程度、古典と能楽の知識が無いと分かりづらいかもしれない。
お能や古典文学を知っていれば、こういう見方も有るんだと納得出来る内容。
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http://www.geocities.jp/nanamaru28/novel/sirasu/ryouseiguyuu.html
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腐女子なんてことばはきっと白洲正子さんはご存じなかったろうが、これは期せずして白洲流やおいについての薀蓄話になっているような。日本文化の側面を知るために気軽に読める一冊。
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筆者の持つ男女に対するこだわりがかなり前面に押し出されている。嫌いではないけれど、同調は出来ない本でした。性に囚われない感情は、至上のものかも知れん、という描き方には、同調する部分あり、そうではない部分もあり。
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以前に『能の物語』(講談社文芸文庫)を読んで気に入らなかったのですが、ふらふらと買ってしまった…両性具有というか男色史という気がしないでも。両性具有といっても、常に男性をベースにしているところが。文章はさすがに明快でいいですが、言ってることはやはり嫌い。私はもともと「竜女成仏」の説話が大嫌いなので、根本的に発想が合わないのだろう。引かれている本や説話が幅広いので、その点は興味深いけれど。
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だっーーー。どんなに高尚な文章で、緻密な歴史考察だろうと、ムリッ!男同士の行為は、どんな理由付けしたところで、余分な部分だし。余分とは、必須ではないという意味で。
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内容(「BOOK」データベースより)
光源氏、西行、世阿弥、南方熊楠。歴史に名を残す天性の芸術家たちが結んだ「男女や主従を超えたところにある美しい愛のかたち」とは―。薩摩隼人の血を享け、女性でありながら男性性を併せ持ち、小林秀雄、青山二郎ら当代一流の男たちとの交流に生きた白洲正子。その性差を超越したまなざしが、日本文化を遡り、愛と芸術に身を捧げた「魂の先達」と交歓する、白洲エッセイの白眉。
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教養のない私には古文が難しく、この本の良さを味わったとは言い難いが、男性同士の友情以上の関係に興味を抱くのは何となくわかる気がする。男社会の中に生きて、男性同士の議論に混ざりたがったりする気持ちもわかるし、女性性をどうやって消化するかとかは考えんといけない問題。性別は逃れられないからねぇ。
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このタイトルでこの表紙だから昔両性具有がどう見られてたかとかそういう話かと思ってたら全然そんな事は無く、何て言うか筆者の男色観を色々語った本…でした…。
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小林秀雄、青山二郎、河上徹太郎、正宗白鳥・・・当代一流の男子たちと、肉体関係なしに付き合っていた「白州正子」という人はきっと両性具有の人なのでしょうね。
その白州正子が自分自身のルーツを探る、とでもいえるような「両性具有の美」にアプローチしている、という点がそもそも魅力の作品。
本書を読むと、男の友情が深まって男色になることもあるだろうし、それが実際、文化藝術に昇華されて、現代の私たちにまで恩恵を与えているのだなぁ、とわかります。
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ご本人も書いている通り、両性具有、インターセックスという内容は書いているうちにどこかに行ってしまったようです。
いわゆる絵巻物時代の男色について
文献をたよりにこれでもかと畳み掛けるように書かれています。
わかりにくい古文に興味を持てるような本なので
男色に限らず興味のある人にはおススメかも。
ワタシ的には思っていた内容と違っていたので星2つで。
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あれ、正子ちゃんって腐女子ですか!? とどきどきした。
タイトルからして両性具有の話……かと思いきや、男色の話、稚児の話……稲垣足穂の「少年愛の美学」に似ているなぁと思いきや南方熊楠の話や、能での男色の扱われ方…………いや正子さん、それはもはや腐女子フィルターでは!? という展開に、白洲正子氏は教養のある人ということで、とりあえず一冊と思ったんだけど、この本はどうにもこうにも、腐女子フィルター全開で面白い。両性具有というより、少年の美学と男色の美学の本かも。
南方熊楠の「浄の男道と男色は違う」という言葉に男を見た。こういう人だったんだ……。
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何だか楽しそうなうっとりしそうなそれでいて知識が深まりそうなタイトルではありませんか。そしてその予感はほとんど裏切られることがないのだ。倭建命の時代から人類の歴史は男と男の愛から生まれてきたらしい。いや~、知らなかった。女の身としては断固否定したいが、白洲氏の文章にはなぜか抗いがたいものがある。そして古代、こういう同性愛のことを“菊花の契り”とか“菊契”とか呼んだそうだ。(理由は本書を読まれたし。)解説によると本書は最終的に「女にはお能は出来ません」というために書かれたそうで、後半になるに従って、話題が能一色になる。読む私の側に能の予備知識が皆無だったことが何とも残念。
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男勝りだった筆者と私の感性の似てること似てること(笑)僭越ながら。
両性具有といいつつも、男性の両性具有についての本。
男でも女でもなく美しく人ならざるものへの畏敬は興味深いテーマ。