紙の本
日本美術史に誰も引いたことのなかった補助線を引いたみたいな一冊
2020/06/11 00:09
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投稿者:タオミチル - この投稿者のレビュー一覧を見る
「鳥獣戯画」から始まって、「洛中洛外図」、雪舟…そして、明治の日本絵師たち。
取り上げられる絵画は、美術館&博物館好きならば、ほぼ見たことがあるんじゃあないか。対して書かれていることは、時代的背景、作者がこだわったであろう点とか、時代的技量的限界とか。豊富な知識を土台にするからこそ、外さないユニークな見解が面白く、かなり専門的なことを、素人にも届くように簡潔明快にバシッ!と言ってみせる。
そのスタイルが、ずーっと昔の作者に、楽しみつつツッコミを入れてるみたいで、読者は、時々ほくそえんだり、吹き出したり、にんまりしたりで忙しい。
...まあ確かにヘンな日本美術史なんだろけど、これぞ正統派なんじゃないか。
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創造と評価
2023/08/29 13:28
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投稿者:ペンギン - この投稿者のレビュー一覧を見る
この絵を描いた人はこんな気持ちだったに違いない的な記述は確かの面白いのだが、それ以上に作り出すことと評価することの間にある時間差というか視点のずれみたいなのがすごく面白かった。例えば「絵の上手い下手というのは客観的に判じられるものかと言うと、なかなかそうではないと思います。(P.144)」とか、「「新しさ」と云うのは、実は判断が難しいものです。(P.152)」とか、なるほどと思うところがたくさんあった。
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美術のマイ ガイドブック
2017/08/13 21:47
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投稿者:ふみしょう - この投稿者のレビュー一覧を見る
美術展を観る時のガイドブックにも 利用しています。
画家の視点で書かれているので、へぇ!な発見アリ で面白いです。
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「ヘン」だから、取っ付き易い
2019/04/06 12:34
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投稿者:Otto Rosenthal - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本画とモダンアートを融合したような作風の山口晃氏が誘ってくれる日本美術の入門書です。ジオラマの様な洛中洛外図の作品ごとの画風の違いの解説(第三章)が楽しかったです。
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伝源頼朝?
2022/03/04 22:49
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
伝源頼朝像、と今は言われているそうですが、私は源頼朝といわれると、この顔しか浮かんでこない、今さら、実は足利直義だったといわれても。著者はこの像の描き手は、腰が引けて硬くなったようにも見えると語ります、面白い切り口です
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<画家の視点から日本美術史をナナメに見る>
伝統的手法を取り入れつつ、過去と現代の風俗が混じり合う細密な絵で知られる画家、山口晃。
緻密でありながら、遊び心もある絵である。
そんな山口晃による、日本美術史。網羅的・体系的な解説ではない。カルチャースクールでの講義にプラスαしたものだそうだ。
白描図や雪舟や明治の絵などについて、描き手がどのような時代背景の中で何を考えて描いていたのかを、著者の想像を含めて再構成していくような感じである。
「山口晃眼鏡」を掛けて見た、日本美術の数シーンといってよいだろう。
雪舟論と洛中洛外図論がめちゃくちゃおもしろかった。
三次元のものを二次元にする際に、西洋絵画と日本絵画ではそもそも発想が違っていたというのが興味深い。*もしかしたら吉田初三郎の鳥瞰図みたいなところにもつながっていく話なのだろうか・・・?
これを読んだからといって日本美術史に大変詳しくなるわけでも、もちろん絵が上手になるわけでもない。が、現役の画家さんというのは、例えばこのように絵を見ているのか、というのが何だか新鮮である。
自分で絵が描けなくても「いや、わし、絵、ヘタですけん・・・」といじいじすることもない。何だか脳味噌の普段使っていない部分が伸びたり縮んだり、よいストレッチになったなぁと思うことであった。
著者前書きに「やあ、色んな絵が在って面白いぞ、先達は凄いなぁ、ようし自分も頑張ろう」とある。それに倣って言えば「ほう、色んな知らない絵もたくさんあって何だか面白い、よしよし、自分も今後、あれこれ見てみよう~」というところだ。
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素人向けに美術の世界への敷居をうんと低くした評論(?)としては過去にあの赤瀬川原平・山下裕二共著の「日本美術応援団」があった。今、ネットで調べて見たら出版は2000年となっているので既に12年も前の話。ここの所すっかり枯れてしまった感の有る赤瀬川さんだが、流石に年を取るはずだよなぁ、と変な所で感心してしまう。同書は確か京都の寺に光琳、雪舟などの名作を訪ね歩きああでもない、こうでもないと素人風異見を言いつつ山下裕二さんが美術評論家としてその見所を紹介するという本であった。
そして今回の「ヘンな日本美術史」であるが何度か山下裕二さんの名前が出てくるので恐らく上記「日本美術応援団」を意識しているのであろう。本書もそうした名作とされる美術史上も有名な絵画を画家である山口晃さんが個人的に面白い、興味を引かれるところを紹介している。何も先入観なく気楽に読める内容である一方で、紹介される絵画は教科書でも紹介されている有名どころだから何となく親近感が沸いてくる。
例えば「鳥獣人物戯画」だが、教科書には動物の兎などが出てくる絵が紹介されているが、実は本画は全部で4幅の屏風であり鳥獣が出てこないものもあるというのだから驚きである。
そして有名な「洛中洛外図」も実は多くの画人が同じ趣向でものにしているという一種の流行絵だったことや、家々の立ち並ぶ間にある雲が実は絵に描かない部分、即ち省略すべき地区を隠す役割を果たすことで一種の遠近感というかデフォルメの技法だったというのがわかる。
またこれは知らなかった絵であるが国宝「彦根屏風(びょうぶ)」では、そこに描かれた男性の腰が異様な角度で曲がっていることを指摘している一方で、それがまたそうであっても違和感を感じさせない技量があると云う。
日本美術もこうしてみると決して取っ付き難いものではないし、教科書で作品名と作者を線で結ぶように丸暗記を強いるだけではイケナイし、こうした見方が学校で教わっていたならもう少し名画も身近に感じていただろうとも思う。
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日本の美術展を見に行っても、何がうまい、何がうまくないって基準がわからなくて理解できない。
西洋美術なら、まずとにかく本物に似てるって基準があるのに。
あのぐちゃぐちゃって書かれた荒い線の雪舟とかいうひとの絵は、ほんとに上手いのか?なんであれが画聖なの?
という思いを長年持っておりまして、それでもとりあえず日本の美術展とかを見続けるうちにその思いを忘れておりまして、応挙なんかは好きだなあ、なんて考えつつ、最近応挙のこと書いてある本があんまりないなあ、と思いつつこの本を読みました。
結果、日本美術のうまい下手について、俺よりちゃんと考えてる人がいた!と嬉しくなるような本でした。
日本美術(と、その影で著者本人が置かれている立場である現代美術)を見に行く機会があるかた、その立ち振舞いに疑問が少しでもある方は、読んでおいて損はない本ですよ。
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≪目次≫
第1章 日本の古い絵ー絵と絵師の幸せな関係
鳥獣戯画・白描画・一遍聖絵・伊勢物語絵巻・伝源頼朝像
第2章 こけつまろびつの画聖誕生ー雪舟の冒険
破墨山水図・秋冬山水図・慧可断臂図・益田兼堯像・天橋立図
第3章 絵の空間に入り込むー洛中洛外図
舟木本・上杉本・高津本
第4章 日本のヘンな絵ーデッサンなんてクソくらえ
松姫物語絵巻・彦根屏風・岩佐又兵衛・円山応挙と伊藤若冲・光明本 尊と六道絵
第5章 やがてかなしき明治画壇ー美術史なんてクソくらえ
河鍋暁斎・月岡芳年・川村清雄
≪内容≫
う~んとね…。代表作が思い浮かばないけど、洛中洛外図や絵巻物的な技法で、現代の風俗や現代と昔をクロスオーバーさせたものなどを描く画家(やっぱ、説明になっていない…)による、日本美術を紹介したもの。
画家なので、その説明が専門的で分からない部分も多々ありましたが、やはり視点は面白く、日本人は江戸時代まで横向きの顔を書いても、眼は前向きの描写のままだった、外人から指摘されるまで気づかなかった、という指摘は発見でした。浮世絵や絵巻物で妙な違和感を抱いていたのは、そこだった!ということですね…。
後は円山応挙のいい加減さ(何かの本で、弟子の絵にも応挙の落款を押させたというので、「いい加減」とは思ってましたが…)なども裏付けられて(画論で前に言ったことをすぐひっくり返すあたり)、面白かったです。
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この本が近所の本屋で平積みになっていた頃、なんべんか、ぺらーとめくっては、買おうかな~と思いつつ、結局図書館で予約待ちをしていて、こないだまわってきた。
この本で山口が言及している「絵」とか「美術」作品は、実際にどっかで見たことがあるのも少なからず含まれていたが、なんというか、私がぼやーっと見ていたのとは全然違うところからパシーッと光を当てられたような、私が「見たつもり」でいた絵やら作品は、もしかして、こんど見たら全然違うように見えるかも…と、しまいまで読んで思った。
たとえば写実的な絵のことを"写真みたい"と評して、しかもそれが「スゲエ」という意味あいだったりするのは、やっぱり美術の教育というのが、こんなのがエエのやと指し示してきた結果なのかなーとも思った。
私が5年まで通った小学校(いまは廃校になった)では、毎年春に写生会があった。そして、どの学年も、毎年万博公園へ行って絵を描いた。写生がものすごくうまかったM尾君のことを、いまでも思い出す。その「うまいなあ」というのは、見たままのサイズで建物が並んでいるとか、遠近法がくるってないとか、今思えば、"写真みたい"なうまさなのだった。M尾君の絵は、真ん中にばーんと観覧車を描いたら、そのまわりはちまちまとなってしまうような絵とは違うものだった。そういうのを、私も含めてまわりの子どもは「うまいなあ」と思っていたのだな、と思う。
そんなことを思い出すと、「写生」というのを学んでしまったら、できなくなってしまうことがあるねんデという山口の指摘は、天動説じゃなくて地動説だというくらい、私にはどっかーんときた。
塗りたい色しか塗らない、描きたいところしか描かない、「伊勢物語絵巻」時代の絵師は自然体で描けていた、それは「見たまま」が至上ではなかった時代だからこそ、できていたのではないか、と山口はいうのだ。
▼明治時代になり、写生をやった日本人はこれができなくなってしまいます。一度、自転車に「乗れる」ようになってしまうと、「乗れない」事をできなくなってしまうような感じです。
ものを見ようとすると、子供でも線が引けなくなるのですが、これは色を塗ると云う面においても同じ事が言えます。
…(略)…
「伊勢物語絵巻」時代の絵師は、小さい子供のような色の使い方の延長にありつつ、職人としての錬度を上げていく事が、自然にできていたのではないでしょうか。
それは「見たまま」が至上でなかった時代だからこそであって、恐らくは子供の頃から親方がやっているのを見て、真似する事で、何の疑いもなくそれができたのです。ものを見て描くよりも、こっちの方が美しいからそう描くと云う純粋さでやってこられた。
ものを見て描くことを覚えると、それができなくなる時期があります。(pp.61-62)
▼私の学生時代の同級生などでも、見ないと描けないと言う人が多くいます。やはり写生と云うものをやっていると、引き写す技術は非常に長けてくるのですが、頭の中でイメージしたものを再構築する技術は別の所へ行ってしまう。これは近代の美術教育を象徴していると思います。��p.68)
写実とか写生というものと、絵というもの、それはどう違うか。
▼そもそも、写実的な絵と云うものの「嘘」を私たちは知っています。いくら巧い絵であっても、所詮は三次元のものを二次元の中でそう「見えるように」表現しているに過ぎません。…
少し小理屈を述べてまいりましたが、要は、絵画と云うのは記録写真ではない訳ですから、写真的な画像上での正確さよりも、見る人の心に何がしかの真実が像を結ぶようにする事の方が大切なのではないでしょうか。(p.115)
▼見ながら描けば、目を凝らす度に筆が止まります。筆勢を活かす事など覚束ないでしょう。逆に西洋絵画は、筆勢や筆跡は極力抑えて、画面内の形象の一部たり得るよう注意深く筆をおきます。それによって高い再現性の一助としているのですが、その再現性は多分に光学的な正確さを旨としています。
写真画像を知っている私たちは、その【テ】の正確さを「正解」としてしまいがち(勿論、正解の一つではありましょうが)ですが、それを知る以前は(実は今でも)、人の【実感】と云うものが「正解」であったでしょう。「そうそう、小鳥ってこんなんだよ!」と云った風に。
日本に限らず、古い時代の絵はパース(遠近)がつきません。あれは、人がそういう印象を持って風景なりを見ていた、そう実感していたと云う事で、例えば一本道で友達を見送ったとします。遠くの山を背景の遠ざかる友達は見た目上どんどん小さくなり、その足下の道はあなたの足下にあるものより大分細く見えます。ですがあなたは、友達の背が縮んだ、道が細くなったと思うでしょうか。遠くに行ったとは思っても、縮んだとは思わないはずです。そして、そう思わないものは、そうは描かないのです。(p.225、【】は本文では傍点)
(M尾君はうまいなあ)というのは、小学校低学年にして、すでに私の中にもしっかり根づいていた「光学的な再現性の正確さ」みたいなものがスゲエという"ものの見方"やったんかなあと、私は35年くらい前のことを思い出す。
山口がいろいろ書いているなかで、もうひとつ「ああそうか」と思ったのは、どういう向きに絵を見るかということ。それは、たぶん絵に限らない。「いま」から溯って、その絵を見るのではなくて、「その絵が描かれた頃」からいまに向かう視点をもったほうがいい、と山口はいう。
▼そうではなくて、その絵が描かれた時代を起点にして、なるべくこっち向きの視点を獲得する。「こっち向き」と云うのは、要するに、その時代からどうなるか分からない未来を見据えた視線を一生懸命想像する方が、あるべき態度かと思います。
なぜなら、溯る態度と云うのは、家系図を反対から見るように、何であれ、それを必然にしてしまうからです。家系図と云うのは下の時代から辿ってみると、そこには運命しか書かれていないように読めますが、私たち自身の将来を見通す事ができないように、当時から見れば、偶然の山積物の結果が表わされている訳です。
美術の歴史においても、本来そのような見方をしないといけないはずです。(p.27)
"当時から見れば、偶然の山積物の結果"!!!!
あと、鳥獣戯画が描かれたような時代の��作家性のあり方と「自分」というものは、現代とだいぶ違うという話もおもしろかった。
▼現代だったら独自性に固執するあまり、「あ、俺はこんな絵は描けない」と言って落ち込んで終わりなのですけれども、その枠が緩いと「じゃあ、俺はこうしてみよう」と云う風に広がるほうに行く。その結果、むしろ自分というものを保てる側面がある。そういう、絵描きにとってはある種の幸せな状態が生まれていたのだと思うのです。(p.26)
何の気なしにものを見ているようでいて、そんなことはあらへんなーと、絵を描くにしても、好きに描けばいいとか描きたいものを描けばいいとか言われてはいるが、どこかで"正解"の枠のなかにおるんやなーと、つくづく思った。
(3/23了)
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現代日本美術の二大天才(と勝手に思っている)のうちの一人、山口晃画伯による日本美術史論。ぜんぜん「ヘン」じゃありません。
日本画の見方だけでなく、西洋絵画との出会い以降、ダメになった部分がよくわかる。実に面白くてためになる本です。
本書に書かれていることって、ちゃんと学校で教えて欲しかったなぁ…。
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ぜんぜん『ヘン』ではなく、絵描きのプロが選んで解説した日本美術の本。
『ふーん』や『へー』と、大変おもしろく読みました。
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美術史家でなく、画家が描いた美術史の本。山口晃氏が平安~近代までの作品について、独自の切り口で語る。その絵が書かれた時代背景や成立過程はそれ程掘り下げておらず、絵そのものから直接情報をぐいぐい引っ張り出す感じの、画家ならではの図像解釈には引き込まれるものがあった。
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「専門家はこんな風にして絵を観るのか!」といった感じで、山口晃が考える「絵」について、軽快な語り口でわかりやすく教えてもらえる。
私のようにきちんとした美術教育は受けていないが「なんとなく絵が好きで展覧会などもよく観に行く」でも「へーすごいねー。なんて説明していいかわからないんだけど、なんとなくいいのはわかる」みたいな人間がこの本を読むと、展覧会での絵をみる視点が変わるのではないか。
山口晃と言えば、日本画の伝統的な手法で現代的なモチーフを扱うところが「わかっていて、崩す」という印象で、それが氏のとてつもないかっこよさだと思うのだが、本書からも彼のその「絵」に対する取り組みや姿勢なども見て取ることができる。
氏は本書で一度自転車に乗れるようになると「乗れない」ことをできなくなるという例えを繰り返し使っている。過去の偉大な画家の中には、「わざと抜いて描く」ように絵の中でそれをやってのけているものもおり、彼の目指すところにはそういったところもあるのではなかろうかと思った。
以下、メモ
現代から遡る視点で昔のもののもつ意味をあれこれというのは、むしろ好ましくない。
そうではなく、その絵が描かれた時代を起点にして、なるべくその時代から「どうなるかわからない未来を見据えた視線」を一生懸命想像するほうが、あるべき態度だと思う。
遡る態度というのは、家系図を反対から見るように、何であれ、それを必然にしてしまうから。
(「鳥獣戯画」などの絵巻物がアニメの源流だとかいったように語られることにたいして)
日本の美術を考えた時、「枠」とか「入れ物」という言葉が思い浮かぶ。他の国の人達が中身で勝負するときに、日本人というのは外側でそれをする。器とか枠といったもので何か物事と向き合うような所がある。(日本の絵の特徴としてわざとふにゃっと描く、仕上げ過ぎないところがあるということをうけて)
西洋画では、先に白を塗った後に輪郭を引いたりするが、日本の絵では最初の墨の線を大事にする作家が多い。
子どもたちに彩色を教えると、最初はもうバカみたいに迷いなく塗りたくるが、それが存外良い感じになる。小さい子の絵が綺麗で強いのは、色も構図も主観に貫かれていて、バランスが非常によいから。
絵と云うものは、三次元の実物を二次元に落としこむ作業だから、そこには必然的にある種の「変換」が必要になる。ただ「写せば」いいと云うものではない。
一方で目に見える現実、その表層的なものは、いわば劇薬のようなもので非常に影響力が強く、描くときにそれに引きずられてしまいがち。そこから逃れるためには、その刺激をいったんどこかに置いてくる必要がある。河鍋暁斎や若冲もそういったことをしている。
北斎などイメージが割りと定着している画家と違って、雪舟などの画家の作品に接する機会というものは直接触れるというよりも、ある程度日本美術を知っていく過程で触れることになる。別の部屋を通ってから雪舟という部屋にたどり着くイメージで、その通り方によってアプローチもいろいろ変わってくる。そもそもそれ以前の部屋の中に入るつ���りもない人が、家の外から眺めていると恐らく、雪舟も狩野派も浮世絵さえも全部一緒に見えかねない。
西洋画の歴史を知らない人がキュビズム以降のピカソの絵を見て「これの何がいいんだ」というような感じにも似ている。
普通は派生物と元のものがあった場合に、何かを生み出す力は元のほうが強いのではと思いがちだが、実はそれは逆ではないかと感じている。日本にかぎらず、生まれたてのひ弱なそれを、よってたかって「たいしたもの」にしてやる。それが文化。その力が尊い。
中国の茶杓と日本の茶杓を比べて。
中国のものは銀や象牙でつくって、すっと伸びたフォルムにしあげる。でも、日本ではそれをすす竹でつくる。まず、材料からして外してくる。しかも竹の節をわざと残してそれを目立たせるようにしたりもする。なぜそんなことをするかと言えば、外すことによって中心からの距離が生まれ、それによって「動き」を含んだ「静止した動態」とでもいうべきものが現れる。そこがいいのです。
日本人はこの「崩し」の価値をかなり早い時期からわかっていた。日本人は中心がわかっていたからこそ、崩すこともできたのです。
酒を飲んで描くということ。山口も試したことがある。描いているときはいい。しかし酔っているときは迷わないでかける分、自分の持っているものを一歩も踏みでない。
写真画像を知っている私たちは、そのテの正確さを「正解」としてしまいがちだが、それを知る以前は(実はいまでも)人の実感というものが正解であったでしょう。「そうそう!小鳥ってこんな風だよ!」といった具合に。
<興味ある>
光明本尊の絵はすごいインパクトある。中世の浄土真宗で本尊とするためにかかれた絵。正厳寺。
品川の長徳寺にある六道絵はヘンリーダガー。切り貼り絵。ヘンリーダガー面白そう。
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画家の目で見た日本美術史。徹底的に絵描きの実感にこだわり、従来の見方にとらわれないないアプローチは感動的である。西洋画に接した以降の日本画が「ヘン」なのは、良く理解できた。