仕事論の新たな地平
2022/01/19 07:34
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投稿者:病身の孤独な読者 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「ブルシット・ジョブ」という言葉は、今や人口に膾炙した言葉となったが、その大元の書籍が本書である。エッセイ調の語り口でありながら、本質を突いていくグレーバーの姿勢は面白くもある。「ブルシット・ジョブ」は、「クソどうでもいい仕事」と訳されるが、これは仕事に従事する人が主観的に「この仕事は無意味」だと感じる仕事のことを指す。このブルシット・ジョブを皮切りに、現在の仕事や労働をめぐる問題点や仕事と精神状態などを考察する。人類学的方法論というよりも、事例から解き明かす論稿のような書籍である。面白く読むことができる。
ブルシットジョブ
2021/10/24 08:46
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投稿者:怪人 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ブルシットジョブとは、著者の造語であるようだ。仕事をしている本人が、無意味であり、不必要であり、有害でもあると考える業務で、主要ないし、完全に構成された仕事である。それらが消え去ったとしてもなんの影響もないような仕事であり、何より仕事に従事している本人が存在しないほうが増しだと感じている仕事なのだ、という。
だれでもが知っているが、だれにも言われないが故にだれも言わない、ことを2013年にある雑誌に投稿した論評記事をさらに詳しく研究したものが本書だという。。
仕事の価値とその対価としての支払われる金額は反比例する、という事実も指摘している。しかし、このことに関して、多種多様な職業の社会的価値を実際にすべて計量しようと試みた経済学者はほとんどいないそうだ。それでも、そのことを試みてきたその少数の経済学者達は、有用性と報酬のあいだには反転した関係があることを立証してきた。
本書に限らず、欧米や中国社会について様々な視点から研究調査した図書を読むとなるほどと思う。マイケル・サンデルの「実力も運のうち 能力主義は正義か?」、フランコ・ミラノヴィッチ「資本主義だけ残った」はそれぞれ政治哲学、経済学の研究者の視点からの論考だが、本書は人類学の研究者である。
今回は興味津々の論題だった。種々の観点からみれば意見も食い違うが、著者の主張に共感したい。
半分納得で、半分疑問
2022/01/05 16:16
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投稿者:葛飾ホーク - この投稿者のレビュー一覧を見る
半分納得で、半分は疑問が残る。
経営者側の改善できない(したくない?)硬直化はよい結果を生まない。
しかしだからといって本書のようにあれもこれもぶったぎるぜーというのもなんか違う気がする。
問題提起と内容の本質はとてもおもしろいので、同テーマを別の語り口でも読んでみたいと思った。
私たちはなぜ「無意味な仕事」に苦しみ、「いい感じ」で働く自由を阻害されなければならないのか?
2021/09/08 15:03
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投稿者:ぴんさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
まず「ブルシット・ジョブ」とはなにか。筆者であり、この言葉の作者でもある、人類学者のデヴィッド・グレーバーは、こういうふうに説明している。「BSJとは、あまりに意味を欠いたものであるために、もしくは、有害でさえあるために、その仕事にあたる当人でさえ、そんな仕事は存在しないほうがマシだと、ひそかに考えてしまうような仕事を指している。もっとも、当人は表面上、その仕事が存在するもっともらしい理屈があるようなふりをしなければならず、さらにそのようなふりをすることが雇用上、必要な条件である。」ブルシット・ジョブとは、当人もそう感じているぐらい、まったく意味がなく、有害ですらある仕事であること。しかし、そうでないふりをすることが必要で、しかもそれが雇用継続の条件であることである。ブルシット・ジョブは、地位が高く、他者から敬意をもたれることも多いし、その仕事に就いた人間は、高い収入を得て、大きな利益を受け取っていることも多い(ところが、内心では、その仕事を無意味であると感じているのである)。現在の金融化した資本主義システムが作動するとき、必然的に、この壮大な「ブルシット機械」も作動をはじめるということである。ブルシット・ジョブ階級もその機械に押しつぶされているものなのであって、この機械をこそ壊さなければならない。
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1.なぜ無意味な仕事がなくならないのか答えを出したかった
2.現代では、多くのブルシットジョブ(どうでもいい仕事)が無くならない。本書では、ブルシットジョブがなくならない理由について事例を用いて著者なりの考えが述べてある。
ブルシットジョブは無くさなければならないと思っているにも関わらず、自分がその立場になった時には意見が違ってきます。つまり、ブルシットジョブを受け入れてしまうようになってしまう自分がいるのです。この理由としては、何にもしないより働く方が良い、働くとより仕事が増える等の様々な理由があります。つまり、ブルシットに就き、自分を快適にするという目的があります。
そこで本書では、なぜブルシットジョブを受け入れてしまうのか、なぜ社会は根絶しようとしないのかを述べてくれています。
3.結局のところ、管理業務がムダに増えすぎた結果だと思いました。日本の場合は判子文化が蔓延し、上司が判子を押すだけで時間をかけてしまうことが多いです。また、ルールを厳しく規制しすぎたことにより、管理部門が肥大化し、組織財政を圧迫していることも確かなことです。さらに、ブルシットジョブに就いている人は自分の存在がなくなってしまうという危機感が働き、ムダな業務を作ってしまう傾向もあります。そうなると手はつけられなくなります。やはり、ブルシットジョブをなくすには、AIで単純業務、管理業務の大半を担ってもらう必要があると再認識しました。
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久しぶりの単行本。まだ読み始めたばかりだが、ちょっと思っていた内容とずれていた。本書でいうブルシットジョブは職種自体で、なくなってもだれも困らない、しかも従事している人自身が自分の仕事を何の役にも立っていないと感じている。それでいて給与は高い。私が、昨年「現代思想」でこのことばを知って以来、考えていたのは、どんな職種であろうと、本来業務と関係のないところで、ムダな仕事がどんどん増えているということ。たいがいはミドルマネージャーが管理と仕事をしているふりをするために、現場に各種報告などムダな業務の遂行を要求する。私は、そういう仕事がやってきたら、頭の中でブルシットジョブと唱えながら、短時間で済ませるようにしている。どうせやるなら、意味のあるものにして、という発想もあるが、そんな時間はない。そうやって、時間外は月45h以内を何とかキープしている。さて、本書を最後まで読んで、考えが深まるだろうか。・・・深まった。以下、読書後の感想。
やっと読み終わった。4000円分の値打ちはあった。ここでは、自分が考えるブルシット・ジョブ(著者がいう部分的なブルシット・ジョブ)について書いていく。今の会社に入って30年。最初の5年ほどはまだまだアナログだった。1995年、Windows95あたりから、パソコンがひとり1台になり、社内のネットワークを使って仕事をするようになった。「パソコンが入って仕事が楽になったでしょ。」当時の総務部長。「いやいや、かえって忙しくなっていますよ。」同じころ、各教室の清掃は外部委託するようになった。始業からのおよそ1時間、時間ができたわけだ。まったくもって余裕はできない。テストの作成についても、すべて本社または外部で作ることになった。これは職員のスキルアップのために大事な仕事だったと思うが、そういう時間もなくなった。少しは余裕ができたのか。できない。なぜならば、新たな仕事が次々と生まれるからだ。特にパソコン、ネットワークを使っての。「部長連中は仕事を増やすからなあ」これは当時専務の弁。いわゆるミドルマネージャーは現場職員のモチベーションをアップするのが最大の仕事だろう。そこで、目標を定めインセンティブをあたえる。すると各部署へ数値の報告(改ざんも容易な)を求めることになる。これが手間である。もともとモチベーションの高い職員にとっては本当に余計なお世話なのである。言われないと仕事をしない職員がいるからだろうが、何かと報告を求められる。そこにかける時間を顧客に向けた方がよほど会社に貢献できそうだ。(もちろん世の中にも)好き勝手に仕事をさせると、コンプライアンスに反するようなことをする職員がいるからだろうが、イレギュラーな対応についてはとにかく申請書が要求される。ブルシット・ジョブを作っているのはいったい誰なんだ。などとイライラしていると精神的に良くないので、私は、ブルシット・ジョブがやってきたら、「ブルシット、ブルシット」と心の中でつぶやきながらさっさと終わらせて、他の仕事にとりかかる。そうして、時間外勤務を月45時間以内に収めるのを目標に(改ざんはしない、月末に総計を見るのを楽しみにしている)日々の仕事にあたっている。それと、今回の緊急事態にあたって、ブルシット・ジョブ生成装置と思われる人びとはけっこう役に立っている。だから、すべてを排除するのがよいとは思わない。けれど、ブルシット・ジョブが減って、1日5時間×週4日勤務くらいですむようになれば、自分の世界をもっと広げられるような気がするなあ。もっとも、私の場合、あと4年もすると、自動的にそんなふうになるんだろうけど。おっと、忘れてはいけない。著者は政策の提言は控えると言いつつ、最後にベーシックインカムについて言及されている。やっぱりこれだな。生きるために働かざるを得ない、という状況をなくしていく。そうすることで、ブルシットだと自覚しながら働いている人の数は減らすことが可能だろう。ストレスはかなり減るのではないだろうか。みんな、好きなことを仕事にできればいい。
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仕事について改めて考えさせられた。
何故このような無駄な仕事がこの世の中に沢山あるのか、その状況が受け入れられているのか?ちょっと飛躍してると感じるところはあったが、深い考察であり、考えさせられる問題提起だった。
『仕事の社会的価値とその対価の転倒した関係』に関するメカニズムは、この世の不条理。
本当にこの人間社会は不思議です。
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働き始めて10数年の月日のなかで、徐々に膨らんできた”なにか”を、ズバリ言い当ててくれた一冊。
”自分の仕事をなくすことが仕事”という消極的な思いのなかで日々を過ごす一方で、”この仕事はなくなりはしないだろう”という無意識へ依存し、あげく、この仕事が”いまはところは”重要なのだと納得している自分がいた。
日々の仕事のうち、なにが”ブルシット・ジョブ”なのかを正確に見抜くことに取り組みたい。
訳者あとがきにあるように、本書の論点は『負債論』や『官僚性のユートピア』に通じるものがある。より身近な視点から書かれた本書を入門に、引き続き、著者の考察を学んでいきたい。
ブルシットジョブを一掃したのちに、私たちはなにをなすべきか。それこそを議論する時に来ている。
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(以下の感想文を書くにあたり、詳細に読み直しをしたわけではないので、カン違い読み間違い等多々あるかもしれませんが、あんまり広範に拡散するつもりのない文章ですので、寛大な心でご容赦いただきたい・・・)
とても刺激的な著作であった。が、正直僕にはとても読みにくい文体で、読み終わるのに数か月かかってしまった。
この本では、「明らかに無意味である事がわかっているにも拘らず、さも重要であるかの如く振舞わねばならない仕事」の事を『ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)』と定義づけて、ブルシット・ジョブの類型、なぜブルシット・ジョブが、効率を至上とする資本主義の世界で増殖しているのかを、多くのインタビュー記事をちりばめながら述べている。
前半のブルシット・ジョブの分類は、理解のしやすさという面においては有効であるかもしれないが、逆に安易なレッテル貼りを引き起こす危険性もある。たとえば、管理職はすべてブルシットで、現場のケアワーカーはすべてブルシットではない。という決めつけが流布するのはある労働系の運動を煽るのに便利な言葉となるかもしれない。
しかし、何もかもが全てブルシットであるようなカテゴリーというのも、また、全くブルシットでない価値のある労働しかしていないカテゴリーというものもまず存在しない。あるカテゴリーの中でもブルシットであったり、またそうでない価値のある業務が混在していることもありうるだろうし、さらに、ある一人の人間の仕事の中にも、ブルシットであったりそうでないものが混在しているというのが、むしろほとんどではなかろうか。インタビューでは、自分がブルシット業務をせざるを得ない事に悩み、高給でありながらその仕事を辞め、別のやりがいのある仕事に就いたという経験談を語るケースが多いが、実際には、自ら進んでブルシット業務を創作し、自分の仕事を薄めて8時間を過ごして給与を得るような人間が数多くいることも、様々な職を経験した私は知っている。
このことは当然著者も認識しており、誤解が生まれないような注意書きが数多く記述されている。逆にこの記述の多さが全体の読みにくさの原因となっているように(僕には)思われるのだが・・・。
そのような、若干危険をはらんだ概念のように思われる「ブルシット」という言葉ではあるが、やはり興味深い考え方である。それは後半以降の章で、急に面白さを増して現れてくる。
まず、著者は、資本主義(合理性・効率性による最大利益追求)の権化であるとみなされている営利企業が、実は資本主義の論理で動いていない。すなわち現在資本主義と言われているものは実は資本主義ではない、と述べている。じゃあ企業は何の論理で動いているのか?著者はそれを、『経営封建制』という言葉で表している。
『経営封建制』とは何か?それは、古式ゆかしい封建制と似たものである。
昔の貴族や富豪の世界には、来訪者の対応のみをする「ドアマン」、道を進む馬車の前に小石が無いかを確認するだけの「フットマン」など、「偉い人間を偉く見せようとするため」に人を雇用する事があたりまえであった。
それは本書において『ブルシット・ジョブの五類型』の第一、「取り巻き(フランキー)」として定義づけられるものである。そのほか「脅し屋(グーン)」「尻ぬぐい(ダクト・テーパー)」「書類穴埋め人(ボックス・ティッカー)」「タスクマスター(仕事割当人)」とあるが、これら残り4つのブルシット・ジョブは結局、第一の「取り巻き(フランキー)」に還元されるといっても良い。
『経営封建制』とはすなわち、大企業になればなるほど、自ら大企業であることを証明するために、効率・能率とは真逆の「取り巻き」を抱えるようになる。自らの会社がある基準を満たしているという審査に通るためだけの書類をつくるためだけの部署など、がそれだ。これらの部署は自分たちだけがブルシットであるだけならまだマシだが、あろうことか自らがそのことについて指揮権があるかの如く振舞い、周囲にもブルシットな作業を強要することすらあるのだ!
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世界は『資本主義』ではなく『経営封建制』によって支配されている。後半の論旨は非常に刺激的で面白かった。「イェルサレムのアイヒマン(アーレント)」で『悪の凡庸さ』を知り、「測りすぎ(ミュラー)」で『過剰な測定指向による改竄の誘発』を知り、そして本書で『経営封建制によるブルシット・ジョブの増殖』を知った。僕は、この三つの概念は非常に密接に関わっている様に思えてならない。個人的な不遇の時期&コロナ禍により、読書の時間が増え、これらの書物を比較的短期間の間で読了することができたのは非常に良かったと思う。どの書籍も決して明るい未来を楽観するようなものではないが、今をサバイブする心構えを改めて指し示してくれたように思う。(2021/01/17記)
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人類学者でありアナキスト活動家でもあるデヴィッド・グレーバー(1961-)による現代社会への問題提起の書、2018年。
学生時代に、書店で『アナーキスト人類学のための断章』という本を見かけ、その著者デヴィッド・グレーバーの名前を知った。「アナーキスト」と「人類学」という二つの語の結びつきが奇妙に感じられて印象に残ったのだが、これまで読んでみることはなかった。本書を読むと、「人類学」と「アナキズム」の結びつきが決して突飛なものではないということが、少しずつ了解されてきた。本書の中でも彼は自分の政治的立場を明確に述べている。「わたし自身の政治的立場は、はっきりと反国家主義である。つまりアナキストとして、国家の完全なる解体を望んでいるし、そこにいたるまで、国家にいま以上の権力を与えるような政策には関心がない」(p359)。
グレーバーが本書の主題として取り上げるのは、現代の大多数の労働者が全く無意味に見える業務に生活のほとんどの時間を費やしている、という問題である。彼はこれを「ブルシット・ジョブ」と命名する。現代人を苛むブルシット・ジョブの正体は何なのか。なぜそれは人間にとって有害なのか。なぜそれは増大してきたのか。なぜ人々はそれを減らそうとしないのか。こうした問いを、経済的、政治的、歴史的、社会的、文化的な多様な視点から解明していく。
以下では、私が捉え得た限りの論点を備忘録的に挙げておく。
□ ブルシット・ジョブの定義
ブルシット・ジョブは、以下の三要件を満たす有償労働として定義される。
① 実質的な価値が無く、無意味で、不必要で、有害な業務である。
② 被雇用者本人が①を自覚しており、その業務の存在理由を正当化できない。
③ ②にもかかわらず、被雇用者は①が真ではないかのごとく取り繕うよう、自他双方への欺瞞を強いられる。
一般に「割に合わない仕事(シット・ジョブ)」とされるものは、「無意味な仕事(ブルシット・ジョブ)」とは区別される。前者は不当に低収入ではあるが社会的に有益な仕事であることが多いのに対し、後者は過剰に高収入ではあるが社会的にはまるで無意味な仕事であるから。
□ ブルシット・ジョブの諸類型
ブルシット・ジョブの典型として以下の五類型が挙げられている。
① 取り巻き(flunkies)・・・上司に実際以上の権威があるかのごとく偽装するために上司のそばに侍る業務。具合的にいかなる業務がそこに割り当てられるのかは、二次的な問題とされる。女性秘書など。
② 脅し屋(goons)・・・消費者を脅迫して故意に彼らの不安を煽ることで、本来は存在しなかった需要を捏造する業務。広告業など。(美容技術を施した女優の美しさをみせつけることで)「われわれは視聴者が番組本編をみているあいだは自分たちに欠陥があるようにおもわせ、CM時間にはその〔欠陥への〕「解決策」〔商品〕の効能を誇張してみせるのです」(p63)。
③ 尻ぬぐい(duct tapers)・・・構造的に欠陥がある組織や無能な上司によって惹き起こされる損害の後始末をする業務。組織の不具合や上司���無能さといった問題の根本原因を解消することよりも、その問題に対応することに人員を割いたほうがましだ、と考えられている。
④ 書類穴埋め人(box tickers)・・・官僚機構において手続き上必要とされる書類を作成する儀式的な業務。そうした書類やひいては手続きそのものが実質的に有意味であるのかどうかは、二次的な問題とされる。なぜなら、官僚機構においていったんある制度が導入されれば、その実質的な是非は問われることなく、制度の永続的な運用が自己目的化されるから。背景には、実質的な業務よりも形式的なペーパーワークのほうが重要とみなされる、官僚機構特有の倒錯がある。
⑤ タスクマスター(taskmasters)・・・他者にブルシット・ジョブを割り当て、それを監督する業務。場合によっては自らブルシット・ジョブを作り出し、それを他者に割り当てることもある。中間管理職など。
「ブルシット・ジョブを生み出しているのは、資本主義それ自体ではありません。それは、複雑な組織の中で実践されているマネジリアリズム〔経営管理主義〕・イデオロギーです。マネジリアリズムが根を下ろすにつれ、マネジリアリズムの皿回し――戦略、パフォーマンス目標、監査、説明、評価、新たな戦略、などなど――を維持するだけが仕事の大学スタッフの幹部たちが登場します」(p86)。
□ なぜブルシット・ジョブは非人間的なのか
そもそもブルシット・ジョブの問題は、①「無意味性」(社会的価値が全くない無意味な業務であること)と、②「欺瞞性」(無意味な業務であることを自覚しながらさもそうではないかのように自他双方に対して欺瞞を強いられること)の二点にある。このそれぞれが人間精神に対して暴力的に作用するからである。
①について。人間は、他者との関係性において、はじめて自己の価値を確認できる。つまり人間は、自己の意志と能力を用いて、社会的に有意味な状況を構築することができて、はじめて自己の存在理由を確認することができる。よって、無意味な業務であるブルシット・ジョブを強いられる状況は、人間の自尊心を損なうという点で、人間性に破滅的な影響を及ぼす。これは、「他者にとっての自己」への攻撃であるといえる。
②について。人間は、自己を自己として率直に受け容れることが可能となって、はじめて自己が自己であるという根源的な自己同一性を確認することができる。よって、自己欺瞞を伴うブルシット・ジョブを強いられる状況は、自己同一性の感覚を不安定化させてしまうという点で、同じく人間性に破滅的な影響を及ぼす。これは、「自己にとっての自己」への攻撃であるといえる。
また、ブルシット・ジョブが強要されるとき、そこには権力が作用している。労働の現場では、上位者による下位者への理不尽な権力行使が頻繁に起こるものであり、ときにそれはサディスティックな虐待行為にまで発展する。さらにひどいときには、それは権力の表現それ自体を目的としてなされていることもある。そこでは、労働者はその自由意志を無化され、雇用者に操作されるだけの道具的存在に貶められる。このような状況では、自律的主体であろうとする精神に深刻な傷痕を残すことになる。
□ なぜブル��ット・ジョブは増加したのか
そこには、産業資本主義から金融資本主義への変遷という、経済的な背景がある。
①産業資本主義のもとでは、自動車産業に代表されるように、企業は実質的な財を生産しそれを販売することで利益を上げていた。②しかし、1970年代頃から台頭しはじめる金融資本主義のもとでは、FIRE部門(金融、保険、不動産)に代表されるように、実質的な生産に基づいて利益を上げるのではなく、自分や他人の資産を動かしてそれを増殖させることによって利益を上げる(則ち、他者に債務を負わせ、その利子によって利益を上げる)。③そこでは、複雑な資産運用を管理するうえで、ひとつひとつの操作の適正性を保証することが求められ、そのために各段階ごとに細分化した手続きが増加し、この煩瑣な業務を担う経営管理部門に多数の人員が割かれることになる。
④このような金融部門の経営形態が他の業種にも広がっていく。⑤あらゆる企業において、社会的な実質を伴わない経営管理上の形式的な手続き業務としてのブルシット・ジョブが大量に形成されていく(複雑化する業務→そのひとつひとつの適正性をチェックするためにそのひとつひとつごとに課せられる膨大な書類作成と事務手続き→さらに複雑化する業務)。⑥それと同時に、実質的な生産活動を担うブルーカラーよりも、こうした社会的には無価値なブルシット・ジョブを担う専門職ホワイトカラー(コンサルタント、アナリスト、マーケティング専門家、会計スタッフ、法務スタッフ、それらを統括する無数の中間管理職など)の存在感が増していく。⑦ついには、かつて有意味とみなされていた実質的な業務までもが、ブルシット化していくことになる。
「わたしのいいたいのは、実質のある仕事のブルシット化の大部分、そしてブルシット部門がより大きく膨張している理由の大部分は、数量化しえないものを数量化しようとする欲望の直接的な帰結だということであるはっきりいえば、自動化は特定の作業をより効率的にするが、同時に別の作業の効率を下げるのである。なぜかというと、ケアリングの価値を取り巻くプロセスや作業や成果をコンピューターが認識できるような形式へ転換するのには、膨大な人間労働を必要とするからである」(p337)。
金融資本主義は、いっさいの人間的社会的事象を、資産価値と同様に計量可能=交換可能=比較可能なものとみなし、数値化することが即ち効率化であると思い込む傾向がある。
□ ブルシット・ジョブの存在はネオリベラリズムと矛盾しないのか
現代の支配的なイデオロギーであるネオリベラリズムが経済効率に至上の価値を置いているということを考えれば、労働力の無駄遣いでしかないブルシット・ジョブの存在自体が極めて矛盾したものに映る。それにもかかわらず、現代の経済システムがこうした膨大なブルシット・ジョブによって成立し維持されているのであれば、実はそこで駆動しているのは経済の命法ではないのであって、何らか別の政治的な意図が働いているのではないか。
ここでグレーバーは、現代の経済システムが中世の封建制と類似していると指摘し、それを「経営封建制」と名付ける。中世の封建制においては、封建領主が、法的強制力と��う政治的手段を用いて農民が生産した富を収奪し、支配と権威の確保という政治的目的のためにその富を配下の者たちに再配分する。また、現代の経済システムにおいても、企業が消費者や納税者から収奪した富は、かつての産業資本主義のように労働者に還元することはせず、富裕層や企業上層部の資産を増大させるのに加えて、ブルシット・ジョブおよびそれを担う管理部門の役職を新設するのに費やされる。こうしてブルシット・ジョブおよびそれを担う膨大な被雇用者が際限なく再生産されていく。
つまり、現代の経済システムも中世の封建性も、「物財を実際に製造し、運搬し、保全するよりも、その物財の領有や分配を基盤におき、それゆえに、システムの上部と下部のあいだに諸リソースをまわす作業に人口のかなりの部分が従事する政治-経済システム」であり、「その人口は、複数の層[略]が複雑に位階化されたヒエラルキーへと組織される傾向にある」(p238)という点で共通している。
そこでは、ヒエラルキーの高さと複雑さが、その頂点にいる封建領主=企業経営者の権威の大きさを象徴するとされる。つまり、ブルシット・ジョブならびにそれに従事する多数の被雇用者は、経済的には無駄でしかないが、雇用者の権威を可視化しかつ実際以上に粉飾して誇示してみせるという政治的目的のために、大量に必要とされることになる。
この意味では、現代の経済システムは、資本主義ではないということになる。新自由主義イデオロギーは、決して全地球的に貫徹されているのではない。それは、もっぱら経営者が労働者に対して強要するだけのものだという意味で部分的なのであり、経営者自身は効率至上主義の命法が及ばぬ例外としてそれに服従してはいない。つまり新自由主義は、純粋に経済学的な命法としてそれ自体で独立している根源的なものではなくて、ある特定の政治的思惑に従属しているのである。
以上からもわかるとおり、「ブルシット・ジョブは「民間部門」には存在せず、非効率な「公共部門」にのみ起こりうる」という議論は、新自由主義が部分的なものでしかないという点を見落としたことから生じる誤解である。「すなわち、経営者たちは時間的・エネルギー的に最も効率の良い方法を科学的に研究し、それを労働の編制に適用した。ところが、その同じ方法を自分たちに応用することは決してしなかったのである[略]。その結果、ブルーカラー部門において、きわめて情け容赦ない効率化とリストラが敢行されたのと同時期に、ほぼすべての大企業で無意味な経営職および管理職のポストが急速に増殖した」(p37-38)。
□ なぜブルシット・ジョブは減少しないのか
その背景には、歴史的に形成されたイデオロギー状況がある。
中世から近代へ移行し、資本主義が誕生することによって、一生涯を賃労働に縛りつけられる労働者が生み出されることになった。こうした歴史的状況に呼応するかのように、中産階級とそのイデオローグたちは、「労働は自己規律と人格形成の契機として道徳的に価値がある」という「労働=善」のイデオロギーを広めていく。その典型例としてカーライルの言葉が引かれている。「ひとは働くことによって自身を完成する」。「真の労働はすべて神���である」。「苦役の生涯をうったえる諸君はなにものか? 不平をいうな。わが疲れたる兄弟よ、顔を上げよ。かなた神の永遠の世界に、諸君の仲間である労働者が生き残り、かれらのみが神聖な一隊の不死の者として、人類の帝国の天なる親衛隊として、残っているのを見るがよい」(p298)。つまり、「労働は、無意味な苦役であるかもしれないが、人格を陶冶するものであり、それ自体で価値がある。その報いはあの世で受け取れ」という。「徳はそれ自体が報いである」を労働へ応用したのである。この「苦痛であるがゆえにこそ、価値がある」というマゾヒスティックに倒錯した弁証法は、現代人をブルシット・ジョブに縛りつける呪いのひとつであろう。労働とは、自己否定なのである。この苦役に対する報酬は、自尊感情と、社会的承認と、商品の消費を通した自己実現である。
(同時期に生まれたもうひとつの呪いについて。かつて天上の星々とともにあった時間は、産業革命期に時計が普及することによって、人間による所有と管理と売買の対象となった。こうして、「労働者は、たとえ無意味であることが周知の業務であっても、労働時間のあいだはそれに従事しなければならない」という通念が生れた。なぜなら、労働者の時間は、労働者自身のものなのではなくて、彼らを賃金によって買い上げた雇用者の所有物であるから。賃労働において怠惰は、道徳的堕落であると同時に、法的には盗みとされるようになった)。
(なおカーライルを引用した箇所に付した注において、これと対照的なニーチェの労働観が紹介されていて興味深い。ニーチェはカーライルのような労働の称賛の背後に「すべての個体的なものに対する恐怖心」を見出す。「人々がいま労働[略]を見て結局感じるところは、そうした労働が最善の警察であること、それが各人を制御して、その理性や欲情や独立欲の発展を力強く妨げることができるということである。なぜかといえば、労働は異常に多くの神経力を使い、それを思索や瞑想や夢想や配慮や愛情や憎悪から奪ってしまうから」(p398-399))。
なぜ、社会的にも有益である実質的な仕事は、社会的に無意味なブルシット・ジョブと比べて、低い報酬しか支払われないのか。なぜ、労働の社会的価値と経済的価値は反比例しており、かつ多数の人々がそれを妥当なこととして是認してしまっているのか。この事態も、「労働は、苦痛であればあるほど、それゆえに価値がある」という呪いによって説明できるだろう。則ち、社会的に有益である実質的な仕事は、その有意味性ゆえにすでに報われているのであり、その上さらに高額な報酬を要求するのは不当である。なぜなら、社会的利益の実現を目的とする仕事を選んだにもかかわらず、その仕事の成果に対して高額の報酬を要求することは、社会的富の不均衡な分配を惹き起こすことになり、仕事の目的と矛盾するから。同様に、社会的に無益なブルシット・ジョブは、その無意味性ゆえにすでに苛まれているのだから、その上さらに低い報酬しか支払われないのは不当である、ということになるのだろう。この根底には「嫉妬」の構造があるように思われる。「嫉妬」は労働者の分断状況を作り出しているという点で、深刻な問題である。
「[略]、否定しようのない��とが一点ある。そのような労働の状況が、憎しみと反感に満ち満ちた政治的状況を助長しているということである。必死にがんばっているのに仕事がない人びとは、雇用を得た人びとに対して反感を抱く。雇用を確保している人びとは、貧困者や失業者に対する反感を抱くようにそそのかされている。貧困者や失業者は、たえず、たかり屋とか寄生虫といわれつづけている。ブルシット・ジョブにはまった人びとは真に生産的であったり有用であったりする労働をおこなっている労働者に反感を抱き、真に生産的で有用である労働をおこなっているのに十分な給料をもらっておらず、品位を貶められ、その意義を十分に理解されない人びとは、有益であり立派で魅力的なことをしながら同時に裕福に暮らしていける数少ない仕事を独占しているとみえる人びと――そのような人びとを「リベラル・エリート」と呼ぶ――に反感をおぼえる。かれらは、こと自分たちが(適切にも)腐っているとみなす政治エリートを嫌悪するという点では、一致団結する。しかし、政治エリートといえば、自分たちにむけられる以外の、このような無内容な憎悪の形態は、非常に都合がよいとみている。というのも、自分たちから注意を逸らすことができるからである」(p320-321)。
ブルシット・ジョブという現象から見えてくるのは、労働は搾取と抑圧と分断の最前線にあるということである。
□ ベーシックインカムの導入へ
生活を労働から切り離し、不条理なブルシット・ジョブから人間を解放するための手段として、ベーシックインカムの導入が提言される。
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読みにくい、けど、それもまた、アナキズムぽいというか、味わい深い。二重否定はおろか四重否定まであって頭がくらくらさせられた。ともあれ、後半の畳み掛けは最高。まさか、アナキストからベーシックインカムが提案されるとは。
つい先日、著者の訃報を知った。コロナ以後の世界が著者にはどのようにうつるのだろうか、もう言説がきけないのは、非常に残念。
ご冥福をお祈りします。
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「勤め仕事」とは何かを考えるいいきっかけになる本
ブルシットジョブという言葉を知ること、それについて考える時間が生まれるという点がこの本の最大の価値だと思う。
エビデンスという点では少し弱かったり突っ込みどころもあるが、そう思いながら読めるのもこの本のいいところ
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ブルシット・ジョブ…私たちすべてを働かせ続けるためだけに、無意味な仕事を世の中にでっちあげている仕事。被雇用者本人でさえ、その存在を正当化し難いほど、完璧に無意味で有害である雇用の形態。
また、本人は「必要である」と取り繕っている仕事。
我々がテクノロジーの進歩にも関わらず、全く労働時間が減らないのは、主にこいつらのせい。
ブルシット・ジョブ…実入りは良く、雇用条件もいいが全く無意味な仕事
シット・ジョブ…世の中の益になっているが、給与が低く冷遇されている仕事。ブルーワーカー。
かつて社会主義体制のもとでダミーのプロレタリアの仕事が無数に作り出されたように、資本主義体制では、どういうわけか、代わりにダミーのホワイトカラーの仕事が無数に作り出された。
ブルシット・ジョブの5類型
1 取り巻き…誰かを偉そうに見せる仕事。ドアマン、暇な管理職の秘書。
2 脅し屋…他者の不安を煽り、不必要なものを与える仕事。需要を捏造する広告、マーケティング業界、欲しくもないものを売りつける保険、金融営業。脅迫性、欺瞞性がある。
3 尻拭い…目上の人間の不注意や無能さが引き起こした損害を、現状復帰させる仕事。システム上の欠陥の始末。デジタル化が進んでいないため、手動で転写をする仕事などがある。
4 書類の穴埋め…やっていない何かをやっているように匂わせる手口。書類を作ることが仕事になり、「何のために書類を作るかという目的」がないがしろになる仕事。官僚制の多くが当てはまる。
5 タスクマスター…他人への仕事の割り当てだけをする仕事と、「ブルシット・ジョブを1から作り出す仕事」。部下の監督だけを仕事とする中間管理職(彼がいなくてもチームは成り立つ)や、日の目を見ることもないペーパーワーク組織に課すこと。
ブルシットを生み出しているのは、資本主義それ自体ではなく、複雑な組織の中で実践されている経営管理至上主義である。それが戦略、パフォーマンス目標、監査、評価など膨大な業務を生み、それを維持するだけの人間が登場する。
人間というのは、最小の時間と労力の支出で最大の利益を求めるもの、と規定されている。であるのに、どうして、ブルシット・ジョブに携わる人間は自分を不幸とみなしているのか?それは、人間とは本質的に、高度に社会的な人間であるからだ。
自分は役に立つから雇われたわけではないという自覚が、人に甚大なる悪影響を及ぼすのだ。それは、個人の自尊心を損ねているのみならず、わたしはわたしであるという根源的感覚に対する直接攻撃なのだから。
時間とは、仕事の測定を可能とする秤ではない。なぜなら仕事は、それ自体が尺度だから。しかし、現代に入って、雇用主が被雇用者の時間を買い、自由に所有するの、という現象が現れるようになった。「怠惰は他人の時間の盗みである」という倒錯した道徳観念が出現した。
突き詰めて言えば、他人の作った「働いてるふりをしないと怒られるため、働く」というごっこ遊びに参加しなければならないというのは、やる気を削ぐものなのだ。世界や他���から独立した自律的存在という感覚を人間が抱くとすれば、それは、世界や他者に予測可能な仕方で働きかけできるという実感によりもたらされるものであるが、こうした行為主体としての感覚がごっこ遊びによって絶たれたならば、我々は存在しないも同然だ。
ブルシット・ジョブに就いている人間の不満の大部分は、誰に文句を言い、自らの置かれた状況をどう表現すればいいかわからないという、「不明瞭さ」から来るものだ。
ブルシット・ジョブはストレスをもたらす。それを行うオフィスでは、労働者の間に心理的ないがみ合いや攻撃性が強く現れる傾向にある。対象的に、意義ある目的に向かって全員が協力して仕事をしている職場は、和やかである傾向にある。
近年のサービス産業の増大のうち、ほとんどはFIRE部門(金融、保険、不動産)である。いわゆる情報労働だ。投資家とは、抽象物を操作して無から価値を生み出したが、その大部分は詐欺であった。
【ブルシット・ジョブの増殖をもたらしている大きな力は何か?】
よくある意見
1 複雑化した社会においては、それだけ管理者が追加で必要になる。彼らの仕事はブルシットではない。それは最終生産物から余りにも遠くかけ離れた仕事をしているため、ブルシットに感じるだけだ。
2 ブルシット化しているのは認める。しかし、それは政府が市場に介入し、市場の効率性を妨げているからだ。
1への反論…管理業務サービスにおける職員数は、管理運営者よりも、ただの下っ端事務職の数が膨大に増えている
2への反論…公立大学よりも私立大学のほうが職員数が増加している
FIRE部門が基本的にやっていることは、融資を行うことでマネーを作り出し、極端に複雑な方法であちこちに動かし、取引をするために少しずつあがりをいただくことだ。しかし、これは時としてわざと非効率になることを助けるし、事業自体が無意味なものとして存在していることも多い。
ブルシットジョブの代表格は銀行。
なぜなら、金融機関で働いている人間の多数が、銀行がいったい何をしているのか、あるいはそもそも、それは存在する正当性のある事業なのかすら確信できないからだ。
大企業は、モノを製造したり、建設したり、修理したりにますます関与しなくなり、お金とリソースの領有、分配、割り当てにますます関与するようになっている。
1975年あたりから、生産性は飛躍的に上昇したにも関わらず、労働者の時間あたり報酬は増加していない。
この利益のほとんどは、1%の最富裕層の資産を増大させただけでなく、基本的に無意味な専門的管理者の地位を増やすために使われた。こうしたエリートのヒエラルキーの形成は、経済的な枠組みの中に、封建制のような政治的な現象が形成されてきたと言える。
つまり、物を実際に製造し、運搬するよりも、その物の領有や分配を基盤におくシステム――システムの上部と下部の間にリソースを回す作業に人口のかなりの部分が従事する政治・経済システム――は、複数の層が複雑に位階化されたヒエラルキーへと組織される。
制作作業ではなく管理、評価、議論に多くの時間を費やすこと、金のあるところにエ��ゼクティブ〇〇が集い官僚制組織を作り、組織を硬直化することが、多くのブルシットを生んでいる。
結論としては、企業の生産活動の中に、政治性が入り込むことがブルシット創出の原因となっている。
【なぜ経済のブルシット化が社会問題とみなされないのか、なぜ誰もそれに対応しないのか?】
商品は、他の商品と比較することができるまさにそのことによって、経済的価値をもつ。同様に、諸価値(家事、育児、チャリティーなどの測れない価値)は、なにものと比較することができないそのことによって価値がある。
ブルシットジョブに携わる人々の悩みの殆どは、「人々の役に立っているのか」ということだった。
この種の社会的価値は測定することができないが、ほとんどの人が「仕事には生活のための報酬と、世界に積極的な貢献をする機会の2つが必要だ」と考えていた。
【便益と報酬】
他者のためになればなるほど、受け取る報酬がより少なくなる傾向にある。
徳のために仕事をする人には、それが社会にとって価値のあるものだからこそ、追加で報酬を与える必要はないとの空気があるようだ。
ほとんどの労働者階級による労働が、実際には女性の仕事と基本的にみなされるものに類似しているという現実が見えなくなっている。労働とは、物を作り出す以上に、ひとの世話をする、人の欲求や必要に配慮する、確認する、予想するものである。(ケアリング労働)
生産的労働の典型を工場労働として考えるからこそ、資本家はいともたやすく、労働者は機械となんら変わることがないと考えることができるのである。
無意味であり自尊心を傷つけられる自分の仕事を嫌悪しているがゆえに、尊厳と自尊心の感覚を得る。
これは、「過酷な労働につかない人間は、生きるに値しない」という(根拠のない)社会通念のみに支えられている。
機械化が進むに連つれ、仕事はますます「生産的」労働とみなされているものから遠ざかり、ますます「ケアリング」労働に接近している。
しかしながら、これは、仕事のケアリング的な価値が、労働の中でも「数量化しえない要素」である、という問題にぶち当たる。
ブルシット部門が大きく膨張している理由の大部分は、数量化しえないものを数量化する欲望の直接的な帰結である。自動化は特定の作業をより効率的にするが、同時に別の作業の効率を下げる。ケアリングの価値を数量化しコンピュータに認識させるプロセスは、膨大な人間労働を必要とするからである。
ベーシックインカムの究極的な目的は、生活を労働から切り離すことであり、実施するあらゆる国で官僚性の大幅な縮小が、すぐに効果としてもたらされるだろう。豊める社会において跋扈している不必要な高コストのブルシットが消えることをサポートしてくれる。
これは、人間は強制が無くても労働をおこなう、ないき、少なくとも他者に対し有用ないし便益をもたらすと感じていることを行うであろう、という前提から成り立つ。
「そんなことをしたら、みんながみんな無意味な活動をして経済が回らなくなる」という反論には、こう答えればよい。
「そのような層は一定数出てくるだろうが、全体の20%を超えることはないだろう。ところが、今現在、50%以上の労働者が自分の仕事を無駄だと感じているのだ。これよりも労働の配分が非効率になるということが、果たしてありえるだろうか?」
おまけ
パンデミックによる未曾有の経済停滞と、社会崩壊がそれほど起こっていない事実は、ブルシット・ジョブの存在を明らかにしたと言えよう。
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ブルシット、ときた。アナキズムを標榜する著作には往々にしてこのように露悪的なタイトルがついていて、正直手に取るのに躊躇いを覚えるものが多い。煽られてたまるか、という気分になるのだ(その意味では、著者の代表作「負債論」は抑制的なタイトルで好感が持てたが)。しかし、本書は自分がまさにこのところずっと薄気味悪く感じていたものをストレートに取り上げたものであることが直感できたので即タイトル買い。僕はまさに本書で槍玉に挙げられている「FIREセクター」従事者だが、僕のような人間も本書の主張を馬鹿にすることなく受け止める必要はあるように思う。なぜなら、後で述べるようにイデオロギーへの賛否はともかくとして、現実は本書を追いかけているように見えるからだ。
「負債論」でのテーマを引き継ぎ、著者は「ブルシット・ジョブ(BJ)」が蔓延する原因を金融資本主義の進展に求める。20世期初頭のドイツの心理学者カール・グロースが唱える「原因となる悦び」、即ち自らの主体的動作が始動因となり何らかの意義ある結果が生じることに喜びを見出すという人間の本性を、他人の資産(負債)の上前をピンハネすることで肥大する金融資本主義が損ねているというのだ。社会のためになる何物かを生産することで得られる満足感を、アセットを高速回転させることで得られるフィーやキャピタルゲインが駆逐する世界。コロナ禍以降の実体経済とキャピタルマーケットの乖離を見れば納得できる向きも多かろう。この根底には、もとより金銭的な「価値」と、金銭で計量されるべきではない「諸価値」を、過度に発達した貨幣経済が仲立ちしてしまっていることがあると言う。つまり、人間の原初的な喜びが即座に貨幣価値で計測されてしまい、価値体系の中に金銭的で即物的な効用と一緒に取り込まれて比較されしまっているというのだ(このように、私見では本書の主眼はこのマルクスの価値形態論/労働価値説をリプライズすることにある)。
ここで、仕事の社会的価値と報酬の負の相関関係を説明するために導入される道徳哲学者ジェラルド・コーエンの命題がストライクする。彼曰く、社会にとって真に価値ある仕事を行おうとする利他主義者は、まさに自分が利他主義者であると言うそのことのために、他より多くの報酬を受け取ることができない。報酬を要求することはそのまま自己否定となるからだ。これをそのまま反転したものが本書のテーマであるブルシット・ジョブであり、本来不要であるというまさにそのことによって多額の報酬が与えられているという逆説に根拠を与えている。
このような倒錯が温存されている原因として、著者は①仕事は本来的に「罰」である一方で価値ある「創造」であるというエデンの園やプロメテウス以来の「神話」と、②中世ヨーロッパ封建社会の職域別徒弟制に端を発する「ライフサイクル奉公」を挙げる。ここから生じた「仕事はキツくて当たり前の美徳であり、また生産性と報酬はリニアであるべきだ」という現代の職業観、これこそがBJ温存の遠因であるという。
面白いのは、トマス・カーライル(役所仕事を「レッドテープ」と呼んだあの英ドイツ文学者)に見られ��ように、過酷な労働はそれ自体が美徳で価値あるがためにこそ報酬の対象にすべきではないとする「仕事の福音」観は、著者によればなんとマルクスの労働価値説に先立って産業革命直後のヨーロッパ社会に既に根付いていたという(これがアメリカに渡り、南北戦争後の大規模官僚制的資本主義の進展に伴い、最終的に労働ではなく資本が価値を生むのだという「消費主義」に反転した)。
また、勤労を美徳とする労働観は、マックス・ヴェーバーの説くようにプロテスタント/ピューリタニズムの影響ではなく、さらに遡って封建制度に起源を持つという著者の視点も面白い。ヴェーバーのロジックには難があると常々思っていた自分には受け入れ易いが、ただもっと深掘りして欲しかった部分ではある。
とにかく、この倒錯した状況は右派と左派の間に「道徳羨望」の眼差しの交錯を生じさせ、社会を分断する。本書は問題提起の書であって特定の解決策を提示するものではない、とする著者が、にも関わらず提示するのが「普遍的ベーシック・インカム(BI)」だ。唐突感はもちろん否めないが、ただ、著者の言わんとするのが、現代の労働観はたかだか古代〜中世ヨーロッパ世界の価値観を反映した構成的なものであり、この構成を突き崩すとりあえずの方便としてBIが持ち出されていると考えれば、合点のいく度合いは大きくなる。
著者の主張には同意できない部分はもちろんある。まず社会的便益を与える/奪うとされる職業の区別がどのような観点からされているのかブラックボックスになっているところ。清掃員がファンドマネージャーに比べてケアリング要素大で社会善であるとは、どのように数値化すれば言えるのだろう?間接的要素も含めるとさほど違いがないのでは?そもそも著者の主張に沿うように職業がゲリマンダーされているのでは?という疑念がまず一つ。
また、BJが温存される理由として経営層のパワーゲームによる人員の抱え込みが挙げられているが、他の箇所にあるように、複雑に細分化された職種に就いている人が、本来の目的との因果関係が見えづらくなっているために覚える不安で説明した方が納得感がある。経営資本層を攻撃するための弁法として使われてるのでは?何よりも、そもそも前半(やたら長い。時間がない人は第6章だけ読んでも事足りると思われる)で挙げられているBJの例が極端すぎるのでは?という疑念も拭いきれない。
ただ、BIへの賛否はともかくとしても、コロナ禍後に全世界的に見られる公的セクターの負債拡大を見ると、左右問わず実質的にBI導入の方向に世界が舵を切っているように見える。冒頭で「現実は本書を追従している」と言ったのはこういうことだ。著者によれば「現段階でも自らの仕事に価値がないと訴える人が多いのだからBI導入でこれ以上労働配分が歪められるはずはない」というが、ともあれ世界が変わる可能性があるのは確かだと思う。ただそれが善い方向か否かはまた別の問題だが。
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話自体は非常に面白かった。
ただ"""日本語訳"""って感じの文章が読みづらすぎて読むのが辛かった。
かまいたちの、「もし俺が謝ってこられてきてたとしたら絶対に認められてたと思うか」、みたいな感じ。
※P.263の見出し「現代社会に生きるほとんどの人びとは、たとえそれがなんなのか明確にすることが困難であったとしても、どのようにして経済的価値とは峻別される社会的価値という概念を受け入れているのか」
解説本によいものがあれば、本書よりそちらを読みたい。
#ブルシットジョブの定義
被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある雇用の形態。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕うわなければならないと感じている。
#ブルシットジョブの主要五類型
①取り巻き(フランキー)
②脅し屋
③尻ぬぐい(ダクトテーパー)
④書類穴埋め人
⑤タスクマスター
#ブルシット・ジョブ従事者は不幸に感じる
■囚人は、一日中テレビを見ているよりも、洗濯や掃除などの労働をしている方がストレスを感じない。それほど無意味なことを強いられるのはストレス。
■独房に6ヶ月入れられると、物理的に観測可能な形で脳に損傷が出る。それほどに人間は社会的な生き物。
■幼児は、自分の行動が予測可能な形で世界に影響を与えられることに気付いた時に大きな幸福感を得る。
#資本主義社会においてはブルシット・ジョブは増殖し続ける
■資本主義社会において金融セクター従事者の賃金は上昇、だが金融セクターはブルシット・ジョブの宝庫
■資本主義では貧富の差は広がるしかない
→富裕層はフランキーや脅し屋を生み、それによってダクトテーパーやタスクマスターが必要になり、書類穴埋め人の仕事も増える
#なぜブルシット・ジョブの増加に人々は反対しないのか
■古来より労働は大変なほど神聖とされ、神聖な労働ほど見返りを求めてはならない風潮がある(例えば「出産」など)
#解決策は?
■ベーシックインカムが提案されている
ここが一番面白い。実現できるとは思えないが。
実際、ロボットやAIなどによって、人間が行うべき労働は減少しているはず。
ベーシックインカムが導入されれば、人々は報酬を気にせず好きなことができるはず。
やりがいのあるリアルジョブほど報酬は低いが、取り組みやすくなる。