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今回『自由と規律』を読み、その感想としてまず抱いたことは次の通りである。つまり、私は高校時代に真なる自由というものを謳歌できているのかという疑問である。なぜならば、私が3年間を過ごした熊谷高校は、その校訓の一つとして「自由と自治」というものを掲げているからだ。その高校では一般の高校と違い、制服が存在しない。学生は各々自由な格好で通学することができる。休み時間の過ごし方も自由である。たとえば、昼休みに抜け出し、近所のコンビニや駄菓子屋、レストランへ行くことも可能である。授業においても担当教員が不在の場合は、その時間は各自図書館学習(通称カクト)と呼ばれるものになる。その時間は勉強している学生もいれば、友達と麻雀に興じる学生、はたまた近所のレストランに行く学生などがいた。いうなれば、その時間は何をしようが自由なのである。高校時代私は、このような自由な校風の下自由気ままな学生生活を送っていた。しかし、ここで一つ疑問なのは、私は自由の裏に必ず存在する責任というものを意識していたかどうかという点である。「自由=無秩序」と考え、自由をはき違えていたのではないかという疑問である。そのことを示唆するエピソードを紹介したい。
私の母校熊谷高校の最寄駅、熊谷駅前には源平合戦で活躍し、熊谷市の名前のゆらいにもなった熊谷次郎直実の銅像が鎮座している。毎年熊谷市では、うちわ祭りという祭りが夏に開かれるのだが、それが開催されるたびに我々学生はその銅像に登るという悪習が存在している。その銅像は重要文化財に指定されており、登ことはおろか触ることさえ法律で禁止されている。しかし、我々はその法律を無視し登ってしまった。我々の言い分としてはこれが伝統だから、自由だからなどが当時はあったと記憶している。今思うと非常に恥ずかしいことであるが、直実像に登った際私の先輩の一人が警察に捕まってしまった。この後警察、学校関係者に怒られたのは言うまでもないが、ここで問題なのは自分たちの蛮行に対する後始末を人任せにしてしまった点である。つまり、祭りの実行委員会、周辺住民、警察などの関係諸機関に対する説明責任を我々は負わなかった。謝罪にさえ行った記憶がない。すべて校長先生をはじめとする、先生方に任せてしまったのだ。高校入学時の担任から「自由ということばの裏には必ず責任ということばがついてまわるのだよ。」と言われていたにも関わらず、我々は自分たちの蛮行に対する責任を放棄してしまった。確かに中心となって扇動した応援団は謹慎し、それなりの責任を果たしたと言えるが、自分の蛮行に対する責任を人任せにしてしまった点は今でも申し訳ないと思う。
このエピソードに見られるように、私は高校時代「自由」ということばをはき違え、それに対する責任を負わなかったように感じる。「自由=無秩序」という考え方が私の中にはびこっているように感じる。真なる自由とは規律によって担保されるという本書の主張は、私に衝撃を与えた。仮に「自由=無秩序」、つまり規律が存在しない状態だと我々人間はどのように行動するのか。おそらく自由の名のもとに暴走してしまうであろう。自分の利益のみを追い求め、数多くの蛮行を働くに違いない。なるほど、自由経済の世界においてもその自由を規制する法律、諸機関があることもうなずける。
我々の自由に対して規律が必要なことは理解した。では、その規律を守らせるには、その規律を教え込むにはどうしたらよいのか。その方法はひとえに正解とは言えないが、私が思うのは次のようである。つまり、自由の裏に必ず責任ということばが付きまとうことを理解させるほかない。思うに日本の事なかれ主義においては、先生、親など規律を教えなければならない人が非常に過保護である。子供が悪さをすれば親同伴で謝罪に来る。自分が好き勝手にやったことに対して自分で責任を負う。この点がもうすこし強調されてもいいと思う。自分の行動の後始末を自分でつけることで、やってはいけないことを学ぶのではないかというのが私見である。
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「パプリックスクール」とは何か。著者自身の経験をふまえ、その根底を貫く精神のありようを問いかける。「自由と規律」を体現し得る世界を追体験してほしい。 (2010: 村松晋先生推薦)
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パブリックスクールでは、夜食が出ず、耐乏生活を過ごす。
しかし、この経験を積んだ父兄の多くが、身に沁みてその苦痛を知る反面、かつ多大な効果を信じるがゆえに敢えて再びその子弟にこの道を踏ましうるであろう。
長い将来についての利害をおもんばかって、一時の憐憫を捨てる、強く逞しい愛情をいうのである。
愛児のために、かりそめの安易を捨てうる心構えを持つものは、国家再建のためには、たとい如何に過酷なものがあるにせよ、いっときの物質的欠乏には耐えうるはずだからである。
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[ 内容 ]
ケンブリッジ、オックスフォードの両大学は、英国型紳士修業と結びついて世界的に有名だが、あまり知られていないその前過程のパブリック・スクールこそ、イギリス人の性格形成に基本的な重要性をもっている。
若き日をそこに学んだ著者は、自由の精神が厳格な規律の中で見事に育くまれてゆく教育システムを、体験を通して興味深く描く。
[ 目次 ]
パブリック・スクールの本質と起源
その制度
その生活(寮 校長 ハウスマスターと教員 学課 運動競技)
スポーツマンシップということ
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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教育とはどうあるべきか。
この本は1949年に出版された。
当時の日本は終戦後の主権が剥奪さていた時期だったと思います。
それを考慮した内容だとしても英国の教育は手本の一つとして考慮されるべき事項が多いと思われる。
教育というものが国民性を形成する重要なメソッドだということがはっきり理解できる。
もちろん日本の良いところもあるが、教師の権限がなくなっていき、学生が秩序なき自由を謳いだす。
教師とは人を押してるという点で誰よりも他の意見を聞き、自分の信念を貫けねばならない。
とても難しいことですが。
表面的に平和な世の中に疑問を持つのは何も最近のことだけではない、と感じた。
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一言でいうなら「ノブレス・オブリージュ」という生き方について考えさせられる。
著者のイギリスのパブリック・スクール時代の経験を綴った一冊。心を打つ小さなエピソードが冴える。
良い本。
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イギリスのパブリックスクールでの経験をもとに、イギリス流の民主主義の精神が説かれている。第三者目線での記述でなく、自分で体験したエピソードをもとに綴られているため、説得力がある。
規律があるからこそ自由を得られる。厳しい環境だからこそ高貴な精神が養われる。教育の重要性について考えさせられる作品。
たまたま、読書期間中には、大阪府等での教師による体罰問題がホットなトピックに挙がっていた時期。本書を読み、体罰自体が悪いのでなく、体罰以前の教師と生徒との信頼関係の有無、教師自身の益でなく組織ひいては学生個人の将来性という観点の有無によって、学生が教師の行動を受け入れられるか否かが決定するのではと考えた。
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古き良き時代と言えば身も蓋もない。
自由の実現には相応の代償が必要であることはむしろ現在の方がより切実。
それにしても「自由を侵されても気がつかないか、気づいてもそのまま泣寝入りしてしまう卑屈性が身にこびりついた」との指摘、強烈過ぎます、はい。
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権利を主張する前に義務を果たせ,なんて言葉を聞いたことがある.
それと似たような言い方をすると,自由であるためには規律が守られなければならない.言論の自由だとか表現の自由だなんてことが言えるのは,それを規定する決まりがあって皆がそれを守るからである.
自分で考えてみて思ったが,規律によって自由を規定するというのはなんとも不思議な感じを受けた.
本書では,著者のイギリスでの学校生活経験をもとに,イギリス人の人格形成とか規律を守る心構えが,学校生活のどういった部分で行われていくかについて書かれてある.あと,中学高校といった多感な時期の教育に,教える人その人が学生の人格形成に重要な役割を果たすことについて考えさせる本だった.
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この本を読むに至った背景としては、宇沢弘文の「社会的共通資本」における教育の章で、イギリスの教育制度について、述懐しており、興味を持ったからである。
この本では主に、イギリスのパブリックスクールにおける教育が書かれている。イギリス人の国民性に始まり、それが如何に形成されるかというところだ。
イギリス人といえば、伝統重視の傾向が色濃いが、同時に、伝統の維持が弊害を伴うことを認知した際には、決然と伝統を捨て去る潔さ、勇気、そして良識を持ち合わせているという点も忘れてはならない。イギリスのパブリックスクールにおいて、生徒は徹底して規律を教えられる。厳密には規律を教えられるというより「規律を守る」ことの重要性、いや、絶対性を説かれるわけである。そこに規律があれば、その内実に関わらず従わねばならない人は従わねばならないのである。いまでは封建的として忌避されるほど厳しいものである。しかし、規律を学ぶことが同時に自由を与える。自由と放縦を分かつものは規律であり、パブリックスクールの教育とはこの規律を徹底することで、翻ってイギリス人に自由を教えることに他ならない。この自由こそまさに、イギリス人をして伝統を捨て去らしめる良識であると理解できる。
そして、このイギリスのパブリックスクールでは、如何なることをしたかより如何にものごとをしたかが重視される。スポーツマンシップ然り、学業然り、徹底して紳士を生み出すことに重点が置かれる。紳士を、弱者への慈しみとも考えれば、紳士のいる社会に、民主主義がうまく機能すると考えられる。
このような、規律教育と紳士教育にイギリス人をイギリス人たらしめる所以があるということが、この本を読むことで得た知見であった。
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著者の池田潔は、三井財閥の最高指導者で日銀総裁を務めた池田成彬の二男で、第1次世界大戦直後から満州事変直前の時期に、17歳で渡欧し、英国のパブリック・スクールのリース校、ケンブリッジ大学、独ハイデルベルク大学に、通算11年間学んだ。
本書は、英国の伝統的精神がいかにして育まれるのかを、著者のパブリックス・クールでの3年間の経験を踏まえて綴ったもので、1949年の発刊以来読み継がれるロングセラーである。
著者によれば、英国のエリート教育は、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学における「紳士道の修行」と、その前過程のパブリック・スクールにおける「スパルタ式教育」の両面から語られなくてはならないという。そして、それは、自由かつ豊かなオックスブリッジの生活と、極めて制限された、物質的に苛薄なパブリック・スクールの生活とに対比されるが、それは、英国人が、「よい鉄が鍛えられるためには必ず一度はくぐらねばならない火熱であり、この苦難に耐えられない素材は、到底、その先に待つさらに厳酷な人生の試練に堪えられるものとは考えられないからなのである。叩いて、叩いて、叩き込むことこそ、パブリック・スクール教育の本質であり、これが生涯におけるそのような時期にある青少年にとって、絶対必要である」と考えているからに他ならないと語る。
そして、パブリック・スクールの生活では、「共同目的の貫徹」、「他人と異ならないこと」、「規律への服従」、「感情の抑制」、「忍耐の精神」、「奉仕の精神」の重要性を徹底的に叩き込まれると同時に、「規律を前提とした自由」と「自由を保障する勇気」を学ぶのだという。
一方、こうした制度は、「少なくとも旧家といわれるような家庭では、長じてその男子の入る三段階の学校は生まれる前から既に決まっているといってよい。・・・今から百年後二百年後母校のクリケット競技場で、彼等の子々孫々がやはりバットを振りまわしているであろうことは、明日の太陽が東から昇ると同じく、彼等の夢疑わないところなのである」という因襲による階級社会でこそ成り立ち、また、それ故に、その特権の裏返しである「ノーブレス・オブリージュ」の精神が生まれ得ることも事実である。
翻って現代日本は、親の出身校や職業に係らず子供の将来にはあらゆるチャンスがある、格段にオープンで平等な社会で、本書で述べられたことは完全には両立しえない文化・社会でもある。
階級社会や民主主義の是非にも考えが及ぶ作品である。
(2010年5月了)
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彼等(学校教師)は、文字通り少年達と起居を共にし、その訓育を一生の天職と心得てこれに安んじた生活を送っている。…もとより物質的に報いられるところは薄い。しかし彼等には他に待つものがあると。幼い魂に生命を吹き込み、そこに眠る善なるものを目覚めさせる歓びである。
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1963年(改訂前49年)刊。英国中等教育の雄パブリックスクールの実像(ただし、戦前期)を体験談的に叙述。自由な校風の高校を卒業した我が身からすれば、対極で、少し(いや、かなり)窮屈だなぁと感じたのは否めない。特に夕食抜きの寄宿舎の食事は…。加え、スポーツ重視はともかく、絵画等の芸術的才に恵まれた人物、自由な発想を愛し或はそれを持ち合わせた者への不遇は深く同情してしまう。教育内容を見るに、確かに議論の術には長けるかも。だが、分析や批判、更に改良・改善精神の練磨には不十分?、とも感じた。手放しの礼賛は困難。
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イギリスのパブリックスクールについての考察。ただ著者自身が通っていたのは戦前であるため、現在は色々と変化しているものと思う。
ただの教育論というだけではなく、イギリス人についての深い見識があり、非常に興味深い。私自身も高校で寮生活をしていたこともあり、大変懐かしく感じた。
「自由」の前提として「規律」がある。その「規律」を少年時代に身に付ける。現在でも必要とされる金言と思う。
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忖度やノブレス・オブリージなど、こんな昔の本から知ろうとは思いませんでした。日本の中高3+3の否定、学生相互の討論の必要性、LとR、狼(WOLF)、狼、狼などの教育、不正行為の無い試験、その対象の利益のため、最大の奉仕を尽くし、苟もその奉仕を欠くるところない努力を致す精神が忠誠であったり、「如何なる」ではなく「如何に」仕事をするかが問題である。とか、結果に到達した過程に重点を置き、真面目な努力を尊しとする。とか、社会に出て大らかな自由を享受する以前に、彼等は、まず規律を身に着ける訓練をする。とか、自由は規律を伴い、そして自由を保障するものが勇気であることを知る。とかスポーツマンシップとか。学びがあった、それは強く思った。