紙の本
ノンフィクションではないがもう一つの「昭和の風景」
2005/08/13 14:40
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
BK1書評フェアの現在のテーマは「昭和の風景」だ。そこの佐々淳行『東大落城』が目にとまった。読んではいないがタレントとして活躍中の著者や書評をみれば想像がつく。当然のことだが書評をかかれた方も含め当時の学生運動を厳しい目で見ておられる。私が安田講堂攻防戦のテレビ放映をみていたのはサラリーマンになって3年目のことだが、この少し前の学生運動の渦中に「学生」であったものにとってその時代は自分史にある記憶に鮮明な「昭和の風景」であることにかわりはない。
所詮ノスタルジーであるが、そのころわが世代が読み耽った小説を思い出す。
柴田翔『されどわれらが日々………』。
青春の墓標と呼ぶにふさわしい。
デモ目標はアメリカ大使館か官邸か国会かと学生運動。
就職活動よりもマージャン。
ダンス・ダンス・ダンスのリズムはロックンロールからツイストへ。
酒はトリスかレッド。
出会いと別れ。
……… 渋谷駅に程近い場所にある飲み屋「チカ」が我々のアジトだった。 十人人も座れば、満杯になるカウンターバー。店内はたばこの煙が立ちこめ、熱気でムンムンとしていた。米国のロックシンガー、 リトル・リチャードのレコード 「ルシール」などを持ち込み、みんな身を震わせながら聞き入っていた。
学生時代。カネはないが、時間だけはあった。 「明日は何をやろうか」。来る日も来る日も同じ場所で、こんな会話を繰り広げる。いつの間にか、集まり には「やろう会」という名がついていた。
メンバーは十人。弁譲土として活躍しているT君、参議院議員のS君、郵船関連会社役員のN君、JR東海役員のI君、銀行役員のO君、広告代理店のY君ら全員が大学の同期生だ。互いの家を渡り歩いては、メシをごちそうになる。昼のごろ寝に、徹夜マージャン--。多くの時間をこの一癖も二癖もある輩(やから)と共にした。
「やろう会」は社会人になっても、半年に一度のぺースで続いている。結婚、出産といった家族イベントの報告から、日本経済の状況まで、話題があちこちに飛び、意見交換が続く。銀行役員のK君や大学教授のW君も加わりエネルギッシュな議論が熱を帯びてくるうちに、 「何かやつてやろう」という 気持ちになるから不思議だ。
だが、花が咲くのは やはり昔話である。共に過ごした時を振り返る。それは人生の軌跡を確認しあっているようなものだ。 「おれたち本当に良かつたよな」。仲間はみんな、こんな郷愁を持って生きている。
四年前。メンバーの一人で、薬品店を経営していたS・N君が亡くなった。大病を患った彼は自分の意識があるうちに人知れず自らの手で生命維持装置を外した。壮絶な死であったが、人生侮いなしという気持ちだったのだろう。一周忌にはみんなで墓参りに行った。その時、彼が笑いながら話しかけてきた。 「されどわれらが日々だったよな」と。(2000年2月2日記)………
「人間にとって、過去はかけがえのないものです。それを否定することはその中から生まれ育ってきた現在の自分をほとんど否定してしまうことと思えます。けれども、人間には、それでもなお、過去を否定しなければならないときがある。そうしなければ、未来を失ってしまうことがあるとは、お考えになりませんか。」
………と手紙を残して、ヒロイン・節子は去っていくのだよね。
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回りを変えたくて、自分も変わりたくて、何かをしたくて、何もできなくて、10代の自分は読んだとき苦しかったです。
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青春という言葉が堂々とまかり通って、そこを通る以上は自己にも他者にも闘わなければならなかった時代。私はその時代になかったけれども、ではそこにいて闘うことができたのだろうか。闘えた彼等と、ただ時間ばかりが無尽蔵にあって空虚な今の時代と果たしてどちらが幸せなのだろう。私がこれを読んだのは高校時代だっただろうか。その時もう私は挫折感を覚えた。あまりにも弱い自分を感じた。
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学生運動の時代の大学生を描いた小説。学生運動への興味から読んでみた。芥川賞受賞作だったし。登場人物たちになーんとなくシンパシーを感じたりして。私やっぱ感覚古いのかな。
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急に思い立って読んだ。今こういう大学生はまずいない。当時の学生と今の学生とどちらが幸せだろう。当時と今と時代の閉塞感はどちらが強いだろう。
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1970年代は老い易い時代だった やぁ!21世紀の子供たち 君たちの時代はどうだい? いつの時代も困難から抜け出すのは、さぞかし大儀なことだろう
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映画で見たいなーなんて思って読んでいたら、映画化もしていたみたい。是非見てみたいのだけれど、DVDでは出ていないっぽい?
【目次】
されどわれらが日々――
序章
第一の章
第二の章
第三の章
第四の章
第五の章
第六の章
終章
ロクタル管の話
解説 野崎守英
本文庫版のテキストについて
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(30年ぶりの再読)
持ちえていなかった何かを手にするために、生きたといえる日々を持つことのために、惰性と決別することを選んだ青春の物語。
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(1974.07.25読了)(1974.06.18購入)
第51回(昭和39年度上半期) 芥川賞受賞
内容紹介
何一つ確かなもののない時代そういう時期に生きる者の青春─生きることの虚しさの感覚を軸にして一つの時代を共にした何人かの男女の大学生の生の悲しみを造型した不朽の青春文学。
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お母さんに、「もっと青春小説を読みなさい、ハリーポッターと思想書の間が欠落してるのよ」って言われて借りた本。
「でもぜんぶお母さんの影響のせいにされるの嫌だから、他の本読みなさい」とも言われた。まあ一理ある。ほっとくとお母さんの影響全身で受けちゃうからなー。よくないよくない。
ヴィクトール・フランクル(実存哲学)の「人生の意味」についての言及と通じるところがあるかな。それを求めると手に入らないけど、具体的作業を懸命にやるとき、その意味が生まれるみたいな。
また読み返したら面白そう。
こういう小説の女のひとは、どうしていつもこう感じやすいというか、センシティブなのかしら。
同年代の話とは思えないなー。時代が違うとは言え。
学生運動ばりばりの時代は、なんかどの世代もぴりぴりしてたんだろうなー。いまはどこも「うぇーいww」だもんなー。平和ぼけですね。幸せなことだけども!
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時代感じることは否めないが、バイブルとなり得る要素を大いに秘めた作品。捉え方次第。若者におすすめの書。歳を重ねた今、過去の自分に投影できる部分もあり熱くなった。空虚の国では生者と死者との関係はないのである。そこでは生者は死物のように生き、死んで本当に死物になる。そしてそれをできるだけ目覚めさせないですむように粧われた静謐な場を日常的に仮構しようとするのだ。果たして自分はどうだろうか。
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ずっと昔に読んだことがある.倉橋由美子の「夢の浮橋」と同時代の作品だったかなと思い再読.実際は,こちらの方が古く1964年芥川賞受賞.
私は学生運動よりずっと後の世代だが,中学,高校の先生たちにはその余韻を残す人たちがいた.最初に読んだときは,その挫折感,虚無感,あるいはそれからの再生をある程度共感をもって読んでいたのではないかと思う.
しかし,長い時間を隔て再読してみると,何か時代の痛々しさの印象が強い.考えることの虚しさというか.「夢の浮橋」の新鮮さと対照的だった.
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あの時代の雰囲気が分かって面白い。こんなにも長文の手紙をやりとりしていたのかと驚きを感じた。
それにしても、物事をこんなにも難しく、面倒くさく考えて生きていくのは大変だ!
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“ 私はその頃、アルバイトの帰りなど、よく古本屋に寄った。そして、漠然と目についた本を手にとって時間を過ごした。”
このあらすじから想像していた物語とは違う展開でした。本好きの人の生活をえがいているのかと思いきや、人生の転換期をえがいていました。
生き方・考え方が違う者同士が結婚してもうまくいかないので、それぞれが正しいと思う道を歩んだほうが良いと思います。わたしが言えるのはそれだけです。
(以前の読書記録は消えてしまったので途中から)
2024/02/23 p.130-184
p.135
“生きることの空しさ、それを知っても、知らないでも、その中で生きるしかない空しさが、和子の胸をついた。”
生きるしかない。しねないなら、生きるしかない。
どう生きたら良いかなんて考えていなかったのに……わからないのに……。
p.157
“あの元気だった女の子。いつも何かに胸をときめかせ、生きていることが、とても大好きだった女の子。”
(中略)
“それはもう、今となっては本当だと思われない位です。”
遠い日の自分が自分だとは信じられないくらい、遠い存在となってしまいました。しにたいと苦しむ前の自分がどんな子だったのか、あまり覚えていません……。
あのまま育っていたら、どんな人間になっていたのでしょう。どんな人生だったのでしょう。
ひとつわかるのは、何もかも捨てようと決意することはなかったのだろうなぁ、ということ。家族との縁を自ら切ることはなかったのでしょう、きっと。
……そんなことを考えても、いま生きている時間とは違うのですから、意味ないのですけれど。わたしはわたしの人生を大切にします。
p.169
“はじめてのようなやり方で、あなたに愛してもらいたかったのです。”
けれど、本当に初めてだったら、満足しないのでしょう? 手慣れているからこその優しい手つきがお好きなのでしょう?
p.170
“それは、そうした感覚を通じて、私があなたと結ばれているという歓びでした。それは、むしろ精神的な歓びでした。”
これは、わかる気がします。行為そのものが好きなのではなくて、お相手の気持ちが通じるような気がして、ひとりじめできているような感じがして……すきです。
p.174
“人間にとって、過去はかけがえのないものです。それを否定することは、その中から生まれ育ってきた現在の自分を殆ど全て否定してしまうことと思えます。けれども、人間には、それでもなお、過去を否定しなければならない時がある。そうしなければ、未来を失ってしまうことがあるとは、お考えになりませんか。”
(中略)
“これからの生き方を、過去の規制によってではなく、過去の否定の上につくり変えようと試みて、何故いけないのでしょう。”
すべての過去を経て、いまの自分があると思っています。ひとつでも違っていたら、「いまの自分」とイコールの存在にはならないだろうと思います。
だから、過去を否定することはむつかしいと感じていました。何もかも受け入れるのが良いと、悪いところも足りないところも自分だと���思っていました。
けれど……そうですね、自分で自分を縛り付けてしまった考えは、否定しても良いのかもしれません。間違っていた、と気づいて訂正するのは当たり前のことです。
わたしはしあわせになってはいけない、と思い込んでいました。けれどいま、とてもしあわせです。しあわせをしあわせと受け止めることができるようになりました。
わたしもしあわせになれる。手元のしあわせを大切にできる。
いまは、そう、感じます。
そのしあわせを壊すのなら、血縁であっても、敵です。わたしはわたしを守ります。わたしの人生を大切にします。
2024/03/25 p.184-190
p.184
“ただあなたの中にのみ何ものかを求め、それをそのまま私たち二人のものとして共有したいと願っていた、あなたの持つその何ものかに身をまかせ、それによって自分を支えようと怠惰な願いをかけていただけであった、”
求めるばかりでうまくいかないのは当たり前だよなぁ……と思ってしまいます。テイカーは永遠に心が満たされないと思います。自分から与えられる人にならなければ。
あげる一方で、すり減ってしまうのも違うのですけれどね。程よいバランスで、お互いに満たされるのが一番です。
p.185
“そこでは、私は必要な人間なのです。そこには、私の仕事があるのです。”
仕事をすることで誰かのお役に立ち、ようやく自分の存在意義を感じること、身に覚えがあります。とても強く、わたしもそう感じてしまいます。
本当は、そのままの自分を肯定できるほうが良いのですけれど。
2024/03/26 p.190
「されど われらが日々──」 2024/03/28 読了
2024/03/30 p.196-254 読了
「ロクタル管の話」
p.196
“ねえ、君。君はロクタル管を知っているかい。”
まったく知らないのですけれど、知らない人を相手に説明してくださっているので、時代が違ってもわからないなりに想像できます。
p.198
“例えば、「この7F7、いくら?」というふうに訊く。親爺は「八百五十円」とか、なんとか言う。”
(中略)
“元々ぼくら中学生の小遣ではロクタル管は到底買えないことは知りぬいていたのだった。”
(中略)
“何かもののはずみということもあるのだから、二百円、あるいは精々三百円ということもあるかも知れないと、つい、かすかな希望を何辺でも持ってしまうからだったし、”
当時の物の値段もわからないですけれど……当時の彼が出せる範囲の値段を言ってくれるので、ありがたいです。そりゃ、何倍もする物は買えないですよねえ……。
p.204
“あの頃ぼくらはよくしゃべり、そのおしゃべりは大抵他愛もないものばかりだったけれども、そういうおしゃべりは、いわばさざ波なので、そのさざ波の下にはぼくらだけが互に判り合う、深く、広く拡がる青い水の透明な厚みというようなものがあることを信じていた。”
さざなみのおしゃべり。良いですね。好きです、この文章。
p.218
“何しろ7N7はひどく高価な球なのだ。新品なら九百円することだってある。普通で七百五十円、ここがいくら安いにしたって、五百円以下ということはある訳がない。”
これ、本物ですか……? あるいは盗品?
本当に大丈夫なのか、気になってしまいます……。
「解説」
p.229
“はじめて読んでから十年以上の時が経った。その十年余の間、最初私がそれを眼にしたのと変わらないままにこの作品は存在しつづけていたわけである。活字に付された小説である以上、そのことは当然なのではあるけれども、”
本はずっと変わらずに本である。それは優しいと感じます。
本はずっと待っていてくれます。わたしが変わるまで。理解できるまで、何度だって付き合ってくれます。