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小説の精神 みんなのレビュー
- ミラン・クンデラ (著), 金井 裕 (訳), 浅野 敏夫 (訳)
- 税込価格:2,530円(23pt)
- 出版社:法政大学出版局
- 発売日:1990/04/01
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紙の本
軽視されたセルバンテスの遺産
2003/10/09 22:29
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
私がこの本を手に取ったのは、牛島信明「ドン・キホーテの旅」で「『ドン・キホーテ』が秘めている射程の大きさをもっとも痛切に感得している現代の文人の一人」として、そのセルバンテス論を参照していたからで、申し訳ないことにクンデラの小説はひとつも読んでいない。
しかし、かといってこの本が面白くないわけではない。逆に、冒頭の「不評を買ったセルバンテスの遺産」などにみえるクンデラの「小説の精神」論には全くもって同意の限り、とさえ思っている。これは根源的な小説のジャンル論であり、小説の言説論でもある。ポリフォニーという言葉も出てくるので、バフチンの小説論が参照されているのだろう。
「かつて神は高い地位から宇宙とその価値の秩序を統べ、善と悪とを区別し、ものにはそれぞれひとつの意味を与えていましたが、この地位からいまや神は徐々に立ち去ってゆこうとしていました。ドン・キホーテが自分の家を後にしたのはこのときでしたが、彼にはもう世界を識別することはできませんでした。至高の「審判者」の不在のなかで、世界は突然おそるべき両義性のなかに姿を現しました。神の唯一の「真理」はおびただしい数の相対的真理に解体され、人々はこれらの相対的真理を共有することになりました。こうして近代世界が誕生し、と同時に、近代世界の像(イマージュ)でもあればモデルでもある小説が誕生したのでした」7頁
セルバンテスとデカルトをともに、「近代を確立したもの」と呼ぶクンデラは、小説を、フッサールの講演を引きながら近代の哲学などの諸学問が忘却した人間の存在をこそ、探究するものだと定義する。「人間の具体的生活を探究し」、「〈生の世界〉に絶えず照明をあてておくための」、「〈認識の情熱〉が人間を捉える」、と。そして、「小説だけが発見できるものを発見すること」だけが小説の存在理由なのだ、とヘルマン・ブロッホを参照する。
また、小説の終焉が叫ばれて久しい状況にはこう答える。
自分はすでにチェコの全体主義社会で小説の終焉を目の当たりにしたのだ、と。
「宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません」16〜17頁
「人間的事象の相対性と両義性とにもとづくこの世界のモデルである限り、小説は全体主義的社会とは両立不可能なものです」8頁
そのため、その社会で生産される小説はすでに、小説の精神を忘却しており、「語られたことを確認しているだけのもの」なのだ。もはや、「小説の歴史のあとの小説」である。何ものも付け加えず、過去の経験との連続性のない小説はもはや、小説ではない。小説が終焉すると言うことは、小説の精神の終わりでもある。
「小説の精神とは、複合性の精神です。どの小説も、「事態は君の想像以上に複雑だ」と読者に語りかけます。これが永遠に変わらない小説の真実ですが、しかしこの真実は、問いに先行し、問いを排除する単純で性急な回答の騒音のなかでますます聞きとりにくくなっています。私たちの時代精神にとって、正しいのはアンナかカレーニンのいずれかであり、私たちに知の困難と真実の捉えがたさを語っているセルバンテスの古い知恵は、邪悪で無益なもののように見えるのです」22頁
セルバンテス、ドストエフスキー、バフチン、そして後藤明生。彼らは喜劇としての近代世界を描いた人間たちなのではないかとも思う。複合性、相対性、両義性、曖昧さ、それはすなわち笑いの世界である。神が退場し絶対的な価値観の崩壊した世界では、世界は悲劇的、運命的であるよりは偶然的、喜劇的である。そして、それを表現するために出現したのが、『ドン・キホーテ』を起源とする〈小説〉なのではないだろうか。クンデラは、そんな風に考えていた私にとって、非常に有益かつ刺激的な視点となった。
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