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江戸時代まで物流の中心を担った河川がいかに重要な役割を果たしてきたかが見えてくる。淀川が琵琶湖、日本海を通じて北陸や東北の河川とつながっていたことを知ることで、各地の産業の成り立ちを理解しやすくなった。
利根川編以降は富山節が強くなるが、その趣旨は「環境問題とは何か」でも読んだ。
淀川編
・日本海側の平野では、冬に積もった雪が徐々に融けて水を供給してくれるため、米の単作地帯として発展した。北陸は暖流の影響で暖かく、近畿から近く、開発が早かったため、江戸時代後期の一人当たりの米の生産高は高かった。幕末の大阪に集められる米の7割近くが北陸と出羽の米だった。
・8〜9世紀に渤海は、沿海州に沿って南下するリマン海流にのって使節を送り、多くが能登半島に到着した。
・十三湊の安東氏は、瀬戸内海、熊野地方のほか、中国、インド、フィリピンとも交易を行った。
・江戸時代に大和地方や淀川下流部の自然堤防上では木綿やナタネ、タバコの栽培が発展し、魚肥の需要が増えて瀬戸内海の沿岸漁業が発展した。
・木綿が普及した後も、青苧は近江の蚊帳、越後の小地谷縮、奈良晒の原料として用いられた。
・岩木川流域など青森県一帯にはヒバ林が茂り、ヒノキの性質に近い。平泉の中尊寺や伊勢神宮の修築、能登の輪島塗りにも用いられ、安東水軍が君臨できたのもヒバのおかげ。
・秋田の米代川流域はスギの森林地帯。室町時代に竹のタガが発明されてスギの桶や大樽が出現してから、酒、味噌、醤油などの醸造業が発達し、都市の屎尿を農村に運ぶこともできるようになった。
利根川編
・利根川の瀬替えにあわせて、葛西用水路が利根川や荒川の旧河道を利用してつくられた。※現在は見沼代用水や羽生領用水などと合口とされ、埼玉用水路から分水。
・船戸と深井を結ぶ利根運河が開削されたのは明治23年。
・明治29年に河川法が制定され、河川の大改修工事に着手したのが現代の治水の始まり。
筑後川編
・水車の需要が大川の木工を育て、木工家具の木材需要が日田の造林を促した。