紙の本
ああっ、バガヴァッド様ぁ
2004/08/24 22:47
12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
インドの超長編叙事詩「マハーバーラタ」長く愛され続けている物語ということで、本書序文でその粗筋が紹介されているが、これがまた人と神様が入り乱れてのヤヤコシイ話ですらすらとは頭に入らない。古典的表現の「百年の孤独」みたいなものか。やがて国を二分して親族同士が相対する大戦争に至るのだが、片方の王がこんな戦争をしていいのかって悩み始めちゃうところを、一人のクリシュナ聖バガヴァッドが神学を元に開戦を決心させるという段、ここだけを抜き出して1冊にしたのが本書「バガヴァッド・ギーター」またの呼び名を「神の歌」というわけです。
知識のヨーガ、行為のヨーガなどを通じてアートマンからブラフマンへ至る道を示して美しく完結した理論であり、恍惚と恐怖を備えてびっくらこくほどに壮大。インドのみならず世界中の人々に影響を与えてきたのは納得できる。
そして物語の中で語られているため、ある意味インドの思想について分かりやすく学ぶのにお手頃かもしれない。ただしあくまで物語なので、話の進行に都合のいいように教義をねじ曲げて解釈してるのかもしれないし、実はバガヴァッドに意図があって王をうまく言いくるめてるのかもしれない。だっていいのか、そんなに簡単に戦争させて。そこは現代に向けられたミステリーだろう。いかにマクロによきものであっても、ミクロレベルに応用するときに詭弁と化すのは常道。それでもこの流麗な語りなら騙されて幸せだ。
ついでに、巷でよく耳にする胡散臭い教義に出てくる言葉がいっぱいなので、なんとなく知ったかぶった気分になれます。
同じ「マハーバーラタ」からの独立した1編として「ナラ王の物語」も岩波文庫で出てますが、こちらはストーリーの中でさらに古代の物語として語られる作中作で、ナラ王と腰あでやかなダヤマンティー姫の芳醇な愛と冒険の物語。インド古代の物語を味わいたい方にはこちらの方がおススメと思います(が、現在取り扱い無しだそうで、店頭で見かけたら)。さらにマハーバーラタの全訳はちくま学芸文庫から出てますが、これは巨大で、読むのはよほどの決意が要るかも。同じ岩波文庫の「インド古典説話集 カター・サリット・サーガラ」全4巻も楽しく読めると思います。
1冊の半分が訳註と解説という本書はどえらい労作で、真剣に勉強しようと言う人にはうってつけでしょうが、本編を読むだけでも面白さは十分に伝わる、名訳でもあります。
電子書籍
これは名訳
2021/02/27 23:55
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:orient - この投稿者のレビュー一覧を見る
美しく洗練されたシンプルな和訳。著者の深い理解や共感あっての無駄のない言葉選びが心にストンと染み込んでくる。
実は、バガヴァッドギーターを知ろうとして最初の頃に読んだ時にはシンプルすぎて理解できなかった。同著者の解説本でNHKラジオ講座の内容をまとめた『バガヴァッドギーターの世界』も併せて読みたい。
ギーターの和訳は入手できるものはほとんど読了したが、物語的に面白くても本質の部分が読み取れなかったり、激しい誤字脱字に独自解釈で元の意味が分からなかったり、神様のお陰を連呼する宗教団体の意図が上書きされていたり、ひたすら原典に忠実であったり。
様々な和訳の中で、日本語として美しく親しみやすく、違和感なく、原文にないものが追加されてるでもなく、しかし日本人には馴染みのない様々な呼称などはあっさり省略し本筋を見失わないよう工夫している。誰の発言か明確な構成。繰り返し読みたい、味わいたい。書き写しながら何度も読み返しているほど最推しの訳。
大体の意味を掴んでから本文だけササッと読みたい時、この薄い文庫本はコンパクトでとても良い。
紙の本
ヒンドゥー教の聖典
2022/10/19 18:10
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Toshi - この投稿者のレビュー一覧を見る
“もしかしたら、誰もがこのゲームから降りたがっていて、けれど世間の空気というやつがあまりに手強い関門なので降りることを諦めてしまっているのではないだろうか。”
ー伊藤計劃『ハーモニー』ー
“何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。”
ー羽生善治ー
ヒンドゥー教の聖典の一つ。
東洋の宗教や哲学は往々にして、悟りに至る為には世捨て人になることを要求する傾向が多いが、この本はその点について大きく異なり、社会人として義務を果たしながら、悟りに至る道を教えてくれる。
内容としては、統治する国が異なる親族間で争いが起き、その身内同士の喧嘩がそのまま国家間の戦争に発展してしまい、かつての兄弟や従兄弟や師匠を殺さないといけなくなった勇士アルジュナと、彼に助言を与えるクリシュナ神(聖バガヴァッド)を中心とする物語。
親族間の争いに嫌気が差して戦いを放棄するアルジュナに対して、クリシュナがそれでも戦うように要求する中で、自身の教えを説いていく形式となっている。
ヒンドゥー教や仏教の共通の世界観として、万物は絶えず移ろい、確かなものは何も無く、あらゆる生き物が自らの利益の為にお互いを出し抜く無常なサイクルが延々と繰り返されるというものがあり、これを”輪廻”〈サムサラ〉と呼ぶ。
信者達の目標はそのサイクルから抜け出して永遠の幸福に至ることであり、それこそが”悟り”や”涅槃”〈ニルヴァーナ〉と呼ばれる。
クリシュナによれば、自己の利益に捉われず、利益も損失も区別することなく同じものとして考え、行為の結果を動機とせず、ただそれが義務であるという理由だけで何の見返りも無しに為すべきことを為せとのことだ。
そして、最終的にはただクリシュナへの信仰の為だけにあらゆる行いを実行すれば、悟りに至ることができるとのこと。
まるで原始仏教とカルヴァン派キリスト教を融合させたような感じだ。
本書を手に取ったきっかけとして、こうした輪廻〈サムサラ〉を中心とするヒンドゥー教や仏教の価値観は実は進化論との相性が良く(詳しくは「赤の女王仮説」を参照)、前回読んだジョナサン・ハイトの『しあわせ仮説』の中でも本書が引用されていたからというのがある。
また個人的な話だけど、僕の人生観が本書で述べられている価値観と似ていたことも理由の一つである。
そうした営みが報われる保障は無いのに、意識的であれ無意識的であれ、誰もが自身の取り分を増やす為に対立と協調を繰り返すことを強いられ、何一つ確かなものも無い無常なこの世の中で、唯一人間にできることは、ただ自身に課せられた義務を黙々と果たすことだけだと考えている僕にとっては、とても共感できる内容だった。
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インドが誇る珠玉の古典。2000年近くにわたって宗教思想家を中心に各時代のリーダーたちに愛読されてきた。『マハーバーラタ』を構成する掌編にすぎないが、「結果(=成功・不成功)に執着することなく定められた行為(義務)を遂行すれば、寂静の境地に達する」という定言の力強さに深い人生哲学を見出す者は後を絶たない。
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個人的な思い出なのだが、上村先生にこの「ギーター」の講読の指導を受けたことがある。その時、先生がおっしゃっていたのは「『マハーバーラタ』を訳すと死んじゃうからね」ということだ。「バーラタ」の全訳に外国人で成功した人は一人もいないので、複数の人間で取り組んだ方が良いという趣旨のことをおっしゃっていたように思う。あとから考えるに、その頃はお身体をこわして、「マハーバーラタ」の全訳を半ば諦めかけていた時期だったようだ。その後、全訳に着手したことを喜んでいたのだが、あのような結果に終わりとても残念だ。
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カルマヨーガの神髄が描かれています。
まさにバイブルです。
あなたのなすべきことは行為そのものにあり決してその結果にはない
生まれたものに死は必定であり死んだものには生は必定であるからそれ故不可避なものに嘆くべきではない
は決して生まれず死ぬことはない 彼は生じたこともなく、また存在しなくなることはない
物質との接触は寒暑苦楽をもらたし来たりては去り無常である それに耐えよ
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原爆実験の直後にオッペンハイマー博士が引用したことでも知られるインド哲学の古典。
親族との運命の決戦を目の前に怖気づいてしまう王と、
その前に姿を現した神の対話を通じて、
心を平静に保つことや義務を遂行することの重要性を説きます。
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行為の結果を動機とするのはやめて、ひたすら行為そのものに集中しなさい…。
こんな至言をあんな昔に思いついたインド、やっぱ哲学的にはチートだと思う。みんな救え!とか見捨てるな!とか言ってる時に「救われるかどうかに意味はない、ただ宇宙のあるがままと同一になりなさい」とか…。頭では解るけど難しすぎ。読んだあと無性にマニカルニカー・ガートに行きたくなった。あそこはヒンドゥー教の聖地だけど。
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■ あらすじ
- 王国の領地の争いに参加した、アリジュナとクリシュナ。敵地を見るとクリシュナの友人、知人、父親、祖父、兄弟、息子、孫がいることを知り、戦士としてどうすべきか迷いが生じる。クリシュナの迷いを見たアリジュナが自己とはどうするべきものであるかを説き、クリシュナを苦しみから解放する
■ よかった点
- バガヴァッド・ギーターが分かりやすい日本語でまとめられている(はず)
- バガヴァッド・ギーター自体の内容はシンプルでブレがなく、人(自己)というもののあり方をこんこんと説明していた
■ 悪かった点
- 用語が多く、読み方が難しいため文章を読んでも詳細はつかみにくい
- バガヴァッド・ギーターが語られるまでのあらすじが書かれているが登場人物が多く、古書を訳しているため、なにがどうなっているのか理解しきれなかった
- 十分に理解するためには何度も読むか、注釈を見ながら時間をかけて読む必要がある
■ この本に適している人
- バガヴァッド・ギーターに興味がある人
- 古代インドにおける自己はどうあるべきか、どうなることが人にとって幸せかについての考えに興味がある人
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古代インドの聖典として最も有名なこの本は、部分訳を読んだことがあるものの、ちくま学芸文庫で「マハーバーラタ」全巻読みたいと思っていたらどんどん絶版になってしまったので、読み逃していたのだった。
物語のなかの一コマだが、中身は神=クリシュナが人間に説教する話で、ウパニシャッド聖典らしい内容。
かなりわかりやすく、興味深いが、幾つかの点でこの本は異様な面を持つ。
まず、神(クリシュナ)を信じよ、帰依せよ、と迫る辺りが、古代インドらしからぬ他力本願で、仏教っぽいところもある。
次に、人間アルジュナは親族を殺さざるを得ない戦争に駆り出されて逡巡しているのだが、クリシュナは「さだめられた行為をせよ」と諭す。つまり、置かれた立場において、なすべきとされたことをしろというのだが、この考え方でいうと、その立場に置かれたら極悪非道な行動も正当化されてしまう。どこまでも戦争は正しいものとされ、血で血を洗う惨劇はとどまらない。西洋化した思考の枠組みの中にいる我々にとっては、「個人」の善悪の判断=理性を棄てているように見えるので、なかなか首肯しがたいものがあるかもしれない。
また、上記の点とも矛盾を感じるのだが、「行為を棄てよ(捨離)」と言いながら、「祭祀、布施、苦行(といった行為)は必要」と補足する。つまり、「宗教」の維持にとって必要なものは、称揚する。これも一種の「体制」の自己擁護には違いない。
全般に、他のウパニシャッド聖典に比べ、わかりやすいが、適度にゆるく、哲学というより「ヒンドゥー教」を代表する本と言えるかもしれない。もっともヨーガに関する講話など、古代インド哲学ふうなおもしろさも含まれている。
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インド最古の古典で西暦1世紀頃にかかれた。インドの慣れない言葉で全てを理解はまだできていないものの教えは普遍的。例えば執着を捨て成功と不成功を平等のものと見てヨガに立脚して行為をせよ。行為の結果を動機としてはいけない。など。体で理解を近づけるためにヨガを再開したいと思う。
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王子アルジュナが、戦いの地に赴き、敵軍の中に、自らの血縁や、同朋の姿を見て、そのあまりの空しさに、戦いを放棄しようとする。
しかし、そのとき、御者に身をやつした、最高神ヴィシュヌの化身である、クリシュナが、肉体は討たれても、魂の不死不滅を説き、武人としての責務を全うするよう、叱咤激励する……。
そして、王子アルジュナの様々な疑問に対する問いかけに、クリシュナが応えるという形で、詩頌は展開していきます。
―――――
「バガバッド・ギーター」とは、ヒンドゥー教の聖典で、「聖なるものの歌」という意味だそうです。
『マハーヴァーラタ』という大叙事詩の一部であるとのことですが、特に、この「ギーター」は、インドをはじめとする、多くの人々に愛好されているとのことです。
僕自身は、表現の難解さや、固有名詞の知識不足から、つっかえつっかえ読んだのですが、もともと、こうした書物は、頭で読んで理解する、というものではなく、その指し示す所に、意識を広げる、という意味で「読む」のではないかと思います。
訳者である、鎧敦氏の序文にもあるように、「私利私欲を離れ、執着なく、なすべき行為を遂たす」ということが、この詩頌の骨子であると思うのですが、数千年たっても読み継がれ、語り継がれていく「書物」というものは、ひとにとっての、普遍的な内容を伴うものなのだと、改めて、実感しました。
この「聖典」をものしたどなたか、サンスクリットで書かれた、難解なその内容を、研究に研究を重ね、現代の日本人にも分かるよう、訳された、鎧敦氏に、素晴らしい本を後世へ伝えて下さったことに、感謝したいです。
荘厳なる詩頌
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神が主宰する戦争。
信じる者は救われる、だそうです。
絶対平和主義も単なる主義の一つに過ぎないことが良く分かる。
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バガヴァッド・ギーター(岩波文庫)を読了しました。
P39 「あなたは職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならない。」
バガヴァッド・ギーターには戦士では態度、生まれながらの義務を全う「無私の行為」を行うことの大切さを教示しています。例えば、それが道義的に疑問があったとしても、仮に報酬が貰えなかったり少なかったりしても、職務を修練の場として行為することができるだろううか。マントラを唱えたり、俗世をすてて山に篭ったり、滝に打たれたり、写経したりしなくても人間は行為することによって極致に達することができるのだろうか。
ブラフマン(ブラフマンは宇宙の源である。神聖な知性)とアートマン(自己)が一体になる(梵我一如)を目指すこと、それには知性と修練が必要である。これは、いわゆる成仏(仏陀になる)とどのような違いがあるのかを理解したい。当時のインド文化に関する本を読むことで理解へアプローチすることとしたい
一方で、行為の結果があまりに不可避の事柄であっても苦悩する必要がないのであれば、オッペンハイマー※は苦悩する必要がないのであろうかという思いもある。
※ オッペンハイマーは後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語った部分(11章32節)を引用してクリシュナを自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを吐露している。戦後、原子爆弾を生み出したことへの罪の意識からか、日本の学者がアメリカで研究できるよう尽力するようになった。
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ヒンズー教の聖典の一つ。
世界がどのようにできているかと英雄に対して神クリシュナが語るという内容。注釈もわかりやすく、くわしい。
読んでみるとなるほど、と言える記述に出会える。