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浄土三部経 下 観無量寿経・阿弥陀経 みんなのレビュー
- 中村 元 (ほか訳注), 早島 鏡正 (訳注), 紀野 一義 (訳注)
- 税込価格:1,320円(12pt)
- 出版社:岩波書店
- 発売日:1991/12/05
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文庫
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紙の本
真実の自己を永遠の浄土において求める
2009/10/08 23:16
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みどりのひかり - この投稿者のレビュー一覧を見る
擬似恋愛 ある風俗嬢の告白から
歎異抄 ワイド版岩波文庫へ
そして、この 浄土三部経 _下_観無量寿経・阿弥陀経_ワイド版岩波文庫へとリンクを張ってきました。
浄土三部経の翻訳者は中村元先生とその愛弟子の早島鏡正先生、紀野一義先生の三名です。翻訳者同士の意思の疎通も良く、だからこそ、この翻訳が素晴らしいものになっているのだと思います。
その紀野一義先生のあとがきをここに紹介したいと思います。
*
昭和十七年に東京大学印度哲学科に入学して仏教学の研鑽を始めた私は、十八年暮には学徒動員で召集され、二十年一月にはすでに戦地に送られていた。それから二十年の歳月を経た今、生きて浄土三部経を現代語訳する仕事を果たし得た自分を見る時、まことに感慨無量である。戦場で失った多くの友、広島において原爆の閃光の下に消えた父母姉妹と多くの知人たち、ならびに夥しい戦死病没の人々の冥福を祈りつつ再生の祈念をこめて現代語訳の筆を執ったこの二年間は私にとっても忘れがたいものとなるであろう。顕本法華宗の寺院に生まれ、大学の専攻を梵文法華経に選んだ私に、浄土三部経の現代語訳をするようにすすめられた恩師中村元博士の博大な悲心は胆に銘じている。幸いに真宗学の研鑽深い年来の友人早島鏡正氏とともに、中村博士ご指導の下に、私としては安心して現代語訳に専念できたことは深い喜びである。ことに有難く思われたのは、これまで単なる浄土讃歎にすぎないと思われていた阿弥陀経を翻訳しつつ仏の大悲心のごときものをしみじみと感得できたことであった。(後略)
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次に早島鏡正先生のあとがきも一部ここに紹介いたします。
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(前略)浄土教は、真実の自己を永遠の浄土において求めることを説く。しかも自己を離れて浄土はなく、また、本願他力の大悲もありえない。無限の時間と空間のただ中にあって、有限の自己の存在を凝視するとき、親鸞のいう、「宿業」は、まさしく、如来の大悲の中に生きる自己の姿とうけとらざるをえない。如来と自己という、存在の範疇を異にしたものが、相即するところのものこそ念仏の生活であり、「遠く宿縁を慶ぶ」信の感激であろう。(後略)
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“真実の自己を永遠の浄土において求める”
“自己を離れて浄土はなく、また、本願他力の大悲もありえない。”
というのは、どういうことなのか、いろいろ考えるのですが、なかなかまとまりません。
「遠く宿縁を慶ぶ」信の感激 とありますので感動したものを集めてみました。
まずは「真実」という言葉が出てくる文章から。
吉田満さんの戦艦大和の最期の
「母上ガ心遣リノ、痛キマデニ真実ナルヨ
ワレ言葉モナク「ハンモック」ニ上ル」
不落樽号の旅の「君にそして僕に」の詩
ありのままに見つめる素直な目で
真実を見抜こう
今西祐行氏の最高の叙事詩_すみれ島
特攻に行く前の日、ふとんの上ですみれで草相撲をして、すみれの花でいっぱいになった。 せつなく、悲しいお話ですが、その悲しさの中にも本当に美しいものが見えてきて、思わず慟哭してしまいます。今でも思い出すと涙がでてきます。
擬似恋愛 ある風俗嬢の告白の「弥陀の誓願不思議」
“ 人から見たら、考え方が、甘いかもしれない。間違っていると言われるかもしれない。でも、チエがそれでいいと思うんだから、いいと思うしかないのだ。・・・・・・強情になっただけかな。”
風俗嬢チエさんのせつなさも伝わって来る。
中島敦_「常懐悲感(じょうえひかん) 心遂醒悟(しんすいしょうご)」
しばらくその安らかな寝顔を見、静かな寝息を聞いているうちに、俺は、心の奥に何かポッと点火されたようなほの温かさを感じてきた。
宮沢賢治の「きれいな青ぞらと すきとほつた風」
あなた方から見たら
ずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほつた風ばかりです
歎異抄_飛行場に出て、郷里の方を向いて「おかあさん」と叫ぼう
仏の名を呼ぶこと、つまりそれは、何ものかに促がされて「おかあさん」と叫ぶことだ。
※おかあさんでなくても恋人の名前でも誰でも、好きな人、愛する人でいいかも。
これらを挙げただけではなかなか纏まらないのですけど、中島敦の悟浄嘆異に行き着くような気がします。
師父はいつも永遠を見ていられる。それから、その永遠と対比された地上のなべてのものの運命(さだめ)をもはっきりと見ておられる。いつかは来る滅亡(ほろび)の前に、それでも可憐に花開こうとする叡智(ちえ)や愛情(なさけ)や、そうした数々の善きものの上に師父は絶えず凝乎(じっ)と愍(あわ)れみの眼差を注いでおられるのではなかろうか。星を見ていると、なんだかそんな気がしてきた。俺は起上がって、隣に寝ておられる師父の顔を覗き込む。しばらくその安らかな寝顔を見、静かな寝息を聞いているうちに、俺は、心の奥に何かポッと点火されたようなほの温かさを感じてきた。
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