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六千人の命のビザ 新版 みんなのレビュー

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みんなのレビュー19件

みんなの評価3.8

評価内訳

19 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

この素晴らしい杉原千畝の物語の中の、間違いの部分だけは指摘しておきたい。

2010/02/18 01:15

13人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:みどりのひかり - この投稿者のレビュー一覧を見る

この本につきましては同じ著者の杉原千畝物語にも私“みどりのひかり”は書評を書きましたのでそちらもご覧下さい。

 リトアニアの日本領事館の前に1940年7月27日の朝、ナチスの手を逃れて大勢のユダヤ人が日本通過のビザを求めて集まって来た。
 
 杉原千畝さんはユダヤ人に日本のビザを出す前にソ連領事館に行き、ユダヤ人たちがソ連を通過できることを確認しビザの発行を始めます。千畝さんは発給条件が満たされていなくても人道を優先し発給した。外務省からの「発給条件を守られたし」という指示は無視して。

 この本には杉原さんのビザ発給に関する外務省への問い合わせに対し、次のように書いています。
 「やっと返事が来ました。外務省の判断は「否」。最終目的国の入国許可を持たない者にはビザは発行するなという意向でした。それは夫も予想していた答えでした。七月二十二日に日本では第二次近衛内閣が成立し、外務大臣も有田八郎氏から松岡洋右氏に代わったばかりでした。陸軍大臣にも東条英機氏が就任し、日独伊三国同盟への直線コースが引かれた直後のことです。当時の松岡洋右外務大臣はドイツ、イタリアとの協力関係を積極的に進めようとしている人でした。ドイツに敵対する行為を認めるとは思えなかったのです。」

 この文章には著者の誤解があります。彼らユダヤ人が無事に日本を通過し安全な国へと脱出できたのは、松岡と東条の考え方がユダヤ人擁護に働いていたからこそ出来たことではなかったのか。
 そして松岡は、外務大臣の立場とは別に、一方ではユダヤ人を助ける行動をしている。「日本とユダヤ_その友好の歴史」116ページから119ページにかけてそのことが書かれています。以下その内容です

 小辻節三というヘブライ語を話せる日本人がいた。1939年1月頃、小辻は南満州鉄道株式会社(満鉄)の松岡洋右総裁より顧問として働いてほしいとの招聘状を受け取る。
 小辻は、ユダヤ人に対する松岡の見解を尋ねる。松岡は「私は反共の協定は指示するが、反ユダヤには賛成しない。この二つは全く異なる。この点、日本は明確にしなければならない」と答えた。


 もうひとつは杉原ビザで来たユダヤ人たちの滞在許可日数の問題である。日本での滞在許可はわずか10日しかなく、これでは足りない。

 小辻は神戸のユダヤ人協会から依頼を受けて、滞在延長を許可してくれるよう毎日のように東京の外務省に通う。が埒があかない。最後に満鉄時代の上司、新任の松岡外務大臣に会う。松岡は小辻を静かなレストランに誘いだし、「友人として」と言って助言した。「小辻博士、外務省はすでに政策を決定したので、それは動かせない。どんなに陳情しても無駄だ。だが、難民のビザ延長は神戸の出先機関でできるかもしれぬ。外務省は見て見ぬふりをする。」
そしてビザ延長は実現した。


 また、今、話題のそれでも日本人は「戦争」を選んだの226ページに、松岡洋右の手紙が掲げられています。我々の脳裏には1933年3月、満州国をめぐる問題で日本が国際連盟を脱退する際、全権として最後の演説をし、国際連盟総会の議場から去っていく記録映画の松岡の映像が焼きついています。だが、ここに掲げられた手紙は見ると松岡の本当の思いがどうだったのか判ってきます。是非この本を読んでいただきたいと思います。松岡への評価も変わってくるでしょう。参考までに単純な脳_複雑な私も読んでみて下さい。自分の判断のもとになっているものが、自分の脳が如何にあてにならないものかが判ります。
 
 昭和の日本の軍部にはユダヤ人を味方につけたいという思惑を持っている人もいました。それは日露戦争の時、資金面でユダヤ人の助けがあったからです。
ただそういう実利的な面ばかりでなく、やはり人道上もユダヤ人差別には反対していた人もいました。

以下、「日本とユダヤ_その友好の歴史」に書かれていたことを纏めて紹介します。


 日露戦争の前にロシアではユダヤ人虐殺の嵐ポグロムが吹き荒れており、これに心を痛めたアメリカのユダヤ人ヤコブ・シフは、ロシアに負けてほしいため、日本の国債を買い、戦争資金調達に苦労していた高橋是清を助けます。誰も日本が勝つなんて思っていませんでしたからヨーロッパでもアメリカでも日本の国債なんて買ってくれる人はなかなかいなかったのです。


 杉原ビザの2年半前1938年3月に、満州の「満州里」駅と国境を接するソ連側の駅「オトポール」(シベリア鉄道の支線の終点)に、ヨーロッパからナチスの迫害を逃れて来た約2万人のユダヤ人が到着した。彼らは正式なビザを持たないためか満州国に入れてもらえず、野宿に近い生活を強いられていた。このままでは飢え凍えてしまう。
 このとき関東軍(満州に駐留していた軍)の樋口季一郎陸軍少将は満州国外交部の下村信貞と協議し、これは人道上の問題であるとし、満州里駅で難民への通過ビザを発行した。さらに、樋口は満鉄の松岡洋右総裁に連絡を取る。松岡は直ちに救援列車の出動を手配した。救われたユダヤ人は、やがて上海、日本、アメリカ他へ安住の地を求めて渡った。


 樋口に対して、ハルピン・ユダヤ人は謝恩の大会を催した。樋口はその時演説し、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地すなわち祖国を与えよ」と言った。これは間接的にドイツを批判していることになる。二年前に「日独防共協定」が結ばれていたから、ドイツは樋口の発言に対して抗議してきた。関東軍参謀長だった東条英機は樋口に釈明を求めた。樋口は東条参謀長に所信を述べた。
「もしドイツの国策なるものが、オトポールにおいて被追放ユダヤ民族を進退両難に陥れることがあったとすれば、それは恐るべき人道上の敵ともいうべき国策である。そして日満両国が、かかる非人道的ドイツ国策に協力すべきものであるとすれば、これはまた驚くべき問題である。
 私は日独間の国交の親善を希望するが、日本はドイツの属国ではなく、満州国はまた日本の属国にあらざるを信ずるが故に、私の私的忠告による満州国外交の正当なる働きに関連し、私を追及するドイツ、日本外務省、日本陸軍省の態度に大いなる疑問を持つものである」
 これを聞いた東条は、樋口の主張に同意し、彼の意見を陸軍省に申し送った。ドイツの抗議は不問に付された。樋口はオトポール事件で責任を問われなかったどころか、同年1938年八月参謀本部第二部長に栄転した。



以上、この素晴らしい杉原千畝の物語の中の、間違いの部分だけは指摘しておきたい。

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紙の本

杉原千畝の行跡は巨大な遺産

2006/03/28 15:44

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:喜八 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 《六千人の命のビザ》を発行した杉原千畝(すぎはら・ちうね、1990-1986)は日本の外交官です。第2次世界大戦開戦の1939年(昭和14年)、リトアニアの首都カウナス(当時)の日本領事館領事代理として赴任。翌1940年夏、ナチス占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた大勢のユダヤ人に日本通過ビザ(査証)を発給しました。なお、カウナスでビザを得られなかったユダヤ人の多くはナチスの強制収容所で虐殺されました。
 杉原千畝により命を救われたユダヤ人は約6000人といわれています。ビザの発給は本国外務省の訓令に背いた、杉原千畝個人の判断によるものでした。このため杉原氏は戦後外務省を追われることとなりました(異説もあります)。1991年(平成3年)、鈴木宗男政務次官(当時)の働きかけにより、幸子未亡人を招いて「杉原氏の行為を訓令違反としたのは誤りであった」と謝罪。この際、省内には激しい抵抗があり、鈴木次官が外務省幹部を説得するのに3日間が必要だったといわれています。
 本書『六千人の命のビザ』は杉原幸子さんによる覚え書きです。誤解を招くかもしれないことを承知の上でいえば、きわめて「面白い」本です。もし、スティーブン・スピルバーグ監督によって原作に忠実に映画化されるなら、アカデミー賞の複数部門にノミネートされること間違いなしでしょう。
 フィンランド、リトアニア、チェコスロバキア、ドイツ、ルーマニアと戦乱のヨーロッパ各国に赴任した外交官杉原千畝とその家族。リトアニア・カウナスでの逃亡ユダヤ人たちへのビザ発給。ドイツの敗北とともにルーマニアでソ連軍により抑留。酷寒の地をシベリア鉄道で長い長い旅の末、1947年(昭和22年)に帰国。敗戦日本で待っていた「外務省追放」。戦後の苦闘。28年の時を経て、かつての逃亡ユダヤ人たちと再会。1985年(昭和60年)イスラエルに招かれ《諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)》受賞。まさに波乱万丈で感動に満ちた物語です。
 なかでも唸らされたのは、大戦末期のルーマニアで幸子夫人がただ1人、進駐ドイツ軍部隊の敗走に巻き込まれ、8日間にわたってドイツ兵たちと行動をともにした事件です。ルーマニア・パルチザンとドイツ軍の激烈な戦闘。幸子さんを保護してくれたドイツ人の若い将校はこの戦いで戦死しました。誇張でも何でもなく「九死に一生」の体験です。もし映画化がなされたら、ここは全ストーリー中でももっとも印象的なシークエンスのひとつとなるでしょう。
 『六千人の命のビザ』のスティーブン・スピルバーグ監督による映画化。これは本気で実現を考えられてもよい事案ではないでしょうか? 杉原千畝の行跡は巨大な遺産です。 「かつてセンポ・スギハラ(杉原千畝)という日本人がいた」という事実を世界に知らしめることは、今後われわれ日本人が国際社会で生きていくうえで大いな助力となると思います。

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紙の本

杉原千畝に興味があるならまずは目を通すべき本

2001/07/17 00:27

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:福田 健吾 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 ナチに追われたユダヤ人に救いの手を差し伸べた、杉原千畝の奥方である、幸子さんの回顧録。ユダヤ人にビザを発行したカウナスを含め、外交官夫人として欧州各地に赴任したこと、動乱の中で子供達と過ごした思い出、日本に帰国した後の話など、千畝の最も身近にいた彼女だからこそ書くことのできたものである。

 杉原の写真も多く、彼の功績に少しでも興味のある人には入門書としてもってこいのものであろう。

 杉原千畝だけではなく、奥方の幸子さんもまた魅力にあふれた人であり、彼の偉業の裏に彼女がいたことも、大きかったように思える。

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紙の本

杉原千畝

2022/05/13 13:34

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る

たった一人の外交官が、6000人の命を救ったとテレビのドキュメンタリーで見て、一度、書物を読みたいと思っていました。個人の、命を救いたい、という信念だけで、国の意向に反する行為をしたわけで……。ただもう少し心の葛藤も掘り下げてほしかった

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2006/07/12 21:46

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2006/07/27 07:44

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2007/11/21 11:25

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2008/05/31 23:30

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2017/02/14 00:56

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