紙の本
グローバル作家登場
2011/09/03 19:45
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投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
インドと英国で生活をしたとはいえ、インド人になりきれたわけではない。理解しきれないまでも現地との交流を生じることは出来て、そこで苦い経験を重ねる。そういう人物造型で、路地裏の娘のところに通う青年や、砂漠の底の村に追い立てられて暮らす人々の中に落ち込んだ男を描く。彼らは決してインドの地に埋もれるわけではない。大英帝国の支配下にありながら、決して同一化できないままで時を過ごしていく大陸の前で、恐れおののき、静かに英国人としての暮らしにもどっていくだけだ。それは大英帝国の価値観を堅持しているとは言えないし、それが世界にとって絶対的なものではないことを間違いなく知っているだろう。
そうは言ってもキプリングの見知った範囲は、英国とインド、その他の植民地の範囲であり、帝国の外側まで含めて相対化することのできた作家と言えばコンラッドになるのだろう。コンラッドとキプリングのどちらが優れた作家かという話ではなく、自身の立ち位置が帝国の内側にあったか外側にあったかの差だ。
ジャワ沖の灯台守の話がある。これらの航路は言ってみればヨーロッパによる世界支配の最外輪部ということになる。そこにいる人間の内面(その破綻)を掘り下げることで、植民地支配そのものが、支配する側にとっても限界に触れていることを示せているように思う。
ガンジス川かける橋の建設に携わる人々を描く「橋を造るものたち」では、現地人労働者たちにとっての伝承や神話的イメージと、英国人の設計者や監督の抱く文明観が混交する。出来上がる橋には二つの文化的意義が持たれるわけで、それらの並存する植民地社会の現実、そんなことを描写できた作家は希有だったのではなかろうか。
海軍兵と未亡人の奇妙な関係、養子にした息子を第一次世界大戦に送り出した婦人の物語、そこには文明の軋みが個人の内面にもたらした破綻がある。自伝的らしき作品ではそれは特に明白だ。
長編「少年キム」ではインドに暮らす少年にとっての世界の拡がりを描いたが、一方でキムを取り巻いていた世界の側(大人の側)の閉塞状況を見つめてもいたことになる。自分の生まれ育った世界として大英帝国を意識しながら、その中にいる人間の内面も真摯に見つめている。心の暗黒の部分をいつも強く認識していることは自伝的作品からもうかがわれ、それならば人類社会に対しても懐疑的でなければならなかったし、帝国から友人関係までその例外にはならなかったということだろう。
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初期から後期までのキプリングの短編がまんべんなく収められた短篇集。内容も多彩でその中でも、作者の自伝的内容で悲惨な児童虐待の姿とそこから産まれる創作の萌芽を描いた「めえー、めえー、黒い羊さん」、インドで橋を架ける男達の物語と思いきや文明の侵攻に対するヒンドゥーの神々の問答へと跳躍する「橋を造る者たち」、どこかホラー的な雰囲気を漂わせた「ミセス・バサースト」、こちらもサイコスリラー的な雰囲気へと帰結する「メアリ・ポストゲイト」辺りが面白かった。
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領分を超えて
モロウビー・ジュークスの不思議な旅
めぇー,めぇー,黒い羊さん
→宗教によって無垢な子供が洗脳されていく様を見せつけられた
交通の妨害者
橋を造る者たち
→自然の脅威に対する,恐怖や畏敬の念を忘れてはいけない
ブラッシュウッド・ボーイ
→ちょっと不思議な感覚。ハッピーエンドなんだろうな
ミセス・パサースト
メアリ・ポストゲイト
損なわれた青春
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ボルヘスが短編集で「キプリングの真似をしてみたよ」と書いていたので読んでみた。
キプリングはイギリス統治下のインドのボンベイで生まれた。
作品には、イギリス統治下のインドの様子、そんなインドでの第一次世界大戦やボーア戦争(南アフリカ植民地化争い)の頃の、帝国主義イギリスの雰囲気が感じらる。
「どんなことがあろうとも、人は自分の身分、人種、素性を越えるべきではない。白人は白人のもとへ、黒人は黒人の元へ行くべきだ。そうすればどんな災難が降り懸かろうともあわてふためく必要もなく、不意を突かれることもなく、やり過ごせるというものだ」
インド社会で、イギリス人の男と、インド人の若い後家さんとの逢引の酷い始末
*** ええーー、いきなり怖いよ。( ;゚Д゚)
最近でもインドにおける女性の立場の低さをニュースで聞くが、この頃はさらに『領分を越えてはいけない』となるだろう…
/「領分を越えて」
馬と共に穴に落ち込んでしまったイギリス人の男。そこには人々がいて村ができていた。
ここは、死んだとされた人々が投げ込まれ、決して這い上がれない村だったのだ。
砂の壁と、底なし沼と、監視人の銃から逃れて人間社会に戻れるのか…
*** これまた怖いです…
/「モロウビー・ジュークスの不思議な旅」
良心の転勤により預けられることになったパンチとジュディの兄妹。
だが兄のパンチは新しい家庭で「黒い羊(厄介者)」となる。
家でも学校でも黒い羊となった彼の苦難の日々。
やがて両親が迎えに来る。母に抱きしめられる。少年は黒い羊からパンチに戻った。
だがそうではないのだよパンチ。子供の口が憎悪と嫌悪と絶望の苦い水を一度深く呑み込むと、この世のすべての愛があってもその思い出は取り去ることはできない。たとえ愛が、冥い目を片時、光の方に向けてくれようとも。そして、信頼のなかった処に信頼をもたらしてくれたとしても。(P101)
***最初「パンチ」と書かれていた少年が「黒い羊」と書かれるようになり彼の日々が息苦しい。
こういう話はだいたいは最後は元に戻ってめでたし、何だけど、最後で「取り去ることはできない」って怖いよ…。
/「めえー、めえー、黒い羊さん」
灯台を守っていたダウズは、船が通る時に線が見えるようになった。
おれの海に筋を付けるな!
その日から彼は船を妨害すべく多くのブイを浮かべるようになった。
/「交通の妨害者」
ガンジス川に架ける橋を作る者たち。
ある日母なるガンジスの起こした大洪水。島に流された男たちは、インドの神々の寄合を見ることになる。
***神の目から見が現代人間の発展というところか。
/「橋を造る者たち」
ジョージは幼い頃から夢の世界に親しんでいた。それはジョージにとって現実と同じようなもう一つの世界だった。現実のジョージは、学校でも軍隊でも頭角を現し人気者となり明るい人生を進んでゆく。
その間にも夢の世界に入り込んでい��。可愛い少女、追いかけてくる男たち、街の灯、海、垣根。
そしてある日、自分が夢で見た光景を謳う娘と出会う。
***一応ロマンチックな話のはずだけど…どこかそれでは終わらない気がするのはなぜだろう。
/「ブラッシュウッド・ボーイ」
行方不明になったヴィカリーは、インド赴任中にはミセス・バーストの店に行っていたよ。
ミセス・バーストは特別の美女というわけではないが、女性的魅力を持った女性だったんだ。5年ぶりに彼女の店に行ったって、客の好みを覚えてくれているような女だ。
イギリスに戻ったらヴィカリーに記録映画に誘われたんだ。それはパディントン駅の様子を映したものだったんだ。するとホームに彼女がいたんだ。人ごみの中を誰かを探すようにして歩くミセス・バースト。
ヴィカリーは毎日記録映画を観に出かけた。彼女は誰かを探しているようだなと言うと彼は答えた。「おれを捜しているのさ」彼が行方不明になったのはその後だったよ。
***なんとも不思議な魅力のあるお話。
/「ミセス・バースト」
メアリ・ポストゲイトがコンパニオン(家政婦兼話し相手のような)に雇われた家で、若いウィンダムの養育を任された。
ウィンはやがて戦地に赴きそして帰ってこなかった。
ミセス・ポストゲイトは、庭に飛行機事故で不時着した負傷ドイツ兵の姿を見つける…。
/「メアリ・ポストゲイト」
その女性は、彼女の愛に相応しくない男を愛したために苦しみのうちに死んだ。
彼女の面倒を見た若い文士は、その相手の男に罠を仕掛ける。
***作家に仕掛ける罠。自分なりの愛情。
/「損なわれた青春」
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イギリスの作家キプリング(18865-1936)の短編集ですね。
キプリングはインドで生まれて、イギリスで教育を受けましたが、17才で高等教育を受けること無く新聞社に入社。
新聞社で知識と経験を深め、詩人としてデビューして評価を得て文筆活動に入るという経過をしています。
キプリングと言うと「ジャングルブック」が日本では有名です。
この短編集には初期の作品から晩年に至るまでの代表作9篇が納められています。
インドの風習とイギリスの風習の違いで錯綜した内容で、事態背景もあり、なかなか理解しがたい文体ですが、男女の恋愛感情の縺れや、親子の確執、伝統文化への反発など機知に富んだ文章で興味深い作品集ですね。
ノーベル賞も取るくらい後の作家にもかなりの影響を及ぼした、重厚で複雑な物語も読みとく縁になればと思います。