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柴田元幸の翻訳の魅力は・・・。という文章を10人が書いたら、多分10人とも違ったことを書くだろうと思う。そもそも本来なら、海外の名作を読んで感じるものがあったのなら、訳者の魅力というよりは原著者の語り口の魅力が論じられるべき筋に当たる筈である。しかし、この翻訳者なら間違いないと心頼みにしている翻訳者がいるという話を聞くし、自分にとって柴田元幸はその一人であるし、多くの人にとっても、また、柴田元幸はアメリカ文学へのよき道案内となっていることは間違いない。そうであればこそ、冒頭の問いかけには意味があると思うのだ。
自分にとっての柴田元幸の魅力は、なんと言っても言葉の平易さだ。多分、そう言い切ってしまうのは語弊があるだろうということは承知のうえで、でもやはり柴田元幸の翻訳には、大昔の偉人達が使っていた古めかしい日本語を辞書から拾い上げて来て訳文に充てましたというような印象の言葉がほとんどないように思う。訳者が文章を自分の言葉で作りあげている、という感じがとても強くするのだ。そしてその時、柴田元幸は読者にとても親切だ。
そんなことを考えていると、翻訳ということの意味は突如あいまいになる。そもそも翻訳というのは、本質的には不可能なことだとよく言われるが、特に翻訳者が次のようなことを考えている場合、ますますその難しさは増すだろう。作家のイメージする「いわば<原概念>ーこれを仮にAと呼ぼう−がまずあって、それが英語の歌詞においてはA1として表現されている。訳詞はA1を翻訳するのではなく、A1の向こうに見えるAそのものを翻訳することよってA2を作ろうとしている」。その原概念に迫ろうとする姿勢が、柴田元幸の行為の根底には見える。もちろん、その読み取ったものが間違っていたら(まあ、何が正しくて何が間違っているか、なんて簡単には言えないだろうけれど)、その姿勢が如何に真摯なものであっても受け入れられはしないとも思う。しかし、恐らく世に柴田元幸ファンが大勢いるということは、その柴田元幸の読み取ったものに共感を寄せる者が大勢いるということであると言えるだろう。極端に言えば、柴田元幸(に限ったことではないけれど)の翻訳は、柴田元幸の著作のようなものであるとも言えて、映画におけるプロデューサか監督のような役割を担っているようなものだと言ったら、柴田元幸ファンの賛同を得られるかも知れない(原著者は、言うまでもなく脚本家である)。
それに加えて、翻訳に取り上げる作品に対する思い入れを訳者が強く持っているのが、何故か伝わってくる。好きな作品に対する愛情、そして、それを多くの人に読んでもらいたいという気持ちを持つ本好きな性格の人であろうことが容易に想像できる訳者である。そのことも、多くの柴田ファンを生んだ要因だと思う。かつてミステリーにはまっていた時に、内藤陳のオススメを随分楽しく読んで紹介された本を読むことが多かったけれど、そのノリに近いことを実は柴田元幸においても、自分はしているのだ。もっとも、オススメのことばがある訳ではなくて、その本には、柴田元幸訳、と書いてあるだけなのだけれど。
柴田元幸の生の声(といっても肉声���いう意味ではなくて、原著者の概念を通して出て来た言葉ではなく訳者自身の概念に基づいた言葉で、という意味だが)は、訳者あとがき、などで読むことはできるけれど、まとまった著作として読んだのは初めてである。タイトルの揶揄するように柴田元幸は本来米文学を専攻とする学者であるが、その翻訳文の平易さから感じた印象そのままに、このエッセイの中でも学者じみた雰囲気がないことに、「やっぱり」という解ったような解らないような印象を、まず、抱く。あるいはそれは、仏文学でなくて米文学だからなのかも知れない、と紋切り型に割り切りたくなる誘惑も、実はある。例えば、堀江敏幸の文章も自分は好きだけれど、仏文学者である堀江敏幸の文章には、平易、という印象は抱かない。やはり、フランス映画のような、全てのことを言い切らない美徳、言い替えれば何を言っているのか敢えて解らせないスノビッシュなもの、を感じないでもないのだが、柴田元幸の文章には、そんな鼻にかけたようなものはない。どこまでも明瞭である。
このエッセイ集は、ある雑誌の「時事英語」というコーナーに掲載されていたものが中心となっている、ということだが、語られているのは「時事英語」ではない、というのは著者自らが言う通りである。では何が語られているのか、というと、自分には「日本語」が語られているように思う。なにもジョークで言っているのではなく、日本語という概念に何かを載せることについて、柴田元幸が終始語っているように思うのだ。翻訳という行為をしている著者であれば、それは常に意識していることなのかも知れないが、別の概念の上に立つ言語で書かれたものを読み取る、という行為には余り言及せず、もっぱら日本語にどう載せるかということに憑かれているかのような話が多い印象が残るのだ。もちろん、そのことに気づいて改めて柴田元幸寄せる信頼の度は深まるのだ。
ユーモアに独特の鼻が利く、というのも柴田元幸に対して自分が持っている印象の一つだけれど、その面についても、いかんなく発揮されていて楽しい。例えば、「おいとけさまにおいでてもらいましょ」と題された章では、如何にも生真面目を装って人を騙す柴田元幸の様子が描かれていて笑える。また「スカーレット・オハラる」なる動詞の意味を嬉々として(かどうかは読者の受け取り方次第かもしれないけれど)説明しているくだりは、根が冗談好き、なのかなと感じるものが残る。もっとも、捻くれたところのない好青年の冗談を聞かせれているような印象も残るけれど、まあ、であればこそ、バクスター、なども訳すのだろう。
英米では、一般向けの科学書の名著がたくさん出版されているが、それが翻訳では余り科学好きでない読者を捕らえることが少ないのは、一つには柴田元幸のような翻訳者がその分野にいないせいなのかなあ、とふと思う。科学書の翻訳といえば、林一、という印象があるけれど、その訳文に惹かれたというようなことは残念ながらなかったように思う。ファインマン関連のものが比較的売れているのは、もちろん、原著の面白さもあるけれど、大貫昌子という名翻訳者がいたからだ、とも思うのだ。柴田元幸の話とは関係ない話になってしまったけれど、改めて翻訳という作業を通して現われてしまう人間性の��うなものに、最後は思いが至ったのだった。
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柴田さんのエッセイ!
以前も柴田さんのエッセイを読んだが、前回よりも断然面白い!
なぜ?単に私が変わったから?
読み始めるとエンジンがかかって、焦燥に駆られるほど。『亡国のイージス』ぶり?(まぁ、あれは小説なのでまた違う焦燥だが)
早く続きが読みたい、という感じではなく、あの本があるから読むのが楽しみ、という期待感。
内容は「時事英語」という連載エッセイのまとめ。
この人のエッセイの面白いところは、大真面目におかしな事を追求して述べていくところだと思う。
シニカルかと思えば、急にシュンとなるところもまた、よし。
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[ 内容 ]
「肉じゃがとステーキに見る日米文化の差異」「インドで犬に咬まれた私にインド人医師が与えたアドバイスとは」等々、アメリカ小説の名翻訳家によるすこぶる愉快でためになるエッセイが満載。
講談社エッセイ賞受賞。
[ 目次 ]
狭いわが家は楽しいか
アメリカにおけるお茶漬の味の運命
ハゲ頭の向こう側
礼儀正しさのパイナップル
天は自ら愛する者を助く
すてきな十六歳
…と考えるのは私だけだろうか
愛なき世界
ひじきにクロワッサンにうどんに牛乳
みやげ物の効用〔ほか〕
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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先日読んだ本の訳文が好みだったので、どういう視点で物事を考える人なのか気になって手に取った一冊。
日本と英語圏の「言葉」の違いから、文化の違いを少し考えてみたりみなかったり。
表題作の中で“大真面目な人が大真面目に書いた文章には独特のおかしさがある”と述べておられるけど、まさにそんな空気が流れるエッセイ。
どのお話も、ゆるくてクスッと笑える。それでいて、少しためになる。
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現代アメリカ文学の翻訳者、柴田元幸さんのエッセイ。ユーモアたっぷりで、英語にまつわる小ネタが詰まっていて面白い。
大リーグの名捕手ベラが、レストランでピザを四つに切るか八つに切るか聞かれて、「四つにしてくれ。八つも食べ切れんからね」とジョークを言ったという話、好きです。
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英語教師、そして翻訳家であるらしい著者による、英語に関係しているようなそうでないようなエッセイ。
肉じゃがを英語にするとmeat and potatoだが、意味合いが全然違ってくるとか、おもしろかった。
英語がある程度分かる人にはよりおもしろい本。
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翻訳家・東大教授である柴田氏による英語に関する小話と自分の体験談を織り交ぜたエッセイ。
英語および英語圏の人々のメンタリティーについてお話が多いので、そうしたことに興味がある人には特にお勧めです!!
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名訳者として名高い著者のエッセイ集。単行本が出たのが90年代ということで、古さを感じさせる内容も散見されるが、概ね面白く読んだ。アメリカ文学の作家名も幾つか登場していて、興味を惹かれたものもある。
岸本佐知子のエッセイ集でも感じたが、翻訳家のエッセイというのは、語学学習者向けの媒体に連載していても、英語の話題に終始するとは限らず……というか、寧ろ英語(語学)とはどんどん離れた内容になっていく傾向があるようだ。そういえば吉田健一にも、英語についての話題から始まって、最後は別の話になってたことがあったなぁ。
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柴田元幸さんのエッセイ集。
「トラブル・ドール」いいなあと思って、なぜかラン大会の遠征先で見つけて嬉々として手に入れたんだけど、悩みを打ち明ける暇もないというか、めんどくさく感じるぐらい大したことがない。(「みやげ物の効用」より)
私には「スカーレット・オハラる」のが一番なんだな。なにごとも寝て忘れる!(「寝てしまう」より)
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この4年間を総括するエッセイ? なんてものを柴田さんが書くわけもないんだけれど、そこに通じる軽い批判? なんてものも書いてるわけがないわね。30年以上も前のユル〜いお話たちでした、が、これ今だと女性蔑視なんじゃ? というところもあるようなないような、ってあたしもよほどSNSに害されてるな。
アメリカ(正確にはロックの世界)では16歳(特に女子)の誕生日ってのが重要っていう話がでてきて、それはこないだ見た『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』のなかでトランボの娘さんが16歳の誕生日を脚本仕事で祝ってくれない父に激怒したことに合点したのでした。
話はさらに飛んで、トランボが『プレミアムシネマ』で放送された日が12月17日で、その時はなんの意図も思いつかなかったんだけれど、いま思うと『セクシー田中さん』問題のことだったんかな? がな、監督役が「原作はクソなんで脚本でどうかよろしく」って言うのはアウトだわ。まぁ昔からある文化なんだろうけれど……。
って、話逸れ過ぎ問題。良い本の紹介たくさんされていました! この本が出た時には翻訳されていなかったリチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』さすが柴田さんご自身で翻訳されているわ。予約完了。楽しみ!