紙の本
書評:『有閑階級の理論』
2003/06/27 01:34
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:yuho - この投稿者のレビュー一覧を見る
有閑階級とは、いわゆる上流階級のことをいう。ウ゛ェブレン曰く、それが最も発展していたのは「封建時代のヨーロッパや封建時代の日本」だ。こうした階級は、産業に直接従事する必要がないため、主な仕事は「統治、戦闘、宗教的職務およびスポーツ」である。つまり、彼らは〈名誉〉とう価値観にもとづいて行動し、日常生活を送っているのだ。ここでは、〈浪費〉こそ、彼らの自尊心を満たす最も効果的な方法になる。この〈浪費〉原理にもとづいて、彼らはおよそ「合理的経済人」とは似ても似つかない経済行動に走るのである。衣服や教養、パーティーを利用して〈名誉〉を争うのである。ウ゛ェブレンのいう「顕示的消費」とは、〈見せびらかし〉の衝動に駆られた人々の行動だ。
こうした「有閑階級」にたいして、実質的なモノやサービスを生み出している産業に従事している人々は逆に〈浪費〉を嫌い、実質的な有用性を好む精神の持ち主である。この精神がウ゛ェブレンのいう「製作者本能」である。
この本は100年以上前に書かれた本であることにまず驚く。その洞察の鋭さは、およそまったく古さを感じさせないだろう。現在でも使えるアイデアの宝庫である。
たとえば、「代行的閑暇」というウ゛ェブレンの概念などはフェミニズムの理論に転用できそうである。これは、有閑階級の当事者に代わって〈浪費〉をさせられる階級、たとえば使用人や妻の〈浪費〉のことを指している。一見女性が華やかな装いをしようとも、実際は有閑階級の当事者である男性の〈名誉〉のために強制されているにすぎない。これを現在にあてはめてみれば、どうだろう。たとえば、女性の〈ハイヒール〉は動きづらいし、産業的にはまったく機能性をもたない。こうして男性が〈機能〉を独占し、女性の〈華やかさ〉は支配的な男性のための「代行的閑暇」である、ということもできはしないだろうか。
産業が発展していくにつれ、「製作者本能」の精神も拡大し、有閑階級は滅びの道をたどるだろう。これがウ゛ェブレンの、産業社会のたどる歴史のシナリオであった。とはいえ、ウ゛ェブレンのシナリオに反して、現在の消費社会は〈顕示的消費〉の全面開化といってもいいかもしれない。階級のトップから規範や価値観が与えられるのではなく、むしろボトムから次々と新しい消費スタイルが生まれている。たとえば、レゲエやヒップホップやパンク・ムーブメント。こうしたカルチャーは、担い手である彼らの〈生〉の価値観に密接に結びついているにちがいない。
とはいえ、ウ゛ェブレンの『有閑階級の理論』が全く非現実的なものとなり、現在において有用性を失ったということにはならないだろう。ウ゛ェブレン曰く、〈社会進化〉とは「共同性の環境が持つ圧力の下で、気質と思考習慣とが淘汰的に適応していくプロセスである。思考習慣の適応が制度の成長である」。こうした理論のダイナミクスと、特異な批判意識に貫かれた叙述を味わうことができる。この本は、わたしたちが生きている現実に新たな視点を確保してくれることはまちがいない。みなさんもぜひ一読を!
投稿元:
レビューを見る
ヴェブレン独特の論説節が有名な論文。この時代特有の読みにくさに溢れている……。ゼミの制度学派隊のヴェブレン熱に犯されて私も読みました。皮肉満載の論文。面白いといえば面白いし、くどいといえばくどい。
投稿元:
レビューを見る
旧訳ではだめだったので、新訳を買い直して再チャレンジ。なんとか最後まで読めました。
刺激的でしたが、難しくてどこまで理解できたのかわかりません・・・。
投稿元:
レビューを見る
20世紀以降の様々な消費社会論の嚆矢をなす、1899年の古典的著作。
しかしいろいろな面で内容はさすがに古い。19世紀的偏見に満ちた古典的人類学の知識、性急な進化論。ここで描かれているのは、当時のアメリカ合衆国の上流階級で、産業に成功して富を得た者や、その子孫らと思われる。彼ら「有閑階級」が労働を厭い、金銭的栄光を誇示するためにおこなう顕示的消費は、こんにちの社会にも本質的には通底していると思われる。
たとえば、自動車を選ぶときは何よりも「それを持つことによってまとうことが可能になるステータス」が重視されており、これはヴェブレンの分析した時代と変わらないようだ。
しかしヴェブレンの時代と現在とは、明らかに何かが違っている。
当時のような「上流階級」はいまの日本にも恐らくいるのだろうが、私などの目に触れる場所には存在せず、かわりに都市部の無名なサラリーマンたちとその世帯が、こうした有閑階級的な消費行動を担っているように見える。
消費社会の進展は「有閑」状態を万人に押しつけたのかもしれない。
長引く不況、原油高、リーマンショック、震災の経済的影響などなどと言ってはいるが、今年のゴールデンウィークは海外旅行に出かける人がずいぶんいるという。結局、金も暇もあるらしいのだ。フィギュアあつめだの、DVDだの、しょうもない「趣味」に、日頃どれだけの金が使われていることか。(もちろん、私もそうである。)
ほんとうに経済的に貧窮している家庭を見ると、生活保護を受けながら、ちょっと金ができるとパチンコに行って瞬く間に消費してしまうらしい。
このような消費のタイプは、ヴェブレンの言う「顕示的消費」とはちょっと違うかもしれない。都市ではみせびらかす相手としての隣人などいないし、現代日本人はもっと個人的な・私的な・閉鎖された内的空間の中で、消費欲動を垂れ流しているのではないかと思う。
ひどくくだらない事に金をどんどん浪費するこんにちの日本人の世界は、この本に描かれた世界とはどこか致命的に異質であり、私たちにはこんにちの消費社会をえがいた書物が必要だ。
といっても、有象無象の雑多な論がちまたにあふれており、そのノイズ化した言説の嵐に、私たちは日頃うんざりしているということも事実である。
そうであってみれば、本書のような100年以上も前の古典が、こんにちの社会にも通底する指摘をなしていることに、注目するべきなのかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
古典だから当然と云えば当然だが難しく且つ古くさい。書かれた当時の著者の暮らした世の中の、アッパークラスの生活者の意識や常識、そして社会規範をうかがい知ることができる。ここに書かれたことをそのまま現代に映してみることは無意味だが、これをベースにして今を読み解くことはできるかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
私たちが抱く欲望というのは実際の所、他者の欲望に他ならない。生理的欲求という例外を除けばそこに残るのは「欲しいものが、欲しい」という根拠なき欲望であり、この欲望の永久機関という潤滑油こそが資本主義社会を支えてきた原動力なのだ。有閑階級=持てる者たちは消費することによって互いに顕示欲を競い、そして妬み合い、彼等のスタイルは下流にも広まってやがて社会全体の基調となる。ヴェブレンはこの様な資本主義社会における思考習慣を百年前に喝破しており、その理論は今もなお古びてない。難解ではあるが現代にこそ読まれるべき名著。
投稿元:
レビューを見る
(下記のことがこの本に書いてあるわけではありません)
昔は暇という概念は一部の働かなくても食べていける階級のひとだちだけのものだったのに(だから「有閑」というのだが)今は庶民もかなり余暇があるんだよな。でもそれは住む家を建てたり洋服を作るってくれる人の労働にによって成り立ってるはずだ。日本で安い食事や安い衣服が手に入るのはもはや日本で作られていないから。いまの日本は戦後の経済成長ほど未来に希望は持てなくなったとしても、そこそこの労働でなんとなく食べられるし、なんとか住むことはできている。日本は戦争もないしそんなにひどいテロも頻繁にあるわけではない。(災害はどうしようもないけれど)
(続くカモ)
投稿元:
レビューを見る
久々に読もうとしましたが、全く頭に入って来ず。当方も遂に衰えてきたのか?
それを必死に否定する訳ではないが、これは悪文かと。訳文のせいだけでなく、原文がいまいちなのでは。
解説の解読もちょっと贔屓が入っているかな?主張は明瞭でなくては。
最後まで当方の自己弁護に終始してるな、、、
投稿元:
レビューを見る
これのどこが経済学?という叙述的な内容
19世紀末のアメリカの退廃した上流階級文化を揶揄したという解説を読むと納得がいくが、そのためだけにこれだけねちねちと文章を書く粘着質に疲れてしまう。
解説が良くかけていてわかりやすかった。