紙の本
コンテクストの擦り合わせ
2016/03/31 16:10
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投稿者:ルイージ - この投稿者のレビュー一覧を見る
人間の生活は人それぞれに異なるコンテクストの擦り合わせだ、という論旨が非常に素晴らしい。本書は演劇を題材にした話ではあるけれども、複数の人が集まるコミュニティ運営論としても読み取れます。
紙の本
“対話”技法としての演劇論
2004/10/23 17:21
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投稿者:hisao - この投稿者のレビュー一覧を見る
1962年生、気鋭の戯曲作家・演出家が“自分の妄想を他者に伝える”技術=演劇・劇作の技術を平易に述べた演劇入門書です。
著者の語ろうとする演劇は演ずる側と見る側が完全に隔離されたローマ帝政時代コロッセオで行われたの奴隷による見せ物でも、近代帝国主義の産物としてのオペラでも、共産主義政権下のサーカスでもありません。プラパガンダや単純な娯楽としてのテレビ・ドラマでもありません。遠くアテネ民主市民社会の“対話”と“哲学”にその淵源を持つ“西洋近代演劇”です。
舞台空間という限られた時間と場所で表現者と鑑賞者が“時空”を共有する。“近代演劇”は鑑賞者の参加が前提され、表現者と鑑賞者が内的な対話を行う“参加する演劇”です。
「演劇はすべての局面において対話を要請しそれがなければ成り立たない構造を持っている」
「重要なのは“私のテーマ”“私のコンテクスト”を、作品を通じて他者に伝える事ではなく、対話を通じたコンテクストの摺り合わせ、そしてコンテクストの共有、新しい共同体の新しいコンテクストの生成が演劇作品を演劇作品たらしめる要素である」
対話を成立させる技術としての演劇論が語られます。
表現者と鑑賞者が共有する空間を作り上げ、お互いの思いを共感せしめる“仕組み”として、戯曲の場所・背景・問題設定、登場人物の決定からプロット・エピソード・台詞の作り方が解りやすく解説されています。時空を支配する言語的、身体的な対話技法が具体的に明かされています。
“リアル”という概念についても著者は表現者と鑑賞者がコンテクストを共有し、新しいコンテクストを生成する感覚と捉えておられます。
私達の世界は混沌としています、特に今日に於いて国家、企業、学校と言った共同体が強要するコンテクストが音をたてて崩れ、人々はその仮想のコンテクストの無効性を直感し世界の“リアル”を捉える方途を見失っています。
その様な状況に於いて この世界の混沌を混沌のままで少しずつゆっくりと理解し合っていく“対話”を通しての“リアル”確保の技法としての演劇の役割が注目されるところです。
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投稿者:猫 - この投稿者のレビュー一覧を見る
劇作家が自らの演劇理論を優しく解説。従来の演劇におけるリアリズムがいかに現実からかけ離れているかを指摘し、独自の台詞、演出法を論理的に紹介。筆は文明論、日本論に及ぶ。
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そもそも演劇なんて興味ないんですが、今まで演劇に対して持っていた違和感の原因が突き止められたのでまあ満足です。
もっと感覚的な世界かと思いきや、どこの世界でも大家となると論理的に物を考えているのですね。
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演劇というものを対話のメディアとして尊重し、その仕組みについて丁寧に書かれた本。重要な基本に的を絞って書いてある。この、物語を嘘くさくしないための概念は小説などにも転用できるだろう。別に戯曲も小説も書かないけど、妙に熱心に読んでしまったのは、対話の相手として観客も含まれており、物語を興味深く楽しむための方法論とも読めたからだろう。あと、長年の課題だったコンテクストという単語が、この本を読むことでやっと自分の血肉になった気がします。
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あっという間に読んでしまった。
戯曲を書くための方向づけをやさしく書いている。感性の世界のことなので難しいはずだと思うが、小気味よいテンポでいい悪いをはっきりと判断しながら自らの演劇観を語っている。
演劇のリアルと現実のリアル。
戯曲のセミパブリックな空間論
コンテクスト論
など、参考になることが多かった。
コンテクストを広義にとらえると一人の人間としての生き方にもつながってくるのではないかとも考えさせられた。
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演劇におけるリアルの表現など、大変面白かった。そして、どんな職業にもコミュニケーション能力が必要とされるんだなぁとつくづく思った。「日本人には真の対話がない」と言ったのは中島義道だったか・・・。アイデンティティーを確立しないと上手い役者にはなれないのか。
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平田オリザの論理的な説明がすごく分かりやすい。
「リアルな台詞」のために遠いイメージから入ることや、かなり具体的なプロットの組み立て方等、「へーーーそうなんだ・・・」ってびっくりしっぱなしでした。
ただ観てるだけやと、分からんね。
こうやって本を読むことで、わたしと演劇との間の「コンテクストの擦り合わせ」も徐々にやってきたいな〜
☆以下メモ☆
近代演劇と現代演劇の違い。
━「伝えたいことがある」近代芸術に対して、現代芸術、現代演劇のいちばんの特徴は、この「伝えたいこと」=テーマが、なくなってしまった点だと私は考えている。
━「伝えたいことなど何もない。でも表現したいことは山ほどあるのだ」
プライベートでもパブリックでもなくセミパブリックな空間で生まれる演劇。
セミパブリックな空間で他者が介入することで会話は対話になり、観客は状況把握できる。
会話だけで押し通そうとしてはいけない。
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リアルなセリフ
遠いイメージから入ることが原則
ex. 美術館のことを語るなら美術館のイメージを列挙し一番遠いものから会話を始める
現代演劇においては、伝えるべき主義主張、テーマなど何もない。しかし、表現したいものは山ほどある。それは、世界とは何か?人間とは何か?ということ
演劇は、ある表現の構造を通じて、日常生活では見落としてしまう、または見て見ないふりをしてしまう人間の微細な振幅を顕在化させる
演劇の起こる場所
セミパブリックな空間 「内部」の人々に対して「外部」の人々が出入り自由であること
セミパブリックな時間(背景) プライベートな空間でも、外部の人間が出入り自由な背景、状況といったものを創り出す
戯曲は、象徴的な場面を抜き出して、前後の時間は観客の想像力に委ねる
戯曲は、観客の想像力を梃子にして展開する表現形態
机の上にコップがある。それだけでは、観客の想像力は膨らまない。コップに血がついている。あるいは口紅がついている。奇妙な欠け方をしている。何かのきっかけが、観客の想像力を刺激する。
目の前に俳優が立っている。その俳優が、何かを叫びながら自分の視線から消えていくとする。観ている側は、その俳優がどうなったかが気になるだろう。意識の変化、観客の想像力を方向付けるとは、単純に言えばそういうこと。映像では、フレームから出て行った登場人物は、いったんその物語から関係なくなるという暗黙のルールがある。なぜなら、もし必要ならカメラのフレームはその人物を追うだろうから。
戯曲の場合には、その戯曲、その舞台作品が「何についての」戯曲、「何についての」作品なのかということをできるだけ早い時期に観客にうまく提示し、観客の想像力を方向づけていくことが重要になる→問題提起(運命)
ex. ロミオとジュリエット=出会ってしまったこと 忠臣蔵=お家断絶
運命に立ち向かうにしろ、立ち向かわないにしろ、もともとは卑小な存在であった一個人が、直面する問題の中で右往左往し、人間として変化を遂げていく。それが、演劇というドラマの本質
場所ー背景ー問題 (空間ー状況ー運命)
情報量に差がなければ、情報の交換は行われない
情報量の差異を念頭に登場人物を考える
問題に直面する人々(内部の人)
問題を複雑にしたり、解決に導いたりする人々(外部の人)
大事なのは、人物構成が持っている情報量の差
人は、お互いが既に知っている事柄については話さない。話をするのは、お互いがお互いの情報を交換するためであり、そこから、観客にとっても、物語を理解するための重要な情報が生まれてくる。すべての事柄は、出来る限り間接的な発言の形で語られていかなければならない。
ex. UFO研究家のことは、遺族と葬儀屋の間で語られる
プロット
人の出入りとその人物達によってもたらされる情報の内容のみ →平田演劇の特徴
最初に誰がその場にいれば面白いか、次に誰が入ってくれば楽しいか、あるいは誰がその場にいると都合が悪いか。それらの点だけを考えて、人の出入りの順番を決め��いく
エピソード 実際にその場面で何を話すか、話題を考えること
そのプロットで伝えたい情報とは、できるだけ離れた内容の会話であること。かと言って、全体のモチーフや状況からあまり離れていない会話であること
できあがったプロットと照らし合わせながら、モチーフから遠い順番にエピソードを並べていく。遠いイメージから近いイメージへとあるイメージが別のイメージを喚起するような形で会話をつなげていくことができれば、その戯曲は成功する→モチーフについてあらゆる資料を集め、取材をし、観察する必要がある
TVドラマや映画は、事件の連鎖、演劇はイメージの連鎖によって創られる
注意! ネタを探そうとして読書したり、取材してはいけない。あくまで、プロットを決めてからエピソード
直接的な表現をいっさい使わずに、いかに信条を場の雰囲気に溶け込ませて表現するかが台詞を書く技術
テーマがあって書き始めるのではない。テーマを見つけるために書き始めるのだ
対話 他人と交わす新たな情報交換や交流 ⇔ 会話 すでに知り合っている同士の楽しいおしゃべり
演劇においては、他者=観客に、物語の進行をスムーズに伝えるためには、絶対的他者である観客に近い存在、すなわち外部の人間を登場させ、そこに「対話」を出現させなくてはならない ex. 東京物語 空気枕
冗長率…文章の中にどれだけ伝えたい情報と一見無縁な内容が含まれているか → 対話の方が、会話より冗長率が高い
台詞が書き言葉のように硬くなってしまうと感じる場合には、間投詞や感嘆詞を挿入して台詞を解体していく試みをしてみるといい
コンテクスト(文脈)のずれ、
伝えたい事が先に立つ演劇からは、観客はリアルな感覚を持ちえない
コンテクストの擦り合わせが成されない段階で、表現者の側が鑑賞者に、仮想のコンテクストを押し付けるとき、セリフはリアルな力を失う
「ここは美術館かもしれない」「ここが美術館でもかまわない」という主体的な合意が形成される前に「ああ、美術館はいいなぁ」というセリフが俳優の側から発せられるとき、人はそのセリフをリアルと感じなくなってしまう
私のテーマが確実に伝わることを期待して作品を創っているわけではない。私は、作品を観た人々が、作品との内的対話を通じて、コンテクストの擦り合わせを行い、一人一人にとっての新しい世界像を生み出すこと、あるいは一人一人の世界像がより明瞭になることを期待しているだけ
優れた芸術作品は、創り手の知覚の束が具現化した形だと言ってもいい。その知覚の束に触れたとき、鑑賞者の側にも当然コンテクストの組み替えが起こるだろう。「このような世界の見え方があった」「たしかに私は、このように世界を観た瞬間があった」という覚醒は、受け取り手の側の知覚を刺激し、新しい世界の見方を模索を促すからだ。そのとき生まれる新しいコンテクストは、決して表現者である私のものでもなければ、鑑賞者だけのものでもない。そこに、コンテクストの共有、新しいコンテクストの生成が起こるはずだ。そして私は、そこから生まれてくる感覚を、リアルと呼ぶ。新しく生成されたリアルは、さらにまた、他者との接触を通じて���異なったコンテクストの組み替えを要求するだろう。演劇とは、リアルに向かっての無限の反復
演劇とは、内的対話
対話を通じたコンテクストの擦り合わせ、そしてコンテクストの共有、新しい共同体のコンテクストの生成
混沌を混沌のままで、解像度を上げていく作業
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会話と対話とは、
ある情報を共有している人間同士のコミュニケーションと
ある情報を共有していない人間同士のコミュニケーション、とのこと。
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感覚を言語的に解説してくれる
ちょっと難しいと感じるかもしれない理論的な一冊。
とはいえ。。。言葉の選択の豊かさに引き込まれて、
深く考えるきっかけにもなります。
平田オリザさんは
劇作家になるためのハウツウ本といっているが、
それはまた、
私たち一人ひとりの人生はまさにそのときっきりの物語であって、
私たち自身がその物語を描いているのであるから、
自分らしく生きるハウツウともいえるのではないかと思うのです。
『人生は演劇』であるというところから
自分の生き方を創っていく自分らしさに近づくことになるのかもし知れない。
たとえば、
私は自分らしさを求めるのではなく
ちゃんとあるものなんだという自由な気軽さを感じた。
今自分が「すきだ~~!!」と感じたままに
いちいち理由をつけないで
感動のエネルギーを行動していくことが出来るようになった。
「だって、
あなたは絵を描くときに、
テーマを考えてから風景を探しはしないだろう。
ある風景に出会い、
その風景を描写したいという表現の欲求が、
あなたに絵を描かせるのではないだろうか」
また、
「戯曲は実際に書いてみてわかることがある。
戯曲の構造については、
書いたものにしかわからない部分がたくさんある。
だから私は、とにかく一本、短いものでもいいから、
構造のしっかりした一幕ものを最初に書くことを進めることにしている」
こんなふうに自分を見守ってくれる家族や、友達、上司がいたら安心だ。。。
まずは自分の思うままにやれるのだ。。。
そうだから、もっとよくなるのだってね。
最初の一歩に勇気がわく!
そして、
これはまさに「そんなつもりじゃなかった~~」なんてコトを
うまく表現していると思う。
「観客の想像力をうまく方向付けていくということも、劇作家の大きな仕事である。
・・・・・
対観客という点では、
戯曲はまず書いて、それが作品として上演されて観客の目にさらされ、
そうして初めてわかる事柄があまりにも多い、そういった非常に不思議な表現形態だということが出来る」
う==ん、まさに私たち一人ひとりが人の間で生きている日々なのだと思うのです。
またさらに、
仕事で迷ったときには大切にしたいなって思うあり方があります。
「ヤクルトスワローズの野村克也監督はよく『価値に不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』という。
・・・・
おそらく、私のこの戯曲創作法も、「ダメな戯曲」の理由を検証するのには適した方法なのだろうと思う。こうして、ダメな戯曲を書かないための基本的な概念を系統立てて学ぶことによって、「いい戯曲」をかける確率を高めていこうというのが、私の講座の基本的な考え方だ」
まさに、反省ばかりではなく、反省はいいもののためであって、穴を埋めるのではなく、その積み重ね自体に意味があって、何も反省���暗くなることは無く、それを積んでいること自体がよくなることにつながっているということをうまく表現してくれていると思うのです。
最後に。。。。
「私たちは、テーマがあって書き始めるわけではない。
むしろ、テーマを見つけるために書き始めるのだ。
それは、私たちの人生が、
あらかじめ定められたテーマ、目標があって生きているわけではないのと似ているだろう。
私たちは、生きる目的をどうにかしてつかもうとして、この茫洋としてつかみどころの無い人生のときを、
少しずつでも前に進めていくのではないだろうか。
私たちは生きるテーマを見つけるために生き、そして書くのだ」
私はとても素直にほっとするコトバと感じます。
今ここに生きることから自分らしい生き方となることは
私にとってとても自然で自信のつく生き方だと思うのです。
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四年前、初舞台が終わった後に読んだ。
稽古中に読みたかったなと思った記憶がある。
もやもや、わかるようでわからなかったことが言語化されてすっきりした様に感じた。
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演劇だけじゃなくて、映画や小説にも通ずる点がありすぎる。難をあげるとすれば、演劇の必要性をむりくり見いだしているところ。論理的に説明する必要はない。演劇という媒体の特性を見いだすことと、必要性を見いだすことは、別ではなかろうか。
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「演劇入門」というタイトルだが、あらゆる面について総括的に書いた本ではないし、特にスタッフ関係の内容を考えて購入すると、まったく当てはずれになる。主に脚本の書き方・演出と演技の考え方のようなものが核になっている。そしてそれが、演劇を作ると言うことがどういうことであるのか、ど真ん中をぶち抜いているような気がする。
たとえば、もしあなたが高校演劇にでも関わっていて、台本を書く羽目になったとしたら、酒井は絶対にこの本を一読してから読むことを勧める。著者の言うように「いい戯曲の書き方は教えられないかもしれないが、悪い戯曲を書かない方法」を教えてくれるのは確かだからだ。もちろん台本にはいろんなものがあるから、平田オリザ氏の教えることがすべてだとは思わないけれど、平田流の台本の書き方は、確かに普遍的な何かがあると思う。酒井も素人ながら30以上の台本を書いているけど、経験上「こんなふうにやるといいかな」と思っていたことが、きちんと根拠づけられて説明してあり、うれしかったり驚いたりした。
演出や演技に関する話も同様である。読みながら、今まで漠然としていたいろいろなことが見えてくるような気がした。「コンテクスト」という概念、なるほどと思わされた。
演出や脚本書きや部活動の運営などに関わってる人、なにしていいかわからない人、なんとなく経験でやってる人に一読を勧めたい。
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演劇って聞くと役者がまず浮かぶ。役者の本質的な役割も語られているが、この本はさらに舞台設定やセリフの組み方など、演劇諸要素の作り方をうまく言語化してくれている。「リアル」と「コンテキスト」のたった2語で現代演劇の本質を説明できちゃってんじゃないのか。