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コーネリアスふうな世界。
2005/02/23 08:10
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Straight No Chaser - この投稿者のレビュー一覧を見る
「もっともっと存在を消さないと、誰かが火をつけてくるだろう」
辻仁成の『ピアニシモ』(1989)を評して青野聰は、「主体の獲得」を描くという「ありふれた主題」を扱って「現代を掴みとろう」と奮闘したことに「拍手」を送っている。ヒカルという別人格を作り出すことでバランスを保つ氏家透、「いじめられるのが嫌で、鍵かけて、いちぬけた」、ジンセーの歌そのままのフレーズさえ散りばめられたその小説には、こんな一節がある。
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光と影、昼と夜、表と裏、現実と夢、そんな二項対立を並べながら、「平等」を唱える「太陽」の反対側で「申し訳なさそうに舌を出」す「影」を愛するジンセーはあざとくも(無意識的に、ではなかろう)「透」の“影”の人格を「ヒカル」と名付けている。
『アメリカの夜』(1994)の場合、シゲカズと中山唯生はサンチョ・パンサとドン・キホーテ(アロンソ・キハーノ)として、「透」と「ヒカル」の関係を逆さ吊りにしたような二人組として、闇の到来をごまかしつづける「小春日和的なもの」を内破させようと試みる。
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さまざまな引用から織り成される『アメリカの夜』、その結論的な(堂々巡り的な)場所において『神聖喜劇』(大西巨人)の引用がなされ、そこにソシュール言語学的な理論=体系(言語記号の恣意的性質に発するシステム)の苦楽が重ねられる。
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ジンセーは「ヒカル」の死を描き、カズシゲは「唯生」を「キャメラをもって旅立」たせる。
『ピアニシモ』的世界を幾重にも深く折り曲げたとき、その軋み音のなか『アメリカの夜』の「彼=私」は「見る-見られる」関係から暴力的に身を引き離すこととして「撮るひと」/「書くひと」への回生を成し遂げる。
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アメリカの夜
2022/03/04 17:25
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投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
ブルース・リー、セルバンテス、大江健三郎、安岡章太郎、ゴダール、大西巨人など様々なテクストが引用され、それらの興味深い解釈が展開されつつ、物語の本筋も面白い。
阿部和重ワールドへの、最初の扉
2005/02/16 22:14
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投稿者:ツキ カオリ - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本を最初に読んだのは何時のことだったか。
手元の資料によると、ハードカバーが最初に出たのは、1994年の7月ということになっているから、その直後なのだろう。だとすると既に、軽く10年が経過していることになる。
冒頭に、ブルース=リーの武道(武闘・武術)論が書かれていて、とにかくすごい本だった、という記憶だけが鮮烈に残っている。
その印象は間違っていなかった。
ブルース=リーが武道に関する、本にも成り得るような膨大な資料を遺していた、というだけでも十分に驚いてしまう事実だ。
彼に関しては、『ドラゴンへの道』『グリーン・ホーネット』等、寡作に出演した後、急逝したというくらいの覚えしかない。
上半身裸で黒いパンツ(武術着?)を身に着け、奇声を発して、ヌンチャクを振り回している姿には、今でも時折、お目にかかるが、ハリウッドに、「香港映画出身のアクション・スター」という地位を確立したのは、間違いなく、草分け的存在の、彼である。
肉体派という印象が強烈だった彼だが、自身の武道に関する豊富なメモやイラストを保存しておくくらい、実際には、繊細、かつ、インテリな人だったのだ、ということを教えてくれたのは、何しろ、この『アメリカの夜』である。
タイトルの『アメリカの夜』は、トリュフォーの映画に由来するのは、あまりにも有名だが、この書評を書くために、久々に見ることになったDVDの映像では、懐かしい、エメラルド・グリーンの、近視かと思わせるような瞳(?)で、ジャクリーン=ビセットが微笑んでいた。
他にも、この1册を読むだけで、例えば、ソシュール、大江健三郎、『ドン・キホーテ』など、様々な世界へと繋っていくのだ。
本書は、まさに「扉」の役割を果たしている。
「私」が語る、中山唯生の哀しい話、をぜひ読んでみてほしい。哀しい話、は意外にも、笑える話、なのかもしれないからだ。
この本こそが、阿部和重ワールドへの、入り口である。
いきなり芥川賞受賞作、ではなく、ぜひ、この本から読んでみてほしい。
ここから、『シンセミア』『グランド・フィナーレ』へと、阿部和重ワールドは、連なっていく。
方法的に青春を語ること
2004/04/20 19:59
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投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
なんと評価していいのかわからないというのが正直な感想になる。一言で言えば「微妙」なのだ。
そもそもこれを読もうと思ったのは、最近とみに阿部和重という作家が喧伝されているということもあるが、後藤明生を読んでいる流れを追ううちに行き着いたということもある。阿部はアサヒ・コムの「作家に聞こう」のコーナーで、プリンス、ゴダール、蓮實と影響を受けた人間の名を挙げ、そのなかに後藤明生の作品も参考にした、といっている。
じっさい読んでみるとその「影響」はかなり露骨に現れている。
この作品は、一人称とそのなかで語られている中山唯生という人物とが同一人物であり、自分が自分を語るという自己言及の形式を、かなり自覚的に構築している。「アメリカの夜」自体がP・K・ディックの「ヴァリス」を模倣していることが作中で語られているのだが、この模倣というスタイル、テーマは否応なく後藤明生を思い出させるのである。
後藤明生が群像新人文学賞の選評で、「アメリカの夜」についてこう書いている。
「やがて〈語る私=語られる私〉のテーマが出て来た。また〈模倣〉のテーマが出て来た。すなわち、これは〈自己言及〉のテーマを〈模倣〉の方法によって書こうという試みである」
後藤明生の「挾み撃ち」はゴーゴリの「外套」をモチーフにしつつ、その模倣を志しながらも失敗し続けることと、自分の来歴を語る自伝的営為の失敗とを重ね合わせつつ語っていく特異な方法で書かれているのだが、「アメリカの夜」は意識的に「挾み撃ち」を模倣しているとも取れるような作りになっている。なによりこれは「映画」にかかわる「アート系」の自意識過剰な人間たちのあいだで自分もまた「特別な存在」であろうとする格闘を描いている。それは「挾み撃ち」と同じく、ひとつの「青春」の物語なのだ。その「青春」—自己言及に自己言及を繰り返すような自意識の劇を喜劇化するという点がまた両者に一致している点だと思う。
そう思って探してみると、amazonには「90年代の「挾み撃ち」」と題されたレビューがあった。阿部自身にもそのような野心があったと思う。
さらに作中にばらまかれた「ドン・キホーテ」や「失われた時を求めて」についての言及や大江健三郎の引用や柄谷、蓮實の文体模倣などなど、過剰とも思えるほどにそういう「文学に意識的だ」というアピールを行っているのが見てとれる。もちろんそれは単にスノビスムなだけでなく、語り手が語られている唯生を滑稽化するひとつの方法ではあるのだろう。
ただ、わたしはあまりこの小説を楽しめなかった。後半唯生が身体の左右を黒と白に塗り分けたような出で立ちで映画学校での仲間や不良少年たちと出くわす場面などは滑稽で笑えるし面白くもあったのだけれど、さてそれ以外の部分はどうかというと、やはり「微妙」だった。
自覚的であることに自覚的でありすぎる、というと抽象的だが、方法の説明に終始しているという印象があった。
もちろんこれだけで判断するわけではないけれど、ずっと前に読んだ「インディヴィジュアル・プロジェクション」もなんか微妙だったんだよなあ、と感じたことを思い出した。
アメリカの夜
2001/12/27 00:59
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投稿者:333 - この投稿者のレビュー一覧を見る
デビュー作。群像新人賞を獲得した作品。
映画のことはよくわからなかったが、よく書けている作品だった。一人の映画と文学と拳法に熱中した青年を描いている。けど、重さというか、文章に対する精度が低いような気がした。