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紙の本

個人的に言うとね、このカバーは好きじゃあない。勿論、内容がそのまま表れているというのは解りやすいけれど、正直センスとか品格といった部分でね、今一つって言うか

2004/01/08 21:17

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る

以前、『カブキの日』を読んだ時、そこに描かれる水上の劇場の絢爛たる佇まいに圧倒された。『首の信長』では、人間の首の倒錯的な描写に驚いた。『荒野論』『邪悪なる小説集』では、筒井康隆のSFを連想した。どれも面白かったけれど、今回の作品は、カバー画からだけで言えば、最悪の部類だろう。初めて椎名林檎のビデオクリップを見たときのことを思い出した。

渋谷区猿楽小学校で学んだ仲間たちが学校を卒業して、かなりの年月が経つ。昔、男たちが苛めていた少女は美しい女性に変貌し、舞い戻って街中を闊歩し、逆に男たちは毎日の仕事や町の雑事に追われる。そんな彼らが再会した時、街に何かが起きる。ホラーともSFともつかない分類不能小説。四つの中篇「君枝」「友子」「千葉」「わたし」からなる連作だけれど、最初の二篇だけからは、仕掛けと言うかつながりが見えてこない。

林祐二が語る小学校時代の思い出。醜い少女や悪童たちと過ごす日々、そして別離。数年後、町に舞い戻った人々は蛹から蝶へと変身を遂げ、スーパー・スリムと呼ばれる不思議な美女の一群となって男たちを睥睨する。彼らが美しくあるための秘儀。渋谷に蝟集するホームレスと住民との対立。そして不可解な死。住民を操る友人。埋もれたタイムカプセル。この異様な展開の面白さは、読まなければわからない。

格調の高さと美しさという点では『カブキの日』に軍配をあげるけれど、内容では少しも引けをとらない。出版社の広告誌に連載されたようだけれど、リアルタイムで読んでいたら、さぞ楽しかったろうなあと思う。カバー画の下品さに惑わされること無く、手にすることを薦める。絶対に損はしない。椎名林檎とおなじ、一度味わったら、この毒は癖になる。

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紙の本

未だ書かれざる少年小説のためのプロローグ

2001/07/06 21:02

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:佐々宝砂 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 冒頭、君枝という醜い少女が登場する。舞台は渋谷と代官山の間にあるファッショナブルな街、猿楽町。主人公は君枝と幼なじみの少年である。君枝は成長するにつれ美しいが淫蕩な女になり、のべつまくなしに男と性交しまくる。主人公の「わたし」も君枝と関係を持つ。このあたりまでは、特に面白くはない。しかし、君枝が毎年毎年子供を生み、それがたいていはふたごがみつご、時には六つ子……というあたりから、話は俄然幻想の色を帯びてくる。

 だいたい人間は猫じゃないんだから、そんなにぼこぼこ子供は生まない。生んだとしても母となった女が元の美しさを維持するのは至難の業で、たいていはどんどん老いてくたびれてゆく。しかし君枝は、自分の子供が10代になってのべつまくなし相手構わず性交をはじめるようになっても、依然として美しく、愚かだ。君枝とその子供たちは、放縦を糾弾する住民と対立し、孤立する。そして君枝は「自分の分身」だという赤ん坊を生んで死ぬ。誤解を恐れながら断定すれば、君枝は、最後まで「少女」であることをやめずに、死ぬ。

 次の章で登場するのは、友子という魅力的な少女である。「わたし」の幼なじみであり、とうに別れた最初の恋人だった健やかな少女。しかし、成人して再会した友子は、かつての健康な女性らしい魅力を失っていた。痩せた身体、結核を思わせる色白な肌、倦怠を匂わせる没落貴族のような色素のうすい瞳……友子が獲得したのは、儚げで不健康な究極の美しさだったのである。そのために払った代償は大きく、友子は死ぬ。

 しかしそれがなんだろう? 人間ではないものの美しさを獲得しようとしたのだから、人間でなくなるのは当たり前だ。私は、友子の選択に深く共感する。男が賛嘆するような健全な肉体美など、「少女」の欲する美ではない。小林恭二は「少女」のことがよくわかってるひとだ。若干の不満を感じるとしたら、友子の選択が「わたし」の影響によってなされたものだという説明の部分である。できれば、友子自身の願いによる選択だった、ということにしてほしい。「少女」は、ただ単純に美しくなりたいからなろうとするのであって、男のために美しくなろうとするのではないから。

 しかし、この物語は「少女」に関する物語ではない。「少年」に関する物語なのである。「少年」に関する物語を書くために、作者はまず「少女」を描写した。なぜなら「少年」のステロタイプなイメージは、作者が描こうとする「少年」とは違うものだからだ。作者が描こうとする「少年性」の基調をなすものは、権力志向ではなく、セックスへの関心ではなく、プラモデルやメンコやロケットや野球に対する興味でもない。作者が描こうとする「少年」は、おそらく「世界に対して違和感を抱くもの」なのである。

 物語後半の二章で「少年」が描かれる。「わたし」を含む「少年」たちは世界を破壊し混乱させてゆく。しかしそれは予兆として描かれるだけで、本当の破壊と混乱は、お洒落で小さな街・猿楽町を一歩も出てゆかない。まだ読んでいないひとのことを考えて、あらすじの詳細は書かないが。

 この物語の終わりはまるでプロローグだ。いや、この本一冊が大きなプロローグだ。私はこの先を読みたいとおもう。しかし作者はこの続きを直接には書かないだろう。書くとは思えない。なぜならこの本は、やがて書かれるであろう「少年小説」、かつて少年が持っていて今は少女が持っているある種の意識を描いた小説、そのような小説群のためのプロローグなのだから。

  詩と書評のサイト<百鬼の扉>

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2008/08/16 11:29

投稿元:ブクログ

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