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紙の本
ついテツガクしてしまう小説
2001/10/11 00:06
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投稿者:野沢菜子 - この投稿者のレビュー一覧を見る
保坂和志さんの小説を読むのは、時間がかかる。読みながらつい考えてしまうからである。そもそも、小説そのものがつらつらと考えている。その思考が刺激的で、こちらものせられていっしょに考えてしまうのである。根源的な、言ってみれば子供が考えるような問いかけである。
この物語では夢の中で人間が猫になっていて、人間の意識はそのままでありながら、そこはやっぱり猫なのであって、しかも夢を見ているという自覚まである。その猫人間が、猫として行動しながらそのつどいろいろ考えるのである。たとえば、こんなふう。
「この世界は何のためにあるんだろうと悲しい気持ちとともに彼は考えた。三十億年とか四十億年に及ぶ時間にわたって生命を生産しつづけているこの世界というのは、何のためにあるんだろうと思った。
ただ生まれて生きて死ぬだけならともかく、人間のようなパースペクティブを持ってしまったら、『何のために』ということを考えざるをえないじゃないか。人間以外の生物がすべて本当にただ生まれてきて死ぬだけだとしても、人間は現にそういうことを考えるように頭が発達してしまったわけで、その発達がいっさいこの世界や宇宙の原理と無縁だとしたらそれはとても奇妙な現象だと思った。」
自分はなぜ生きているのだ。こうして考えている自分の意識ってなんだ。子供の頃はこんなことをよく考えたと思うのだけれど、大人になると生きるのに慣れてそんなことは忘れてしまう。でも、保坂さんの小説を読むと、普段忘れていた大事なことをいろいろ思い出して、読みながらじっくり考えてしまうのである。
紙の本
猫であるとはどのようなことか
2002/05/09 21:35
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
「生きる歓び」の「私」は「猫の五官の特徴にまつわる小説」を書いていて、そこでは視覚に依存した人間の生と思考をめぐる考察もなされている。
(このことに関連して「私」は、捨てられた子猫ごときにかかずらっているヒマがあったら世界の難民救済の募金にでも行った方がいいというような「世智にだけ長けて、わかったようなことを若いタレントに向かって頭ごなしにしゃべる、五十すぎの関西芸人」の「バカな理屈」について、「人間というのは、自分が立ち合って、現実に目で見たことを基盤にして思考するように出来ている」のであって、「人間の思考はもともと「世界」というような抽象ではなくて目の前にある事態に対処するように発達した」から「純粋な思考の力なんてたかが知れていてすぐに限界につきあたる。人間の思考力を推し進めるのは、自分が立ち合っている現実の全体から受け止めた感情の力なのだ。そこに自分が見ていない世界を持ってくるのは、突然の神の視点の導入のような根拠のないもので、それは知識でも知性でもなんでもない、ご都合主義のフィクションでしかない」と語っていた)。
その「生きる歓び」の「私」が書いていた小説というのが、明け方の夢の中で猫になった「彼」による猫の触毛と聴覚と嗅覚をめぐる体験と考察(猫であるとはどのようなことか)を、人間の言葉と概念で記録した「明け方の猫」だ。
人間の大きな手で撫でられてゴロゴロ喉を鳴らしたり毛づくろいの愉悦にうっとりしたりと、まず猫であることの歓びを存分に味わった「彼」は、やがて触毛と聴覚と嗅覚がもたらす猫的クオリアの世界やそうした「世界を丸のまま受け入れる力」に満ちた猫の生、そして触毛を失った代償として人間が獲得したものをめぐる考察を始める。
──「いまの自分の感じていることと人間だった自分の感じていたことは、現実と写真ほどの差がある」。「そのつど世界と関わりそのつど世界に送り返す生き方をしている猫にとって、世界そのものは人間よりずっと濃密で、…猫にとっては自分の中にあるものよりも外にあるものの方がずっと多くて、自分が生きて存在していることよりも世界があることの方が確かなのではないか」。「人間は猫の外界の豊富さを失ったのだから、パースペクティブを獲得してもいいはずだ」「パースペクティブを持たない猫は、外界との緊密な繋がりを持ち、生存の記憶を外界に送り返しているはずだった」。「猫にとって外界は自分の体の一部であり、自分の体は外界まで浸透しているに違いない」。
それにしてもこのような「小説」は前代未聞なのではないだろうか。
紙の本
人から勧められて
2017/09/29 10:50
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投稿者:あられ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「猫をテーマにした小説」を探していたところ、人から勧められて読みました(本を貸してもらいました)。『明け方の猫』と『揺籃』の2編が入った一冊です。
『明け方の猫』は、たいへんおもしろく読みました。そもそもこの本を私に勧めてくれた人とは、猫が「にゃあ」と言うたびに、「細かいニュアンスが聞き取れなくてごめんね」と思う、という話をしていたのです。年をとって、パサパサした感じになってきた猫のたたずまいの描写なども、とてもよかったです。
もう1編の『揺籃』ですが……すみませんが好みに合わなかったというか、あの長さの小説で最後まで読めなかったのは初めてかもしれません。文体やストーリー(ストーリーがあるのかないのかわからないくらいのストーリー)は嫌いではありませんが、その「意識の流れ」で持って回ったように描き出されていることが結局は鬱屈したマッチョイズムでしかないと感じられ、横須賀線に乗ったところでうんざりしました。
「女が男に見せている」のではなく、「女はそこに立っているだけであり、男が一方的に(時にはじろじろと)見ている」のであるという認識を、この小説の主人公くらいの年齢の男の人が獲得することは、そんなに難しいことなのでしょうか。
それとも私がうんざりした箇所のその先に、「自分が勝手に見ているのだ」という認識の獲得にまつわる物語があるのでしょうか。
いずれにせよ、心の底からうんざりしたのでその先は読まないまま、「猫の話はおもしろかった」と、「は」を強調して、貸してくれた人に本を返しました。
帰途、野良猫と遭遇したときに、「彼ら・彼女らも私たち人間のぶしつけな視線に、『何見てんだよ』と思ってるかもしれないな」と思いました。
でも私は、猫が自分の姿を私に「見せている」とは思いません。私は、私が一方的にじろじろと猫たちの姿を見てにやけていることを、知っています。
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