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大好きな須賀敦子のエッセイ。本棚に置いてあったのを、通勤のお供にもう一度読む。ひたすら、文章の巧さと知識の深さに感心。私も近づきたい。
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きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。…というすてきなプロローグからはじまる本書は、作家ユルスナールの生涯や作品の登場人物の足跡をたどりながら須賀敦子さんの思索をたのしめるエッセイだ。
わたしはユルスナールの作品を読んだことがないし、ユルスナールが作品の題材としたハドリアヌス帝も、ピラネージという廃墟を描いた建築家も、キリスト教の歴史も知らない。
不思議なのは、それらを一歩一歩確かめるように追想する須賀さんの文章を読みすすめるうち、知らないはずのユルスナールや登場人物たちがとても懐かしいもののように思えてくること。
この先、ユルスナールの作品を読むことがあるなら、須賀さんが旅したヨーロッパの廃墟やアメリカの海岸のイメージに支えられてより世界観をたのしめる気がする。
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1924 (10歳) 父親に連れられヴィラ・アドリアーナの移籍をたずね、強烈な印象を受ける → ハドリアヌス帝のテーマにとりくむ
1929 『アレクシス』出版、父他界
1930 グラッセ社の編集者アンドレ・フレーニョがユルスナールに手紙を書いたことをきっかけに、恋が始まる → 1936『火』
1934 ギリシア人のルシーと懇ろな関係に
1937(34歳) 伴侶となるアメリカ人のグレースと出会う
1939 第二次大戦が始まる1月前にグレースとアメリカにわたる → 戦争はまもなく終わると新聞は書きたてていたのですぐに終戦すると思っていたが、*戦争は終わらずパリの陥落などをアメリカで聞いた。
1941 グレースが学務主任になった女子ばかりの小さなジュニア・カレッジで無報酬でフランス語、歴史、美術史を教え始める
→ 誰かと知的なレベルで会話したい、ユルスナールの学問に飢え → しかしながら、外国語に堪能ではなく、会話が苦手だったこともあり彼女の思考回路をすんなりと理解できる、受け止めてくれる学生はいなかった
→ 彼女にとって「霊魂の闇」の時間 、"dépaysement"と彼女はこの時代の孤独を表現している
→ 自己をたえず言語で表現しようとすることがそのまま生きる証左でもある作家にとって、自国語を話す機会もなく、またこれを聞くことができない空間に生きることは彼女にとって二重の孤独となった
→ 彼女が背負っている文化から余儀なく切り離されてアメリカにとどまったことによって、じぶんのヨーロッパ性をより明確に自覚したに違いない。その自覚が『ハドリアヌス帝の回想』を、彼女がずっと以前、考えていた作品とは異質なものに発展させてゆく
1951 『ハドリアヌス帝の回想』→ 世界的な名声を得る
1968 『黒の過程』
1979 グレース他界、ジェリー・ウィルソンが伴侶に
1981 女性初のアカデミー・フランセーズの会員に選ばれる
1982(79歳) 世界を放浪する → 10月8日ー12月31日 日本
1986年 ウィルソンがHIVで他界
1987 (84歳) 脳出血でユルスナール他界
「ある夕方、姉が死んでまもなくのことだったが、わたしは、いつもにまして途方に暮れた気持でプレスブルグに帰った。姉を、わたしは心から愛していた。彼女が死んだことでじぶんが身も世もなく悲しんでいた、とまでいうつもりはない。感情が乱されるには、苦悩が激しすぎた。苦しみに吞みこまれると、わたしたちはじぶんのことしか考えなくなる。想い出というかたちで、同情することをそこから学ぶのは、ずっとあとの話だ。わたしは、じぶんで考えていたよりおそく戻ったのだが、何時に帰ると母に約束したわけではなかったから、母がわたしを待っていたということはない。ドアを押して部屋に入ったとき、母は暗いなかに座っていた。亡くなるすこしまえのころ、母はよく、もうすぐ夜になるという時間に、なにもしないでしずかにじっとしていることがよくあった。そんなとき、彼女は、無為の状態、あるいは闇、にじぶんを慣らそうとしているみたいにも見えた」
「若い心が旅にとり憑かれたよ��になるときは、たいていの場合、愛にとり憑かれたことが発端だ」 『ハドリアヌス帝の回想』
たましいの3つの段階 『神にいたる魂の旅程』ボナヴェントゥーラ
第一段階: 魂が神の愛のあたたかさに酔いしれ、身も心も弾むに任せて前進する
第二段階: 神を求める魂が手探りの状態でしか歩けない霊魂の闇
第三段階: まばゆい神との結合にいたって、忘我の恍惚に身をひたす
→ 歓喜への没入は漆黒の闇を通り抜けた魂だけに許される
* パリ陥落(1940年)について「ひとつの世界が終わったように思え、ふたりで泣いた」
ユダヤ人の友人ジャック・カヤロフに充てた手紙(1942年)「毎日の暮らしにはかなりうんざりしています。フランスからもギリシアからも、まったく便りがないので、わたしの絶望は大西洋の幅と深さにとどきそうです」
フランスの旧知に充てた手紙(1946年)「もう遠くなってしまったあのころ、まるで『箱船』みたいだったアメリカでわたしにとってなによりも怖かったのは、消えてしまった、沈んでしまった世界のうえを、もう二度と陸地に着けないのではないかと思いながら、漂い続けているような、あの感覚でした」
1924 (10歳) 父親に連れられヴィラ・アドリアーナの移籍をたずね、強烈な印象を受ける → ハドリアヌス帝のテーマにとりくむ → 1929年までの5年間作品の構想を数回にわたって書き直し、まとめようとするがどれも満足ゆくものではなかった
1926 『アンティノウス』と題された作品を出版社に送るが、出版の運びにはいたらず、原稿を全て焼き捨てた
1927 フロベールの書簡集に「神々はもはや無く、キリストは未だ出現せず、人間がひとりで立っていた、またとない時間が、キケロからマルクス・アウレリウスまで、存在していた」という文章を見つけ、感動し、その時代には人間が「ひとりで立っていたから、全てにつながっていた」と考え、ハドリアヌス帝を、この時代を負うものとして描こうと決める。だが、皇帝は彼女のなかで立ち上がらない。書けば書くほど細部ばかりが雑草のようにはびこって、ひとりの男が目で見、耳で聞いた世界を生きたものにすることができないでいた。
1934-37 再度いくつかの原稿をまとめてみるが、捨ててしまう
1937 知り合ったばかりのグレースにさそわれ、初めてアメリカに滞在したとき、イェール大学の図書館に通ってハドリアヌスをめぐる資料をつぶさに調べ、一気にかきあげる → 現在、定本の冒頭の数ページにあたる「彼が医者をたずねるくだり」。
フレイニョーへの不毛な愛。戦争。孤独な日々。「わたしとハドリアヌスを隔てている距離」「わたしを自分から引き離していた距離」を埋めるためには「必要だったあの霊魂の闇」
1949 ユダヤ人の友人がスイス、ローザンヌのホテルで彼女のトランクを見つけ、アメリカに送る → なかには銀食器と共にハドリアヌス帝につながる資料と、若いときに書いた原稿の断片「親愛なるわたしのマルク」がはいっていた
→ 「その夜、手もとに戻ってきたもののなかにあった、散逸した蔵書のなかの二冊をわたしは手にとった。一冊は、アンリ・エティエンヌ版の美しい『ディオン��カシカシオス』〔紀元二世紀から三世紀にかけて生きた歴史家〕と、『ヒストリア・アウグスタ』〔歴代皇帝伝〕の普及版が一巻、わたしがこの本〔ハドリアヌス帝の回想〕を書く計画をあたためていたころ求めたもので、二冊とも皇帝の生涯にかかわる中心的な資料だった。これを初めて読んだころからその夜までのあいだに世界とわたしが共に嘗めた辛酸が、とうに過ぎ去った時代の年譜に重みを添え、皇帝の生涯にも、むかしは存在しなかった陰影を彫りこんでいた。ずっと以前、わたしはこの皇帝のことを、おもに学識者、旅人、詩人、愛人として考えていたのだったが、これらの人物像のどれもが消滅することのないまま、そのなかに、はてしなく公的であると同時に、かぎりなく私的な皇帝のイメージが、いままでにない鮮明さをもって立ち上がるのを、わたしは感じた。世界の崩壊を生きぬいたことで、わたしは、君主についての重要な意味を教えられたのだった」
→ 二週間も経たないうちに書き始めるが、旅行も欠かさなかった。
「まるで地下の墓所に籠っているかのように、わたしは寝台車の個室から一歩も出ることなく、夜おそくまで書きつづけた。さらに翌日も、シカゴ駅の食堂で、一日中、吹雪で止まってしまった列車を待つあいだも。そしてまた明け方まで、サンタ・フェ鉄道の展望車で、ひとり、コロラドの黒くつらなる山巓と永劫を描き出す星空にみまもられて。〔冒頭の〕食物、愛欲、睡眠など、人間について皇帝が知っていたことを述べるくだりは、こうして一気に書かれた。あの日々、あの夜ほどに燃えさかった時間を、わたしは他に知らない」
1921 (18歳) 先祖の家系図を見て、『黒の過程』の想を得る
→ 構想が大きすぎるため、そのままの形で本にすることは断念せざるを得ず『デュラーふうに』『エル・グレコふうに』『レンブラントふうに』と画家の名のもとに3つの断片にまとめて1934年にいちどは上梓した。
ガリマール出版社の編集者で友人でもあったヤニック・ジルウがパリからかけつけて、彼女を見舞ったときの回想を、サヴィニョーが伝えている。 「私だとわかると、彼女は、あの彼女にしかない、わかやいだほほえみで私にほほえんでくれた。当時の容態をかんがえると、それはまさに胸をつかれるようなことだった。私が、彼女に、もちろんフランス語で、話しかけると、安堵の、ほとんど幸福の、表情がぱっと顔にひろがった」 ことばで生きるものにとって、それによって生かされていることばが、身のまわりに聞こえないところで死ぬのが、なによりも淋しいのではないかと、考えたことがある。
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須賀敦子の文章は、長い間暮らしたヨーロッパ、主にイタリアでの経験と、それに培われた教養がえもいわれぬ雰囲気を醸している。年令遅く開花した文章家、という要素も色濃い。
そんな人があるひとの(マルグリット・ユルスナールの)伝記を書くとこんな風になるのか。
マルグリット・ユルスナールというフランス人の作家が、須賀敦子にどうかかわってきたか。
なんと靴から始まる。しかも幼い頃の靴の思い出。いや靴ではない。人生の途上のある偶然の遭遇「そんなことも聞いたことがあった」というかすかな記憶が「マルグリット・ユルスナール」に繋がっていくのである。
しかもユルスナールが長年温めてきた思いによって起こされる『ハドリアアヌヌ帝の回想』という本にそってユルスナールの伝記が語られる。
ユルスナールが「ハドリアアヌヌ帝」について書こうとして、長い年月おいて置いたために「むかしは存在しなかった陰影を彫りこんで」いくまでの息詰まる時の流れをとらえる。
とともに須賀敦子の経験したヨーロッパでの思い出がからまり、ユルスナールの伝記か、須賀敦子の伝記か、はたまた『ハドリアアヌヌ帝の回想』の本について述べているのか、夢うつつのうちに読みおわるのである。
物事の陰影を見極めるには、才能もあろうが時の流れがいかに貴重なものか。だだうかうかと過ごしていては何にもならない。残らない。
私など、これは何度も読み直さなくてはならない本の一冊になった。