紙の本
場所が人々の記憶を呼び覚ます
2002/08/17 21:09
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:桃屋五郎左衛門 - この投稿者のレビュー一覧を見る
『地図のない旅』には二つのエッセーが収められていて、表題作はイタリアのユダヤ人たちの悲劇を、「ザッテレの河岸で」は、ヴェネツィアの娼婦たちの末路をそれぞれ主題としている。
何よりも心惹かれるのは流れるような記憶の連鎖のリズム。筆者のペンは、様々な場所や事物をめぐるひとつのひとつの記憶をひとりひとりの人物の記憶と結び合わせ、縒り合わせる。たとえば1943年のローマでのユダヤ人強制連行に関する本の思い出がローマのゲットの記憶につながり、それがユダヤ系の青年とその家族の思い出や、筆者にヴェネツィアのゲットを案内した看護婦の思い出を呼び起こし、ヴェネツィアの幾多の橋の記憶が『心中天の網島』の橋づくしと呼応して、道頓堀に住んでいた祖母の記憶を呼び覚ましていく。さまざまな「場所」の記憶とさまざまな生の断片の記憶。その生の記憶は充分な手ごたえと鮮やかさをもって描かれている。
本書でもっとも痛切で、しかも筆者の対象に向かうスタンスをよく表わしていると思われたのは次の一節。ローマのゲットのレストランで賑やかにふるまう人々を見ながら、ナチによって絶滅収容所に向かう列車に追い立てられていくユダヤ人たちへの思いを綴って、筆者は次のように書く。
「あの悲劇の主人公たちも、かつてはこの若者たちとおなじように満ち足りた愉しい時間を、人生のどこかで持っていたのだろうか。そう考えると、いくつかのせまい部屋にわかれたこのレストランの白い壁を爪で掘ってでも、あの日、ここで起こったことどもを、尋ねたかった。人間の歴史が生んだ、そして私たちがなんらかのかたちで自分のなかに抱えつづけている、無数の《パオロ四世》や《ヒットラー》たちのことを、ゲットの白い壁はだれよりもよく知っているはずだった」。
須賀敦子という人は、なにげない通りの一筋や建物のひとつひとつにも、そこに生き、暮らした(あるいはそこを訪れた)人間の記憶が封じ込められていることに深い思いを寄せる人だ。さらに、上の引用箇所で筆者は安易に自己を弱者に語ろうとはしない。つまり、絶対に自分は弱者の立場には立ち得ないことを自覚し、ただ人々の発する声に耳を澄ませようとするだけだ。そうした姿勢がこの美しい文章とこの筆者に対する信頼の拠りどころとなる。
紙の本
近いようで遠い水の町
2022/03/14 21:09
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:719h - この投稿者のレビュー一覧を見る
美文の書き手として知られる著者が、
ヴェネツィアのユダヤ人と娼婦について
綴った本です。
社会の日陰者とされた対象を、
客観と共感との釣り合いをとりながら、
澄み切った筆致で描き切っています。
加藤周一氏の伴侶だった矢島翠さんの
解説も読みどころ。
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彼女はガイドブックを読まない理由を
「知識の目で実物を見てしまうのが恐ろしいから」と記す。
自分の目と足で確かめながら「地図のない道」を進む。
自分が迷い焦るときに足元を確かめよと教えてくれる。
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はじめて読んだ須賀敦子の本だ。
基本的に静かで抑制のきいた調子でイタリアにまつわる経験が語られる。
抑制がきいていても、とっつきにくいところはなくて、端々に親しみやすさも感じる。
結婚後数年で亡くなった夫に関わるエピソードにおいては、抑制は少し弱まり、
混乱と悲哀の混じり合った未解決のかたまりを感じた。
イタリアについてほとんど知見がないために、一読では内容は頭にあまり残らなかったけれど、
須賀敦子という人物の一端に触れられた気がしている。
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著者の作品を読んでいると、
知らず知らずの内にタイムスリップし、
一緒にイタリアを歩いている気になる。
決して激しく感情的ではないのに、
それほど強く読む者をひきつける。
ユダヤ人の歴史を垣間見、5人連れの新婚旅行に同行。
そして著者と一緒に大阪とヴェネツィアを歩く。
沢山の橋を一緒に渡っていく中で、
著者の目に入ったものがイメージとして私に伝わり、
そこから繋がる自分の中の懐かしい記憶から新しいことを発見したりする。
最後の「ザッテレの河岸」で語られたイタリア高級娼婦のくだりは、読み終わったあとに意外性と共に必要以上細かな謎解きがないことへの安堵があった。
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イタリアに息づくユダヤ文化に触れている。
ヴェネツィアのゲットーなどが描かれているが、
トルチェッロのモザイクの教会のがいい。
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(2004.03.19読了)(2004.03.06購入)
須賀敦子の最後の作品集。2つの作品が収められている。「地図のない道」は、「新潮」に掲載したものを須賀さんが加筆・訂正中だった。「ザッテレの川岸で」は、とんぼの本「ヴェネツィア案内」に収められていたもの。
●地図のない道 第一話
ローマのユダヤ人地区の話から始まる。ローマの町をテヴェレ川が蛇行しながら流れている。「ローマの休日」を見た人は、然る国の姫と新聞記者がエージェントたちと格闘の末飛び込んだあの川といえばおわかりだろう。ローマの中心から見て対岸に当たるところをトラステヴェレ地区という。その一画にユダヤ人のゲットと呼ばれていたところがあるという。第2次大戦の話ではなく、始まりは、15,6世紀のことだという。出入りはキリスト教徒に監視させ、夜は外出禁止、昼は門を出るときは黄色い服を着ることが決められていたという。19世紀の初めまで続いた。1991年に須賀さんがローマに滞在中ユダヤ人地区に食事に行くのがはやっていたので友人と食べに行ったそうだ。
この後話は、コルシア書店に飛び、そこに出入りしていたマッテオとルチッラのユダヤ人夫婦の話になってしまう。でもキリスト教徒ということなので、ユダヤ教徒のことをユダヤ人というと聞いたことがあるので、そんなことあり?
さらに、ヴェネツィアのゲット見学の話になる。それぞれの話は心地よく引き込まれて読んでしまうのだが、どうして話が連想ゲームみたいになってしまうのかな?
それで、ゲット見学の話。友人に一度連れて行ってもらったのだが、その後何度訪れても、今、最後のツアーが出たばかりなんでまた明日来てくださいと門前払いを食ったとか。
●地図のない道 第二話
ヴェネツィアの橋の話。ゲンコツ橋に毎朝、野菜を積んだ船がやってくる。「春の朝、その辺を歩いていて、ほんのりと苦味の混ざった、さわやかな野菜の香りにいきなり襲われたことがある。思いがけない香りに包まれて、私は野生動物のように顔をあげ、空気に乗ってくるそのにおいを、ひくひく嗅ぎ分けようとしていた。これはもう旬がすぎかかっているチョウセンアザミ、これはまだ苗の大きさしかないバジリコ、あ、もう新しいたまねぎが出ている、というふうに。そして、それらの野菜を使って作る料理を頭に描きながら。」
料理を作る人の文章だね!僕は、嗅覚が弱いので、うらやましい限りの感覚だ。
ヴェネツィアの橋から、大阪の橋めぐりの話になる。そして、幼いころ祖母につれていってもらった四天王寺へ。
●ザッテレの川岸で
ヴェネツィアの水路の一つに、リオ・デリ・インクラビリというのがある。直る見込みのない人たちの水路。そう言う名前の病院があったので。どんな病気の人たちがこの病院で過ごしたのだろうか?これがテーマである。
フランスやイタリアでは、「病院は死にに行くところ」「病院に入れられたら、もうおしまい」という考え方が、船底にこびりつく頑固なフジツボみたいに、根強くはびこっている。ということです。
話が、コルティジャーネといわれる高級娼婦の話へと移ってゆき、どうなることかと思ったら、オスペダーレ・デリ・インクラビリ「直る見込みのない人た���の病院」は、梅毒にかかった娼婦たちを収容するための病院ということに結びついてゆく。ちょっとミステリー仕立ての構成といったところか?
もう一つのヴェネツィアを知りたい人にお勧めと言える一冊です。
☆須賀敦子さんの本(既読)
「ミラノ 霧の風景」須賀敦子著、白水Uブックス、1994.09.30
「コルシア書店の仲間たち」須賀敦子著、文芸春秋、1992.04.30
「ヴェネツィアの宿」須賀敦子著、文春文庫、1998.08.10
「トリエステの坂道」須賀敦子著、新潮文庫、1998.09.01
(「BOOK」データベースより)amazon
友人が贈ってくれた一冊の本に誘われて、私はヴェネツィアのゲットへ向かった。受難の歴史に思いを馳せ、運河に架けられた小さな橋を渡ると、大阪で過した幼年時代の記憶やミラノで共に生きた若い仲間たちの姿が甦る―。イタリアを愛し、書物を愛した著者が、水の都に深く刻まれた記憶の旅へと読者をいざなう表題作の他、ヴェネツィア娼婦の歴史をめぐる「ザッテレの河岸で」を併録。
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行きつけの書店で購入したエッセイ集。
作者の須賀敦子は長らくイタリアに滞在して、書店を営むイタリア人と結婚。夫を亡くしてからもイタリアにとどまり、日本でも教鞭をとった。
文章は、日本語として独特のリズムを持ち、決して読みづらくはないが、やはり不思議な感じがする。
取り上げる題材も、ユダヤ人の「ゲット」だったり、中世ヴェネチアでは不治の病だった梅毒についてなどだが、決して社会批評的な要素はなく、あくまでエッセイ。自らの関心を頼りにヴェネチアの各所を訪ね、知人を通して隠された歴史や風土などを、さらりと書いている。
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今まで須賀敦子さんを存じ上げなかったのですが、それが本当に悔やまれます。賢く人間としての深みを文章から感じ取れ、不思議とヴェネツィアを歩いている気持ちになります。自然に不思議と引き込まれていく。もし、まだ御存命であったならすぐにでも会いにいきたい!すばらしい作家さんです。
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読んでるというか、積読に近いんだけど。この人の文章は、たおやかで、良い意味で読むのに時間がかかる。丁寧に読み進めたい、というか。たぶん、ずっと手元に置いておくと思う。
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美文というのはこういう文章をいうのだな、と思う。
ヴェネツィアの街の、きらびやかな中心には背を向けて、須賀さんの視線は市井のひとびと、世の中から目を向けられずにひそやかにそこに生きてきたひとびとに向かう。
ゲトーのユダヤの移民たち、16世紀の貴族の中に生きたコルティジャーネと呼ばれる高級娼婦たちの最期。
須賀さんのファンであれば誰でも思うであろうように、これだけ小説に近い随筆を多く書きながら小説をひとつも書かずに逝ってしまった彼女の書くフィクションをも読んでみたかったという思いが私にもあったのだけれど、矢島翠さんのあとがきを読むと、なるほど須賀さんは物語を作り上げてしまうことを自制していたのではないかということに考えがおよぶ。
想像力が豊かで空想が拡がる彼女だからこそ、それを自制して「真実」を追求しなければというなにか義務感のようなものにつき動かされるようにしてヴェネツィアを歩く須賀さんの行動と、彼女が小説というものを最後まで書かなかったことが、それで説明がつくような気がする。
須賀さんの作品のレビューで書くのもおかしいけれど、矢島翠さんの文章もすごい。
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須賀さんの本初めて読んだ。好きな感じではあるけど、もうちょっと年取ってから読もうと思う。向田邦子さんの本が読みたくなる。
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須賀さんの文章はとても特別なところがあって、読めば読むほどその魅力?魔力の虜になってしまう。でももう新しい作品が書かれることはないので、大切に少しずつ読まねばならない。これは死の匂いの濃い一冊だった。
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須賀敦子さんの静謐な文体は、とても外国語の世界に長く暮らした人のものとは思えません。何にも流されない教養と洗練された審美眼を感じさせます。日本語が常に須賀敦子さんの文章のように美しいものであれば、私は外国語なんてひとつも学ばなくてよかったと思う。
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☆ミ 初めての須賀敦子さんの著作でした。とてもよく切れる包丁でお刺身を山葵醤油でいただいた...、そんな読後感でした。