紙の本
母親について書くことと、女性の生
2022/11/30 04:44
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投稿者:une femme - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者の母親が、一人の女性として、どんな生を送ったかを、描くことの難しさそのものを書きながら、綴っている。
その時代と、生まれた場所で、出来事や人に出会いながら、どんな違和感を抱え、また、何を隠して生きてきたのか、そういったことを辿りながら、女性の生について、考えさせられる。
また、ところどころに、その書き方の模索の過程が、記されていて、とても興味深い。自分との距離が近い人の人生を、言葉によって描くこと、そして、それが他者に読まれること(読まれるように書くこと)、また、書くことによって距離を縮め、真実に近付き得るかもしれないこと、などについて、著者と共に考えることが面白かった。
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「幸せではないが、もういい」は、作家の身に実際に起こった母親の自殺という出来事に起因して書かれたものであるらしい。本書でもそう語られている。そういう設定で何かの物語を描く方法もあるので(例えば、シュリンクの「帰省者」やヴェイエルガンスの「母の家で過ごした三日間」と同じような雰囲気がないと言えばうそになる)、少し警戒しながら読み始めたのだ。その内、これはどうも記録的作品であることが確実となってきて、もしかしたらフレムの「親の家を片づけながら」のような展開になっていくのか、とも思った。
しかし、ペーター・ハントケのこの本は、母親の死を自分がどのように受け止めたかについての直接的な記録ではない。もっぱら誰か不特定の他人に向って自分の母親がどのような人物であったか、どのような人生を過ごしてきたかを、淡々と語るのみである。
その語りの中に、息子であるハントケの個人的な感情が言葉としてはほとんど見当たらない。味も素っ気もない記述の体裁を取っている。しかしだからこそ返ってハントケが母親の死から如何に大きな衝撃を受け喪失感を感じているかが伝わってくる。息子としてハントケがどのような感情を母親に対して抱いていたのか、そういう感傷的な言葉も過去の描写においても現在においても語られることがないのではあるけれど。
読みようによってはハントケと母親の関係は微妙なものであり複雑な関係であったのだろうと想像することもできる。もっとも微妙で複雑ではない母親と息子の関係などないだろうけれども。そう想像すると(だがその前提は本質的には不要なものだが)母親の死によって何か胸につかえていたものが取れ、少しやましさを感じながらも安堵のようなものをハントケが感じたであろうことも透けて見えてくる。
そういう様々な感情の端っこさえ読む者に悟られないようにするかの如く、記述は律儀に過去から現在へと並べられるのみ。客観的と言ってもよい出来事の描写の羅列である。しかし語られる出来事と出来事の間にあったであろうと想像される出来事から、徐々にハントケの心情は見えてくる。それは例えば自分自身に対する記述の極端な欠落などに、反目する息子の視線が現れていると思う。そして母親の死の直前の出来事の描写に対する熱。それは感情的なものではないけれど、描写の速度は増し、語られる出来事はより詳細となる。その変化は母親への感情の思いがけない吐露とみることもできるように思う。
本書を読み進めるものは、語られることのない作家の気持ちへの傾斜を感じつつ、断片的に積み重ねられる母親の印象を自分の中で再構築することが許されるのみである。しかし、感傷的な言葉を一切排した記述によって、不思議と心温まるような感慨に包まれていることにも気付くだろう。作家の伝えたかった(だが本当に伝えたかったのか?)であろう母親の、あるいは母親という一般的なイメージは、その過程によって徐々に焦点が合い始め、血の通った立体的な像となる。そして恐らく、一人一人の心の中に結ばれたイメージは、それぞれの母親の面影をどこか宿したものになっているのに違いない。
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図書館でふと目がとまったタイトル。たまには文学でも…と読んでみた。
とにかく暗い…。悲観が悲劇を呼んでいるような。全く楽天的な方向から書くこともできそう。
たとえば
“家の中では、彼女は、≪お母さん≫だった。夫も、彼女の名前を言うよりもそう呼ぶことの方が多かった。彼女は甘んじてそれを受け入れていた。”
これを不幸と捉えると、もう人生不幸だらけかも。
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作者の母が自死した事実を元に執筆した私小説に限りなく近い物語
第二次世界対戦前後のオーストリア
初めて資産を所有した祖父
所有したという意思を持つことを知った祖父の話から始まる
この話は自分を所有するという意思を持つことを書いていると思った
個が蔑ろにされ全体に統合されカテゴリーに分別される
全体への連帯感、安心感だけで生きている時代
自主的思考は認められず虚無感が募る日々
欠乏を埋めるように愛を求める
その愛も手からこぼれ落ちた
日々を生きるのが惰性となる
もう一度自分を認識したのが書物をいう知識だった
しかし、自分を所有することと状況を受け入れることが相反し
矛盾がつのり埋められなくなる孤独
人が孤独を受け入れられないと生きてはいけない
孤独を受け入れることと絶望は同義だろうか
そうではない
受け入れがたい状況と絶望と孤独が彼女に命を絶つ力を
与えてしまったのか
言葉を積み重ねても解けない人間
母の自死は母に没入しても理解できないが、
母を考えることを辞めることはできない
母の孤独、絶望はなんだったのか
それを人間と置き換え読むことで読み手にも解けない
問を投げかける
母の死と作者の距離が読み手に考えさせる距離として絶妙だった
悲しみとはとても静かで二度と消えないそういうものかもしれない
私はとても複雑で単純な答えを導く人間を少しでも知るためにこの本をまためくるだろう
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[出典]
https://twitter.com/wtnbt/status/1182255975987761152
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019101001278&g=int
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ハントケ、ノーベル文学賞受賞。厭世的なタイトルのこの本に、こころ惹かれるという意見が散見されていた、ツイッター上で。 母親の自殺から始まり、そこから回想される彼女の人生について。あるひとりの女の一生。言葉は穏やかに闇の中へ失墜していく。