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「私」の秘密 哲学的自我論への誘い みんなのレビュー

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みんなのレビュー4件

みんなの評価4.8

評価内訳

  • 星 5 (2件)
  • 星 4 (1件)
  • 星 3 (0件)
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  • 星 1 (0件)

高い評価の役に立ったレビュー

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

2002/12/15 00:21

くどくど

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 中島さんは「私というあり方」一般をめぐる問題を、根源的自我や超越論的身体といった壮大なおとぎ話をもち出すのではなく、あくまでも日常的で健全な目線にそって具体的に思考した。「私」という言葉の日常的な使用法、とりわけ過去形の使用法に着目し哲学的に反省してみた。

 その結論は、「私とは、現在知覚しながら想起しつつあるという場面で、過去の体験を「私は……した」と語る者なのです」というものだった。しかも、ここでいう想起の対象は「無」であっても構わないのであって、「ここに私の秘密が隠されている」。本書の冒頭で早々と示されるこの「想起モデル」による説明で、すべては尽きている。あとは「くどくど」(あとがき)と同じことを反芻しているだけだ。

 強いて言えば、心身問題はじつは時間問題であるというお馴染みのテーゼに関連してクオリア問題を切って棄てたり(第三章)、他者が私より存在論的に「後に」成立するものであると規定したり(第七章)、さらには刑法総論の責任理論にことよせて「私の不在」を論じたり(第八章)、最後に「私の死」(消滅)がひらく「まったく新しい(私の)あり方」の可能性を論じたり(エピローグ)と、仔細に立ち入ってみればなかなかどうして多彩なのだが、基本的な「くどくど」性は拭えない。

 でもこの「くどくど」性こそが中島哲学の、いや哲学一般の秘密を握る要諦で、たとえば野矢茂樹さんが「語りきれぬものは、語り続けねばならない」(『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』)と書いているのも、哲学的リアリティのよってきたるところを端的に言い当てたものだと思う(ちなみに、野矢さんの『同一性・変化・時間』は中島さんの本書と鋭く接近している。ついでに書いておくと、新宮一成さんの『夢分析』は中島本とほとんどオーバーラップしていたように思う)。

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低い評価の役に立ったレビュー

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

2003/03/31 18:01

「私とは何か」という問いに、正面から解答を与えた書

投稿者:森岡正博 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 この本は、哲学の永遠のテーマである「私とは何か」という問いに対して、正面から解答を与えたものである。西洋の哲学者の受け売りではなく、自分自身のことばで考え抜かれている。これは、ほんとうの意味での哲学書だと言えるだろう。
 まず、「私」はどこにいるのかを考えてみる。「私」は脳の内部にいるのか。しかし、いくら自分の脳を解剖してみても、「私」はどこにも発見されない。私が見たり感じたりしているこの世界のなかには、「私」は存在していないのである。
 では、「私」はこの世界の外側に存在していて、この世界を遠くから見下ろしているのだろうか。そういうふうに考えた哲学者はたくさんいたが、では、世界の外側にいる「私」が、どうして世界の内側を見ることができるのかという難問が残ることになる。
 中島さんは、「時間」の秘密が分かれば、「私」のことも分かると言う。たとえば、自分が見たことや、したことを、即座に忘れてしまう人間がいたとする。その人間は、はたして「私」というものを持っているのだろうか。中島さんは、ノーと答える。そのような人間は、目の前を通り過ぎていく様々な光や、映像や、音などをただ次々と体験しているだけであり、それらを体験しているところの「私」というものは、この人の人生にはまったく登場しないのだ。
 そもそも人間の人生に「私」というものが登場するのは、自分のしたことを振り返って、「ああ、あのときに、自分はあんなことをしていたな」と思い出すときである。過去の自分を振り返るその瞬間に、振り返られた「過去」というものと、それを振り返っている「いま現在」というものを、一気につなぐ何ものかが立ち現われる。これが「私」なのだと中島さんは考える。過去を振り返ることを原点に置いた、新しい哲学である。中島さんの主張がほんとうに正しいのかどうか、議論が必要だ。

初出:信濃毎日新聞

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4 件中 1 件~ 4 件を表示

紙の本

くどくど

2002/12/15 00:21

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 中島さんは「私というあり方」一般をめぐる問題を、根源的自我や超越論的身体といった壮大なおとぎ話をもち出すのではなく、あくまでも日常的で健全な目線にそって具体的に思考した。「私」という言葉の日常的な使用法、とりわけ過去形の使用法に着目し哲学的に反省してみた。

 その結論は、「私とは、現在知覚しながら想起しつつあるという場面で、過去の体験を「私は……した」と語る者なのです」というものだった。しかも、ここでいう想起の対象は「無」であっても構わないのであって、「ここに私の秘密が隠されている」。本書の冒頭で早々と示されるこの「想起モデル」による説明で、すべては尽きている。あとは「くどくど」(あとがき)と同じことを反芻しているだけだ。

 強いて言えば、心身問題はじつは時間問題であるというお馴染みのテーゼに関連してクオリア問題を切って棄てたり(第三章)、他者が私より存在論的に「後に」成立するものであると規定したり(第七章)、さらには刑法総論の責任理論にことよせて「私の不在」を論じたり(第八章)、最後に「私の死」(消滅)がひらく「まったく新しい(私の)あり方」の可能性を論じたり(エピローグ)と、仔細に立ち入ってみればなかなかどうして多彩なのだが、基本的な「くどくど」性は拭えない。

 でもこの「くどくど」性こそが中島哲学の、いや哲学一般の秘密を握る要諦で、たとえば野矢茂樹さんが「語りきれぬものは、語り続けねばならない」(『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』)と書いているのも、哲学的リアリティのよってきたるところを端的に言い当てたものだと思う(ちなみに、野矢さんの『同一性・変化・時間』は中島さんの本書と鋭く接近している。ついでに書いておくと、新宮一成さんの『夢分析』は中島本とほとんどオーバーラップしていたように思う)。

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紙の本

「私とは何か」という問いに、正面から解答を与えた書

2003/03/31 18:01

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:森岡正博 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 この本は、哲学の永遠のテーマである「私とは何か」という問いに対して、正面から解答を与えたものである。西洋の哲学者の受け売りではなく、自分自身のことばで考え抜かれている。これは、ほんとうの意味での哲学書だと言えるだろう。
 まず、「私」はどこにいるのかを考えてみる。「私」は脳の内部にいるのか。しかし、いくら自分の脳を解剖してみても、「私」はどこにも発見されない。私が見たり感じたりしているこの世界のなかには、「私」は存在していないのである。
 では、「私」はこの世界の外側に存在していて、この世界を遠くから見下ろしているのだろうか。そういうふうに考えた哲学者はたくさんいたが、では、世界の外側にいる「私」が、どうして世界の内側を見ることができるのかという難問が残ることになる。
 中島さんは、「時間」の秘密が分かれば、「私」のことも分かると言う。たとえば、自分が見たことや、したことを、即座に忘れてしまう人間がいたとする。その人間は、はたして「私」というものを持っているのだろうか。中島さんは、ノーと答える。そのような人間は、目の前を通り過ぎていく様々な光や、映像や、音などをただ次々と体験しているだけであり、それらを体験しているところの「私」というものは、この人の人生にはまったく登場しないのだ。
 そもそも人間の人生に「私」というものが登場するのは、自分のしたことを振り返って、「ああ、あのときに、自分はあんなことをしていたな」と思い出すときである。過去の自分を振り返るその瞬間に、振り返られた「過去」というものと、それを振り返っている「いま現在」というものを、一気につなぐ何ものかが立ち現われる。これが「私」なのだと中島さんは考える。過去を振り返ることを原点に置いた、新しい哲学である。中島さんの主張がほんとうに正しいのかどうか、議論が必要だ。

初出:信濃毎日新聞

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2010/07/14 19:00

投稿元:ブクログ

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2019/07/09 18:15

投稿元:ブクログ

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