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この、一見すると博物誌のようなカバーの本の中にはね、どこか古典的な香りの、自然への畏怖の念がこめられた話が一杯あるんだよ
2003/07/28 20:51
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
ともかくクレストブックというだけで、ある程度、内容がイメージできるっていうんだから、このシリーズの力は凄い。今回のカバーイラストはF.M.Regenfusという人の、1758年の本からとったものらしい。マークから察するに、ロンドンの自然史博物館が著作権を持っているようだ。いかにも荒俣宏が喜びそうな博物誌の貝の絵が一杯で、人によってはそういう内容の本を思うかもしれない。たしかに話は、幻想的なものもあるし、古い物語ふうなところもある。そういう意味では、オーソドックスな作品ばかりで、O・ヘンリー賞受賞というのも肯ける。そんな受賞作を含む短編集。「怪物級のみごとなデビュー」というキャッチは効いている。
孤島で世を捨ててひっそりと犬のツマイニーと貝を集めて過ごす盲目の老貝類学者。彼のところに迷い込んだ女性ナンシーが、イモガイに刺された「貝を集める人」。ハンターが妻となる少女に出会ったのは1972年。彼女の名前はメアリ・ロバーツ、奇術師の助手をしていた。彼女を追いかけてやっと結婚、やっと一緒に暮らし始めたが「ハンターの妻」。14歳のドロテアは、父親が船の設計のために独立するということで、海辺に引っ越した。海で出会った少年が教えてくれた釣りの世界「たくさんのチャンス」。高校のバレー部で活躍したグリセルダは、身体も大きいことからいろいろ噂が絶えない。妹のローズマリーと出かけたショウで見かけた金属を食べる男に魅かれて「長いあいだ、これはグリセルダの物語だった」。
アメリカの引退した実業家たちとイギリス人たちの釣りの腕比べ談義がこじれて「七月四日」。内戦で母を失い自らも人を殺すことになったジョゼフは、難民としてアメリカで過ごし始める。運良く、バブル長者の家で働くことが出来たが「世話係」。家庭を顧みることもなく釣りに明け暮れるマリガン。静かに釣り糸を垂れる彼の前に現れた二人の男女「もつれた糸」。タンザニアで先史時代の鳥の化石を探すことになったワードは、そこでトラックの横を走り抜ける女を見る。30分以上も車の前を走り続ける女の名前はナイーマ。彼女とのアメリカでの暮らし「ムコンド」。これに謝辞と訳者の岩本正恵のあとがきがつく。
どの小説に溢れるのも、訳者の岩本がいうように自然への、人間への畏怖である。どの話も、超自然的な部分があって、とくに「ハンターの妻」におけるsipritualなものとの交感、あるいは「ムコンド」のアフリカ生れの女性が都会の中で孤立しながら自然との交流を求め続ける姿は、読むものを圧倒する。ちなみに「ハンターの妻」は2002年のO・ヘンリー賞受賞作。
これがデビュー作というのだから、たしかに凄い。で、カバーの後ろについている著者紹介を見ると、1973年生まれ。現在も学生のようだ。ただし写真映りは決してよくない。どうみても10歳くらいは老けて見える。そして、この作品に見えるのも、瑞々しさではなく圧倒的な文学的完成度の高さである。
クレストブックには他にもゼイディー・スミス『ホワイト・ティース』のように、20代の作家が書いた恐るべき傑作がある。たしかにこの叢書、対象とするのが世界の文学、選りすぐりの作品ばかりが翻訳されるのだろうが、甘さを売りものにするのではなく、ただただ文学の王道を歩む彼らを見ると、彼我の差に圧倒される。この人の長編は、もしかするとポール・オースターの『ミスター・ヴァーティゴ』みたいな味がするのかもしれない。
「神話の英雄のような主人公とその叙事詩的な旅を描く」という、小説家E・ギルバートの分析が的確。野性を解き放つことで自然に溶け込む登場人物たちの幻想味に誘惑されて…。
2003/07/31 20:35
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
何年か前、同じゼミで学んだ仲間たちと集ったとき、学生来のテーマ「組織と人間」について話した延長で「自然環境」という言葉が出てきた。温暖化やゴミ問題という定番問題を話すとき、誰もがという図式を思い浮かべる。
「でも他者というのは、私という人間にとっては自然環境なんだよね」とつぶやくと、議論好きの同輩たちが嬉しそうに喰らいついてくれた。
未知の作家の作品に触れるとき、訳者あとがきに盛られる情報は本当に有難い。訳者として知り得た作家の創作過程のことや文体の癖、そのため工夫した翻訳作業などについては大いに書いてほしい。だが、個人的な「読み」や感想について書かれるところが多いと、それは読者の領分なのだから…と言いたくなってしまう。
「すべてに共通しているのは、自然への畏怖の念です。自然には人間の理性がおよばない巨大な力と美しさがあり、そのなかでは人間は小さく無力な存在でしかない
という認識が全体を貫いています」
自然への畏怖が描写されている部分も確かにある。しかし、それが果たして全篇に共通するものなのだろうか。
O・ヘンリー賞受賞の「ハンターの妻」、そして掉尾を飾る「ムコンド」という
見事な作品の登場人物について「みずからの存在を自然に溶けこませることで特異な能力を高めていきます」という解説が加えられている。そう、むしろ、自然との境界を意識することなく、導かれるように行動する2つの作品のヒロインたちの姿勢が、この優れた作家の自然観に近いように私には思える。
体に触れることで、死に行くものが最後に見る夢を共有することができる女性も、ぎりぎりの線から更に一歩踏み出すことで自然の神聖について知り得た女性も、神話のように幻想的に、生けるものや死すものと交感する。
釣りと旅、海外体験の豊富さに裏付けられた諸作からは、一級の科学者や詩人のような観察力、物を感じ取る能力の非凡さが伺い知れる。美しい蝶を眺めるときの視覚、闇夜で獣たちの声を耳にするときの聴覚、波に現れた砂を手に取るときの触覚など。感覚に集中するとき、私たちは自分の肉体の線が周囲に取り込まれ消えてしまったかのような錯覚に陥る。間違いなく自分も獣で、自然に対峙する者ではあり得ず、自然を構成する一部に過ぎないのだと思えるときがある。この作家はおそらく始終そういう体験を重ねている人で、もう肉体の線は半透明になりかかっているのかもしれない。凡人では見えないものを、南方熊楠のように見ている人だ。
O・ヘンリー賞というと、たまたま最近出合えたトム・フランクリンの『密猟者たち』、そして『フラナリー・オコナー全短篇』を思い出す。閉鎖的空間で静かに狂い行く南部のゴシック味ある小説家たちだ。本書の作家ドーアも、南海の孤島でひとり暮らす盲目の貝類学者、雪深い山奥の小屋に閉じ込められたハンターの夫妻、内乱で国を追われ冬場の菜園の管理をひとり任された男性…など、設定は極めてゴシック的なのである。しかし、彼らは誰も狂わない。
自然と一体だという実感こそが、彼らの閉鎖的生活に光を残す。この作家はきっと、年齢に影響されることなく、その根本的な価値観を大切にして良き作品を紡ぎづけていくことだろう。