紙の本
まっとうに生きてきた者にはいつの日か幸運な偶然が訪れるのだろうか
2004/03/22 21:58
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投稿者:yama-a - この投稿者のレビュー一覧を見る
困った。書こうと思っていたことが柴田元幸による訳者あとがきの1行目に書いてある。
「事実は小説より奇なり」──ドがつくほどありきたりなこの言葉、手垢にまみれたこの常套句はできればあまり使いたい類のものではない。しかし、柴田元幸もまた訳者あとがきをこの言葉から始めている。そう、これはそういう物語なのである。
柴田は言う──「ふつう我々はこの格言を、いわば時おりの真実と受けとめているにすぎない。つまり、たいていは小説のなかで起きる出来事の方が奇妙なのだが、時には事実も小説ばりに、あるいはそれ以上に奇妙なこともあるのだ、といった具合に」と。僕は思う──我々は実は事実は小説ほど奇ならざることをよく知っている。たまに小説と同じくらいに、あるいはまれにそれ以上に奇なる出来事に出くわすと、感極まってこの格言を引き合いに出すのだ、と。
ここにはオースターの自伝だけではなく他人から聞いた話も含まれているのだが、確かによくもまあこんな偶然があるものだというストーリーが立て続けに語られている。そして読み進むほどに、「実はこれはすべて本当の話だと見せかけた小説なのではないか」と訝しくなってくる。さすがに柴田はそういうレベルの低いことは書いてなくて、オースターの背後には「世界は我々の予測を裏切りつづける。世界に定まった意味はない」という世界観があるのだと解説している。
特に面白いのは「その日暮らし」(Hand to Mouth) だ。売れない頃のオースター赤貧の自伝なのだが、作家として日の目を見ない、金に困っているというだけで、どうしてこんなに手に汗握るほどのスリリングなストーリーができ上がるのか不思議でならない。いちかばちかで自分が考案したアクション・ベースボールというカードゲームをゲーム会社に売り込みに行き、にべもなく断られたのにその後も自棄になって売り込みを続けるエピソードには本当にハラハラさせられた。表題になっている (from) hand to mouth という熟語は「その日暮らし」と訳されるのが常套だが、英語の逐語訳「手から口へ」のほうが如何にも切実である。金がなくて家賃が払えない、それどころかその日に食べるものもないというお話なのに妙に悲壮感がないのはオースターの筆力なのか人柄なのか。
そんなオースターが功なり名遂げた後の時代の文章では、自分は今暖かい持ち家に住んでいるが段ボール箱のなかに入って精一杯暖をとろうとしている自分を思い浮かべてほしい、みたいなことを書いている。「貧しい者は怪物ではない」「不運はいつでも、誰にでも訪れうる」と書いている。あまりにまっとうすぎてぐうの音も出ない。
僕は思った。──まっとうに生きてきた者にはいつの日か幸運な偶然が訪れるのだろうか、と。
僕がこの本の中で特に気に入った会話がある。オースターが働いていた稀覯本屋にジョン・レノンが訪れた時の2人のやり取りである。
「ハイ」と彼は片手をつき出しながら言った。「僕はジョン」
「ハイ」と私はその手を握って大きく振りながら言った。「僕はポール」
ジョンもポールもありふれた名前なので、僕みたいに喜ぶのは馬鹿げた話かもしれない。しかし、このさらりと書かれた1シーンもささやかな偶然の面白さを物語っている。ひょっとすると偶然は誰にでも見つけられるのかもしれない。
by yama-a 賢い言葉のWeb
紙の本
予定調和的な天才作家の誕生
2004/03/02 02:43
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投稿者:ヲナキ - この投稿者のレビュー一覧を見る
てっきり柴田さんは“The Book of Illusions”の翻訳に専心されているのかと思いきや、先日不意にエッセイ集が出版されて、ボクにとっては晴天の霹靂だった。しかも『トゥルー・ストーリーズ』なんてタイトル聞いたこともないぞと書店の店頭で頁を繰ってようやく腑に落ちた。どうやら英語圏で刊行されていた“Hand to Mouth”、“The Red Notebook”に収録の作品を中心に、オースター自らが編纂した日本限定バージョンのエッセイ集のようなのだ! オースタリアン(造語)なら即買いしないわけにはいかないでしょう。さっそくその日の晩のうちに平らげてしまいました。たいへんおいしゅうございました。
せっかちなファンのなかには、前述の二作を読了済みの方も多いかもしれない。今さら邦訳なんて、と思われている御仁に対しては声を大きくしてノンと言いたい。誤訳混じりの逐語訳(笑)で原文にあたるのとは違う、astonishingな柴田訳の妙味をじっくりご堪能いただきたい。
この自伝的作品集は、エッセイの体裁をとってはいるが、中長編小説のひな形として書き綴った備忘録としても、極上のショートショートとしても読める作品群である。小品ながらも、オースターワールドのエッセンスがぎっしりと凝縮されていて、作家の原点を窺い知ることができる。しばしば小説中に立ち現れる、ウロボロスの蛇のごとく噛み合うあの二つのファクターがいかにオースターの思想に影響を与えてきたか、その背景が見えてくる。
<偶然>と<カネ>である。
フィクションの設定においてはご都合主義的な胡散臭い印象を読者に与えかねない<偶然>という要素を敢えて自分のスタイルに持ち込むのは、まさに不思議な個人的体験の数々に根差したものであり、「世界の仕掛けるいたずら」に心底魅了されているからだろう。それを何篇ものエッセイが物語っている。
また、『その日暮らし』というペーソスあふれる赤貧エピソード満載の長篇エッセイからは、あまたの職業経験のなかで彼が<カネ>との絶妙な距離感を獲得していくさまを伺うことができる。コロンビア大学在籍時のアルバイトに始まり、エッソ石油タンカーの乗組員、フランスにおける翻訳業や山荘管理、そして不遇の文筆業時代に至るまで、世の底辺まで降りて貧乏と真正面から向き合ってきたオースター青年の人間臭い営為は、紛うかたなく後に小説の糧となっている。
本文中で、昔のバイト仲間を「己の運を自分で創り出す人間」と回顧するくだりがあるが、本書を読み終えた読者なら、この作家こそがまさにその評に相応しい人物であることを再認するはずだ。ただ、あまりにできすぎた偶然を幾度も見聞してしまうオースターは、運云々というよりも神に愛されているとしか思えない。彼が地上で帯びた使命はまさしく<書く>ことにほかならないと確信させる、驚きや機智に満ちた逸話ばかりである。
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不可解で嘘のような本当の話が連綿と続き、それは一つの自伝となる。「その日暮らし」だった頃や、悲しみ、静かな怒りを綴ったエッセイもあり、オースター氏をより一層知ることができたと思う。最低もう一度、読むつもりでいる。
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真実は小説よりも奇なり、を地でいくヒトだなあと思った。入院中に暇だからて読んだんだけど1日で読み終えてしまって非常に不経済な本(´ー`)
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オースターらしいオースター自身の話だ。確かにこんなことは偶然でも起きないよ、ということは現実の世界でまま起きることだ。それにしてもオースターの人生というのは苦しくも楽しいものなんだな、と思う。
彼の書く小説もまた偶然の重なりが思わぬ展開を呼ぶ、というおよそ小説家が避けるような設定をしている。なぜ彼がそういう物語を書くようになったかが判ったような気持ちになれる。偶然というのは恐ろしい力があって、必然なんてどうでもよくなってしまう。
考えてみれば偶然の結果人生は動く。私が転職したのだって、もちろんそういうタイミングだった、という必然の部分はあるが、それを実際に動かしたのは会社のお荷物だった人間が私の上司というポジションに来たからだ。それなりにいい仕事を当時の私はしていたと思うが、だからと言ってそんなお荷物に業績を付けてあげる役なんて真っ平だった。おかげで一気に転職が具体的なものになった。そういうものなのかもしれない。偶然には力があるのだ。
2000年前後までの彼のエッセイをまとめた本なのだが、気になるのはその後、今日までの1、2年間の世界の動きに彼は何を感じ、どんな文章を発表しているのか、だ。もちろん新しい小説も読みたいのだけれど。
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小説家とは人と違う体験をした人がなれるものだと思っていたが、まさにそんな体験をした作家の自伝エッセイ。やさしくて熱い文章。
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ポール・オースターのエッセイ集です
前に「リヴァイアサン」を読んだ事があって、主人公とサックスの関係に萌えました。
この本も萌え要素あり。笑
P130の展開がすごく切なくて好きだー。
およそ現実では絶対にお目にかかれないであろう、偶然的なエピソードが次から次へと出てきます。
こういう事を小説で書くと「ご都合主義」とか「リアルじゃない」とか云われてしまいそうだけど、現実って考えもつかない事が普通に起きてしまうもんだよなー、と思いました。
そういう偶然を排除してしまうと逆にリアルじゃなくなるよね。多分。
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今日、2004年8月22日は高校野球に興味を持つものならきっと後々思い出しては、あの時は、と語りたくなる日になるだろう。第86回を迎えた夏の全国高校野球大会決勝戦。南北海道代表の駒大苫小牧高が、遂に優勝旗を北海道にもたらした。それにしても、その試合は熾烈を極めたものだった。こういう場に立ち会うと、歴史というのはこのようにして鳴り物入りで登場し残っていくのだなという思いが強くなる。しかし、ちょっと待て。果たして本当にそうだろうか。全ての歴史は鳴り物入りで登場するのだろうか。
ポール・オースターの小説を読んでいて、その話の中にいつも作家自らの影がちらついているなと思うのは、恐らく自分だけではないだろう。しかし、それは飽くまで比喩である。登場人物の性格や物事を描写する視線などにオースター自身の考え方が色濃く現れているのだろうし、あちらこちらに、オースターと関係のありそうな名前が登場したりすることは気付いていたけれど、まさかこれ程までに小さな「トゥルー・ストーリーズ」が埋め込まれていたとは思いもよらなかった。「事実は小説より奇なり」とは言うけれど、現代において現実は、少なくとも表面上はどんどんと平坦化あるいは標準化されているように、思う。だから逆に「小説の方が事実よりも奇」であることを求める気持ちも強くなる。もちろん、好みの問題ではあるけれど、例えば川上弘美の自由な想像を好む者として、同じようにポール・オースターは、聞いたこともないようなちょっと素っ頓狂な世界を描いてみせることが得意な作家としてお気に入りのリストに鎮座しているのだ。そんなオースターが描くのは、不思議な縁(えにし)の物語である。一見ご都合主義と受け止められないこともない程に個々人の歴史は交錯し収束する。物語の其処彼処にちりばめられた伏線は、見事なまでにもつれ合い互いに響き合い、物語の前面へと浮上する。エピソードとエピソードを繋げるその鮮やかな手法が、自分にとってのオースターの真骨頂であり、しかも興奮したところのない語り手の視線とあいまって、ついつい彼の本を手に取らせる原動力となっている。
しかし、この「トゥルー・ストーリーズ」を読んで本当にたまげた。えっ、この話もあの話も本当にあったことだったの? 「シティ・オブ・グラス」も「ムーンパレス」も「偶然の音楽」も「ミスター・ヴァーティゴ」も「鍵のかかった部屋」も。まったく嘘みたいな話だ。そして、出合う人々に50ドル札を配って歩く老人の話とか、タンカーの船員になった話とか、鳴り物入りで記憶しておかなければならないエピソードが本当にあった話だったら自分も小説を書くよね、とも少しだけ思う。もちろん、そんな断片的なエピソードだけで小説が書ける訳じゃないけれど、どれもすごい話じゃないの。いつかこの話について書きたいなと思っても不思議じゃない。でもオースターの凄いところは、そういうエピソードを磁石で引きつけるような力があるところで、その力っていうのが、ものを書く人になるという信念から来ているっていうところだ。
そう、冷静に自分になくてオースターにあるものを分析して納得すると、そもそもオースターがそういうエピソードを抜かりなく観察していることに気付く。今ここで起こっていることは、そうそうあの時にあれにつながっているんじゃないか、と感づく嗅覚というようなものをオースターは間違いなく持っている。歴史は常に生まれる。それを個人として、見届け、記憶し、再び思い出す。その過程において事実は残り、そして往々にして人々の思いは消えていく。掘り起こされた事実から人は推測するしかなくなる筈だが、その思いをできる限り風化させないでいようとする意思。その意思の強さをオースターは持っているのに違いない。
例えば、自分の回りにそういうエピソードはなかっただろうか。そういえば、一つだけ思い浮かぶ話がある。小学校の低学年の頃、父親の田舎に行って叔父さんの家に泊まった時のことを思い出した。それは夏休みだった。
お盆の帰省なんて大概の子供には面白くもないものだけれど、父親は末っ子で、いとこ達も大人ばかりで遊び相手にならない。自分と妹は結構暇を持て余していたのだと思う。そんなある日叔父さんが、花火でもやるか、というので自分は父親と一緒に花火を買いに出掛けたのだ。それは近くの駄菓子屋のような店だったと思う。父親は結構花火が好きな大人だった。もちろん、花火選びは自分でする。まあ駄菓子屋だったので自分も退屈することはなかったのだ。そんな風に狭い店の中をぶらぶらしている内に、父親は清算を始めた。お店の人が台の上に茶色の紙袋を置いているのを見て、自分はこれが買った花火だな、と何の疑いもなく思った。そして父親がお店の人にお金を渡しているので自分はその袋を手に取ったのだ。叔父さんの家に戻ると、なんと父親も同じような紙袋を抱えている。えっ、と思って自分の持っている紙袋の中身を見ると確かに花火が入っている。まもなく、それをどうしたのか、と父親が詰問してきた。さっきのお店から持って来た、というと、買ったのはこっちの袋だと言う。早く帰して来い、ということになって騒いでいる内に、まずはお店に電話を掛けようということになった。叔母さんが電話を掛けると、お店の人は袋を持っていったのを見ていました、と言ったという。こっちに万引きするつもりはなかったのだが、後ろめたい気持ちになっていると、だから帰してもらわなくて結構だ、とお店の人が言ったと、叔母さんは続けた。じゃあこっちの袋の花火のお金も払うことにしたのか、と勝手に合点していると、実はその袋は叔父さんがその日の朝に注文しておいたものだという。父親の顔を見て叔父さんの兄弟だと判断したお店の人は、その子供が叔父さんの分の花火を持っていくのを見て、てっきり頼まれて取りに来たのだと思ったらしい。という訳で、大笑いとなったのだが、世の中って狭いものだなとその時しみじみ思った記憶がある。
鳴り物入りのエピソードという訳じゃない。けれど、幼い自分にとってはとても不思議な感じのした出来事だった。もっとも、このエピソードだって、狭い田舎の中での出来事だから、冷静に考えてあり得ない話じゃないな、と受け止めることも可能だろう。恐らく、それが普段自分が生活している場所で起こったことでは無かったので特別記憶に残ったのだとも言える。逆に言えば、もっと普段の生活の中で注意深く色々なことを記憶していたら、オースターのように不���議な縁に出会うこともあったのではないだろうか。多分あったのだろうけれど、気付かずに通り過ぎて来てしまったのだ。
人は作家になるのではない、作家に生まれるのだ、と言ったのは誰だったか。確かにオースターは作家になるべくして生まれて来たような人だな、と今さらながらに思い、自分がそうではない、ということもまた深く再確認してしまうのだった。
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こんな人生を送ってきたらあんな極貧生活小説を書くのも分かるなあといった感じ。ビジネスライクなアメリカ人を初めて感じた本。社会が冷たくても日本人よりは誰もかれも自由に生きてる。素直に面白かった。
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09年7月20日開始
09年8月9日読了
長文のエッセイ集。オースターの作家になるまでの経歴・経験が描かれてる。
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なんて読みごたえあるエッセイ集!Is it TRUE?と聞きたくなる、事実とは思えない偶然の出来事の数々。作風に納得、そして見事に昇華させてくれて感謝。『ムーン・パレス』や『リヴァイアサン』面白かったもんなあ!
それにしても全体から感じるのはポール・オースターはアメリカ人でなくニューヨーク人だってこと。
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本当のような嘘のような本当の話。人が生きることは不思議な縁とか運命とかいうものに随分彩られてるんだなあ、とつくづく感じた。
流麗な文章だと思う。
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真っ先に「事実は小説より奇なり」のフレーズが浮かんだ。
我々が思うより遥か、世界は奇跡で一杯。思わず息飲むものから、ペーソス溢れるもの迄、今日もどこかで神様が悪戯。
中盤挿話されてる「その日ぐらし」は少し息が詰まったから、星一つ減。
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「ほかに何を学ばなかったとしても、長い年月のなかで私もこれだけは学んだ。すなわち、ポケットに鉛筆があるなら、いつの日かそれを使いたい気持ちに駆られる可能性は大いにある。自分の子どもたちに好んで語るとおり、そうやって私は作家になったのである。 」
八歳のころ、大リーグの試合に連れていってもらい、球場出口でウィリー・メイズにあった。サインを頼むと彼は「坊や鉛筆は持っているか?」と訊いた。持っていなかった。家族の誰も持っていなかった。「鉛筆がなくちゃサインしてやれんよ」と彼は球場を後にしたのだった。「その夜以来、私はどこへ行くにも鉛筆を持ち歩くようになった」と作家は書いている。二度と同じ目に遭いたくなかったからだ。冒頭の引用はそれに続く結びの文である。なるほど。
愛読者なら、言わずと知れたことだが、オースターの作品には通常では考えられないほどの偶然が登場する。こうまで偶然が支配したら、いくらフィクションにしても話が嘘っぽくなる。普通の作家なら、そう考えてしまうところを、これでもかというくらいに偶然の出会いを連続使用する。「嘘のような本当の話」は現実に溢れているのに、「偶然の一致」を安手の仕掛けとして小説から排除してきた動きをオースターは批判する。
たしかに、現実を注意深く観察していると、シンクロニシティを実感することがある。たとえば、一定期間集中して、ある作者の本ばかりを追うことがある。寝ても覚めても一人の作者ばかりを追いかけていると、ふと立ち寄った古本屋で、いくら探しても見つからなかった、その作者の本が書棚に並んでいるのを発見することがある。
どうやらオースターの周りには、そんな話が集まってくるようだ。『トゥルー・ストーリーズ』は日本で編まれたエッセイ集である。内容は数章に分かれているが、そのうちの「赤いノートブック」と、「なぜ書くか」、「スイングしなけりゃ意味がない」、「事故報告」の四つが、その名の通り「嘘のような本当の話」を集めたエッセイ集になっている。
作家の自伝風エッセイというかたちで書かれた「その日暮らし」は、作家オースターというものがどのようにして成立したのかを本人の声で聞けるという、ファンにとってこれ以上はないほどの贈り物である。これまでに書かれた小説の中で何度も使われてきたばらばらのピース状であった挿話が、しかるべき位置に収まり、完成した一枚の絵のように浮かび上がってくる。どのエピソードがどの小説に使われたかを判別できる楽しみが用意されているわけだ。
「貧乏話をさせればオースターはいつだって最高だ」と、訳者もあとがきで書いているが、金銭の欠乏が理由で、食うに困る状態まで追いつめられる主人公には何度も会ってきた。どうしてそこまで自分を追い込むのだろうと思いながら読んできたが、次のような打ち明け話を聞かされると、やっぱりそうだったのか、と妙に納得してしまうのである。
「私の問題は、二重生活を送る気がないということだった。働くなんて嫌だ、というのではない。けれども、九時五時の職について毎日タイムカードをパンチすると思うと全然やる気が出ず、何の熱意も湧いてこな��った。二十代前半当時、身を落着けるにはまだ若いと私は思っていたし、やりたいことはたくさんあるのだから、欲しくもなく必要でもない金を稼ぐなんて時間の無駄だと思っていた。金銭に関しては、とにかく食べていければそれでよかったのだ。」
金がたまると船に乗って旧大陸を渡り歩いたようだ。若いオースターがジョイスの跡を追いながら、ダブリンの街を逍遥する姿はそのまま小説のようだ。様々な職についているが、そこで出会った著名人の逸話が読ませる。稀覯本商のところでカタログ作りを手伝っていたとき、ジョン・レノンがやってきて、「ハイ」と片手をつき出しながら「僕はジョン」と言ったのに、その手を握り返しながら「僕はポール」と名乗ったところなんか、まさに「嘘のような本当の話」である。
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何かを学ぼうとせずにする読書を(マンガ・映画はべつとして)し忘れて長くなってしまったときのリハビリに。