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紙の本
幻想とユーモア
2006/02/14 00:19
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Leon - この投稿者のレビュー一覧を見る
多数の作品に幻想性とユーモアが溢れている。
前者に関してはこれまでも散発的に紹介されてきたし、後者については「魔法の国の旅人」(早川文庫)でジョーキンズ氏の壮大な法螺話に触れることが出来るが、一見すると同じ作家の作品のようには見えないのではないだろうか。
しかし、本書に収録されている一連の作品を続けて読むと、幻想性とユーモアの両面は、ダンセイニの中に相反することなく存在していたことが判る。
また、彼が生み出した作品は、後の作家達に大なり小なり影響が見られる場合があるが、「宝石屋サンゴブリンド、並びに彼を見舞った凶運にまつわる悲惨な物語」の主人公サンゴブリンドは、彼を現代小説風のキャラクターとして考えると、一つの作品が自然と想起される。
「宝石屋」とは言うものの、サンゴブリンドが商うのは盗品であり、売り物は自ら調達している。
つまりは盗賊である。
彼の元に新たに舞い込んだのは「マウン・ガセ・リンの神殿におわす蜘蛛神像フロ・フロの膝に載っているダイア」の入手。
サンゴブリンドは陳列台の下から愛剣<鼠>を取り出し、一人夜の闇に紛れて神殿へ向かう・・・
フリッツ・ライバーの「ファファード&グレイマウザー」を読んだことのある人ならばサンゴブリンドの愛剣<鼠>や蜘蛛神像との戦いの場面に既視感めいたものを覚えずにはいられないだろう。
ライバーはキャラクターだけではなく、異世界ネーウォンを創造するにあたって「異教の神々」についてもダンセイニから影響を受けたようだ。
本書に収録された「チュー・ブとシューミッシュ」という卑小な神々同士の喧嘩騒動は、「瓶のイセク」という、その卑小さにおいては他に類を見ないライバーの創作神のベースになっているように思えるし、更に言えば、ダンセイニからの直接的なものなかライバーからの間接的なものなのかは不明ながら、テリー・プラチェットの「ディスクワールド」に登場する亀の姿形となった神「オム」にも同じようなユーモアが見て取れる。
なるほど、ことユーモアという点においては現代においてもダンセイニに引けを取らない作家・作品があるようだが、幻想性という点に関してはダンセイニを越えるものはなかなか見当たらない。
特異な世界を読者に馴染ませるために多くの文章を必要とするというのは、他ジャンルよりも長編化する傾向のある最近のファンタジーを書く人々の言い訳だろう。
ダンセイニは当初の1ページ目から有無を言わさず読者を幻想世界に放り込む。
紙の本
理性ゆえに幻想と驚異を求めた
2005/10/15 22:45
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
かつてはイングランドの地も、牧神や小鬼達が跋扈し、光と闇の両方に等しく支配されていた。後に異民族に侵され、炭坑が掘られ、蒸気と騒音の充満するようになったロンドンにあっても、市井に暮らす人達による幻想は変わることがないことを本書は示しているかのようだ。ケンタウロスもアラビアの魔法使いも命知らずの盗賊も、同じ陸続きの地上にいるかのように、各短編作品は淡々と綴り重ねられて、視点はロンドンに戻ってくる。
作者ダンセイニが軍人として生きていた19世紀末から、本書が出版される20世紀初めの第一次世界大戦直前までの間も、イギリス、つまり大英帝国はインド、ビルマ、アフガニスタンで、南アフリカで、アイルランドで、世界中に無数の紛争を抱えていた。ダンセイニ自身も南ア戦争に参加し、武力=暴力の意味を肯定か否定かの単純な選択で無しによく理解していたであろうし、男爵として参戦していた以上は世界各地を結ぶ軍事ネットワークからの情報も把握していたろう。そうして世界の極めてリアルな諸相を理解した上で、文学趣味が矛盾なく両立してたところに特徴があると捉えられそうに思う。それゆえにロマン主義的でもなく、過度のリアリズムへの傾倒もなく、ファンタジーの分野を求めながら、神や魔法と人間の間には、愛ややさしさといった情緒よりも合理的、功利的な関係が厳として存在するのではないだろうか。
そういった世界を自ら描きながらも、なおそこにある悲しみに対する目配りが文章の端々から読み取るのは、うがち過ぎだろうか。元は「驚異の書」「驚異の物語」の2冊の合本が本書なのだが、その後半部分の序文で「ここにあるのは、平和の物語である」と言い、1916年に書かれた米国版への序文では「塹壕のあったところにふたたび花が咲き、桜草が砲弾で空いた穴をいつかは覆いつくすだろうから」と語られる言葉からも強く感じられるのだが。
諸大陸の端まで知り尽くしていながら、なお帝国ネットワークのメッシュからこぼれ出る場所を見つけだして、そのほころび目に魔法の森、世界の涯への道筋を描いてしまっている、その点こそがまさに驚異の物語なのだと思える。
紙の本
新しいダンセイニ像をめざして
2004/05/12 22:39
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:杉山あつし - この投稿者のレビュー一覧を見る
現代ファンタジー作家の祖のひとりとしても有名なロードダンセイニの
初期幻想短編集2冊の完全翻訳という、夢のような本が本書である。
本書の特徴は他にも初出時における、サイムの手による挿絵の完全収録、
それぞれの版の序文の収録など、マニアックなこだわりにある。
さて、内容であるが、私は、荒俣氏の「妖精族のむすめ」(ちくま文庫)や
「エルフランドの王女」などの印象が強かったため、初期の時点でこれほど多岐に
渡る作品群を執筆していたのかという驚きが読了して最初に走った。
この世ならぬ場を詩的に表現した寓話作家というよりも、なんでもござれのやり手の作家。
そんな印象を私は作家ダンセイニに抱いた。
逆に後年のジョークンズものに似た要素を感じさせる短編も多く、
必ずしも、ハイファンタジー一本槍ではなかったのかということも本書を読み気付かされたことの
ひとつだ。
概観するに、本書一冊からでも、これまで荒俣氏の精力的な紹介から構築されていた
幻視者ダンセイニという像から多面的な器用なところも多い創作者としてのダンセイニという像が
見出せるのではないだろうか。
荒俣宏氏の評論の最大の弱点は、ダンセイニをあまりに神秘化しすぎたところにあるのではないだろうか。
幻視者というレッテルつけは、ダンセイニという作家の本質を必ずしも示してはいない。
そうしたオカルトじみた価値観でダンセイニをとらえるのではなく、地上的な視線でダンセイニを
とらえるべきだろう。
ダンセイニは決して敷居の高い作家ではない。読者それぞれにあわせた作品世界を個々に提供することだろう、
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