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この本は去年の3月に買ってからもう何度も読み直している。
本屋でその強烈なタイトルに衝撃をうけて思わず買った。
この本は「戦争」「人殺し」という行為を行う兵士側もまた、戦争の「被害者」だということを教えてくれる、貴重な本だと思った。
戦争で兵士は人を殺すのではなく「ぶっこわし、打ち砕き、めちゃくちゃにする」という感覚、人や兵器がただの「もの」として扱われるという現実。
読めば戦争を見る目がかわる。
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一言で言えば、とてつもない本。
本屋でベストセラーになっている軽い本を何冊読んでも、本書から得られるものに全く及ばないと思った。
本屋のまるで目立たないところにある本が、人生を変えることがある。
それが本書。
「戦争における殺人と」いう究極の状況において、人間はどのように感じ、どのように行動するのか。
今まで「戦争のことだから」といって自分の中で思考停止にしていた部分に、100%正面から突っ込んでいるのが本書だ。
少し考えてみれば当たり前のことだけど、
本書を読んで初めて考えたのは、「軍人だって職業のひとつであり、普通の一般人が選択した職業である」ということ。
「人を殺すのは誰だって怖い。」
それを知って、ほっとしたし救われた気がした。でも、軍人の中にある殺人の怖さを殺し、彼を殺人に駆り立てる術があることに戦慄を覚えた。
しかも、その方法は、知ってしまえば納得がいってしまう事なのだった。
人生について、深く考えさせられた。
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戦争に対する意識や、映画による刷り込みなどの影響と現実の違いをまざまざと示された。
資料としても、知識を深める本としても、これはとても残酷なほどすごく心理をついている部分が多い。
現在286ページで、もうすぐ図書館に返却ですが、購入しようか迷ってます。
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「人は人を殺せない」
それは銃弾が飛び交う戦場でも変わらない真実だというのです
WW1の有名なクリスマス休戦や伝説のような「敵と仲良くなった」話や「発見した敵を逃した・敵が逃してくれた」は人間性の真実なのです
兵士が敵を殺すのは憎悪からではなく「仲間を想う心」からであり、なるべくなら「敵を殺したくない」と思っています
しかし火砲や誘導兵器、航空機の発達がそんな良心を楽々と吹っ飛ばし現実の戦争では大量の死傷者を生み出しています
そういった兵士たちの心を見事に描いています
戦争、軍隊に関してあらゆる立場の人に必ず読んで欲しい一冊です
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戦争を存続させている社会に生きて、その社会のシステムに組み込まれ、なんらかの形で責任を担っていることを否定はできない身として、戦争の「現場」を知ることはある意味の義務だと一応は感じているわけです。
この本は、戦争の人殺しというところの、本当のジッサイを書いています。あまり類書がないような気がします。(事実、著者は本の中でこのような観点の本は初めてだと書いている)
殺人行為を避ける傾向をいかに強く人は生まれつき持っているのかがわかりました。またその軍における対策としての殺人の条件付けの方法なども。
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人は個人的恨みでもなければ、戦争だからと言ってもなかなか人を殺したりはできなかったことを、データによって示す。怖いのは、その事実を受けて、命令さえあれば素直に人を殺せる兵士を作り上げる試みがたゆまなくおこなわれてきたこと。今、イラクの人たちがどんな恐ろしい連中と同居させられているのか想像されてぞっとした。
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戦争においては兵士は敵の兵士を殺すだけでなく、
時として民間人に対してさえ、多くの虐殺が見られる。
これは人間が元来持っている残虐性に拠るものなのだろうか。
その問いに対して著者は多くの戦争経験者に対する聞き取り調査を行ったが
その結果は意外なものだった。
第二次世界大戦までの多くの戦争において、
兵士の発砲率はわずか15~20%という驚くべき事実。
歩兵は命令されても殆ど相手を撃っていないのだ。
死者の多くは砲撃によるものであり、これは人間が可能な限り
「殺人」を避けようとする生き物であることを意味している。
相手を殺すことに抵抗を感じない、「攻撃的精神病質者」の割合はわずか2%にすぎなかった。
そして敵を殺した兵士の多くは、その後激しい自責の念にかられるのだ。
興味深い事実が次第に明らかになる。
人間が相手を殺すのは、次のような条件が必要となるらしい。
・最も虐殺が起こりやすいのは相手が背中を見せて逃げるのを追撃する時。
・顔を見せている敵を殺すのは難しい。
・相手との距離が遠いほど殺すのに罪悪感を持たずに済む。
・蔑称を使うなど敵の人間性を否定する事で「殺人」はしやすくなる。
・ひとりでは殺せないが集団でなら殺せる。
・シュミレーターを使った条件づけの訓練を行う。
・殺人を正当化する理由と褒賞があること。
ベトナム戦争におけるアメリカ軍は、
戦闘シュミレーターによる訓練による条件付け、
相手を訓練の的だと思い込むことでの否認防衛機制、
相手を蔑視し、殺すことへの抵抗を少なくする脱感作などのテクニックを
用いることで兵士の発砲率を90~95%まで高めた。
だがその代償として多くの帰還兵がPTSDに悩まされることになる。
つまり、人間は本来同じ種である人間を殺すようにはできていないのである。
戦争はいつの時代もなくならないのも事実だが、
人間の本性は戦いを避けようとするというのも事実なのだろう。
そこにかすかな希望があるように思う。
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素晴らしい本。読んでホントに良かった。
戦争というものがどれほど恐ろしいかという事が、ヒトの心理を通して肌で感じる事ができた。心が震える程の読書ができた。
この本はある意味でヒトという存在の希望の書でもあると思う。
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本来は殆どの人が人を殺す事に強い抵抗感を感じると言う事、そしてどうすれば人に人を殺させる事が出来るのかと言う事について、元兵士の体験談や米国の行った方法等を交えながら書かれています。今の日本では漠然と「兵隊は人殺しで悪人だ」と言うイメージで語られてしまったりもしますが、実際の戦争における殺人行為と言うものはそんな単純な話では無いと言う事を分かりやすく解説した本です。
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これは戦争文学、戦争映画を読み解くためのすぐれたガイド本だ。私が今まで観てきた太平洋戦争やベトナム戦争、アメリカ独立戦争等、もろもろの映画の見方ががらりと変わるのを感じた。例えば近作の『ハート・ロッカー』や『戦場でワルツを』の受け取り方も深化したと思う。
本文中には文学やルポルタージュからの引用が豊富に提示されている。たいていは戦場の兵士たちの体験談だ。まったく同じ文章は読んだことがなくても、似たような場面を知っている、とうなずける、典型的な描写ばかり。
戦争経験のない私たち一般人は、兵士の心理を頭で理解しようとするし、兵士自身も自分が経験した心の変化を頭で理解しようとする。しかしそれは間違っていることが多い。兵士は殺人を強いられるという特殊な状況下では、頭ではなく本能、生理反応で動くものなのだ。
殺人に際しての強力な抵抗感は、対象との距離や、命令の有無などなど、さまざまな要因で薄れもすれば強まりもする。博覧強記な筆者は、古代ローマの槍から近代戦の爆撃機までを例に挙げ、大変な説得力で、効率的な殺人を可能にする、心理的テクニックを説く。
後半からは、兵士の払う犠牲の大きさについて書かれ、胸を衝かれずにはいられない。私たちは小学校で、罪のない人の命を奪う戦争はあってはならないと学ぶ。その言説には、殺人者たる兵士は加害者であるとの見解が含まれていると思う。
だが、もしかしたら筆者が最も強く訴えたかったのではないかと思える、ベトナム帰還兵をとりまく状況についての章を読めばまったく考えが変わってしまう。
第二次対戦での兵士の発砲率は15〜20%だった。それがベトナムでは95%にまで急上昇している。その要因がひとつひとつ挙げられているのだ。そして彼らが米国に帰り着いてからの国民の仕打ちが、PTSDをますます深刻なものにした。ベトナム戦争の映画が、終戦後20年作られなかったことの大きな原因がここにある。
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戦場にあって発砲できた兵士は、かつてはせいぜい10人に2人程度しかいなかったのに、ベトナム戦争においては実に10人に9人にのぼる。この間、何があったのか。
元来"人は人を殺せない”から、"人に人を殺させる”手段は3つ。
1に心理的物理的距離を取り”殺し”の存在を曖昧にすること、2に敵を人間扱いしないこと、3に殺す側の人間性を破壊すること。
ベトナム戦争においては、心理学の知見を動員して手段3を採り、大きな"成果”を上げたが、戦後、大量のPTSD患者の出現という大きな代償を払わされることになった。
筆者は、死や暴力が氾濫する現代のメディアは、主に上記3の効果を発生させてしまっていると憂慮し、メディア規制の必要を訴える。
僕自身はメディア規制には慎重であるべきという立場であるが、軍隊の”人間性破壊”のプロセスは一定のコントロールの下にあるが、メディアの表現にはそれがないという筆者の主張には同意せざるを得ない。
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戦争における最も基本中の基本。人を殺すこということについて考える本です。
本書によれば、殺すことによる罪悪感は殺される恐怖よりも強く、深く心に刻まれのです。このことには米軍で実施された兵士のPTSD発生率の調査等に基づいて解説されており、強い説得力を感じました。国防、外交、経済、人権、歴史、文化とどのような切り口であれ、人を殺す苦悩や代償を考慮せずに語られる戦争の話はとても薄っぺらく、非現実的であると言っても過言ではないと思います。
示唆に富んでおり、生涯にわたり心に残る一冊になると思います。
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描写がきついので、そういうのが無理な人にはオススメしない。
しかし、とても興味深い。
思ったのは、人の美しさと想像力の限界。
人は、人を殺すことから逃げるのだ。
撃たなければ、仲間から卑怯者呼ばわりされるかもしれない。
それでも多くの兵士達が、出来る限り殺さない方法を選んでいた。
ドラマや映画で製作された戦争は全てフィクションだった。
その事実は、自分自身をほっとさせた。
多くの人間は、自分の命よりも他人の命を優先するのだ。
人を殺して、自分の心の何かを損なう(もしかしたら永遠に)ぐらいなら、
逃亡したり、殺されたりしたほうがましだと思っているのだ。
多くの場合、人間心理としてよくある自己都合の理由付けも行われない。
もしかしたら、その損ないというのは命を失うよりも辛いものだと
本能的に感じているから、殺せないのかもしれないけど。
この仮説が正しいとしても、人という種について可能性を感じずにはいられない。
相手の命を奪うことが、自分の心を決定的に損なうようなことだとしたなら、
それは、それほど人は人の命に対して愛を持つ生物だという証明になるのだから。
殺人事件などそういうことばかりが耳に入る現代では、
「多くの人は、自分の目的のためなら誰かから搾取することも厭わない
犯罪をおかすと自分に罰が下るというリスクがあるから犯さないのだ」
という仮説を容易に導き出すことが出来る。
しかし、本来は違うかもしれない。
撃たなければ自分の命が失われるかもしれない状況下においても
出来る限り撃たない方法を模索するのだ。時には降伏さえ行う。
撃ったとしても、多くの場合非難されないのにもかかわらず。
第二次世界大戦のおいて兵士の80~85%が銃を発砲できないという事実。
その残りの15~20%の中には、殺したくなくても仲間を救うために
やむなく撃った人間もいただろう。もちろんサイコパスもいただろうが。
まあ、「人の命を奪う」という一番最悪な搾取においてのケースだけど。
心とかお金の搾取であれば、またストップ率が変わってくるだろう。
人と人との間に機械が介在すると、精神的戦闘犠牲者は格段に減る。
人は人を肉眼で見ると、その人に対してある種の愛情を感じるのだ。
しかし、一方で距離が遠ければ、精神的な損傷を避けられることを考えると、
人間の想像力の限界を感じる。想像は事実ではない。
だから、想像は自分の都合のように解釈できる。
ベトナム戦争について。
発砲率の改善は、人間の想像力の限界を表していると思う。
人を作った'何か'は、人がそこまで人を殺そうとする状況を想定していなかったのだろう。
戦争は不幸の輪廻を生み出す。
兵士は国のために戦った。殺したくなんてなかった。
偽りの正義感を振りかざし、反抗できない者に対して、
攻撃性を向ける程度の低い生き物を俺は心から軽蔑する。
反戦は、善意から出たものかもしれない。
でも、善意から生み出された行動が、正しい人を不幸にすることがある。
現代について。
この本を読んだ人間は、暴力的なゲームと殺人との相関がないとは考えないだろう。
ゲームセンターの射撃ゲームと、人の形をした物体への射撃訓練。
第二次世界大戦からベトナム戦争への流れ。それを考えれば、容易に想像がつく。
--気になった言葉--
心に痛手を受ける体験をしたとき、それをだれにも話さずにいると深く傷つくことになりやすい(P32)
強力な条件づけを克服したという事実は、生得的な本能の力がどれほど強いか、そしてまた、道徳を重んじる意思がいかに崇高な行為を生み出すかをはっきりと物語っている(P74)
殺人への抵抗が存在することは疑いをいれない。(中略)まぎれもなく存在するその力の確かさが、人類にはやはり希望が残っていると信じさせてくれる(P97)
一般的な兵士は、殺人および殺人の義務に精神的に抵抗を感じるだけでなく、だれかが自分を憎み、ころしたいほど人間性を否定しているという明白な事実にも、同じように嫌悪を抱いているのだ(P151)
社会全体が他者の痛みや苦しみに対して体系的な脱感作を作っているのである(P475)
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軍は、こうやってアカデミックに心理学を研究することで、普通の人間を”戦場で人に向けて銃を撃てる兵士”にするんだ・・・。
戦争は遊びじゃない。技術が発達すれば、人間をコントロールする技術も研究され、”発達”していくんだ。
洗脳するのがアメリカの軍だから、それは”正義”なんだな・・・。
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人は人を殺すことを避けようとする。
そんな希望に満ちた本能がある一方で、その本能を凌駕する方法を編み出す人知をも持ち合わせている。
“知恵の木の実”はやはり口にしてはいけなかったのかとよく知りもしないのに宗教的なことを考えてしまいました。