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紙の本
暴力のなかに線を引くこと──「血の匂いのする暴力」と「浄化的暴力」
2004/06/20 16:40
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
ドイツ語の Kritik(批評)の語源は krinein(分離)。「つまり暴力を[カント的な意味で]批判するとは、(暴力の廃絶という理念に立脚しながらも)暴力そのもののなかに線を引くということなのです」。ベンヤミンの「暴力批判論」に言及した箇所で著者はそのように書いている。「戦争/平和」「悪しき暴力/正しい暴力」等々の様々な線引きがあるなかで、著者はまず政治的意味(革命、民族解放など)の喪失という「暴力の新しいパラダイム」に即して「暴力/非暴力」の分割を論じ(第一部)、ついで「主権」とともに近代国家を規定していた「セキュリティ」の変質に即して「暴力/反暴力」の峻別を論じる(第二部)。そして最後に「受肉した存在であるわたしたちにとって、暴力は宿命である」というメルロ=ポンティ(『ヒューマニズムとテロル』)の言葉を屈折点として「政治の道具=手段としての暴力/人間存在の多様な力の表出(生の発現)としての暴力」の区分に説き及び、再びベンヤミンに戻る。
《ここで最初の問いに戻ってみます。暴力を拒絶することは、暴力を批判することには必ずしもならない、むしろ暴力の抽象的・一般的な拒絶は、暴力を呼び込んでしまう仕組みがあることに注目する必要があるということから入りました。暴力の拒絶が、暴力をもたらす、という循環の仕組みを、主権という項を挿入しながら考えてみました。野村修は、ベンヤミンを手がかりにしながら、抽象的なモラルである暴力の否定が暴力を呼び込む構造を断ち、暴力の質を評価する基準を設定するために、もう一つの項である「反暴力」を挿入しました。それは、あらゆる国家暴力の廃絶の理念を胚胎しているかぎりにおいて、あらゆる暴力を構造化している制度そのものを解体する質をはらんでいるかぎりにおいて、暴力のもつ問題性をはらんではいるけれども、しかし用語されねばならない、というのです。しかしそれでも、この「反暴力」を正当化されない対抗的暴力からどう区別できるのか、いまひとつよくわかりません。(略)
法を創設したり維持したりする主権をめぐる暴力、血の匂いのする暴力を神話的暴力、そうした仕組の一切を解体する血の匂いのしない浄化的暴力を神的暴力とベンヤミンは呼びましたが、それはこの反暴力とも近いといえないでしょうか? そこにはより深遠な含蓄があることは認めますが、恐怖によって求心性の磁場をつくりだす主権を拒絶する力。残酷の組織化とエスカレーションを可能なかぎり回避するものとしての。そして、そこに非暴力直接行動があらたに位置づけられるのかもしれない。国家と主権が折り重なった時代の終わりとともに、直接行動あるいは直接活動の創造性をどこまでおし広げられるか、そこにもしかすると、いまという時代の核心がかけられているのかもしれません。》
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