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[ 内容 ]
工場廃水の水銀が引き起こした文明の病・水俣病。
この地に育った著者は、患者とその家族の苦しみを自らのものとして、壮絶かつ清冽な記録を綴った。
本作は、世に出て三十数年を経たいまなお、極限状況にあっても輝きを失わない人間の尊厳を訴えてやまない。
末永く読み継がれるべき“いのちの文学”の新装版。
[ 目次 ]
第1章 椿の海
第2章 不知火海沿岸漁民
第3章 ゆき女きき書
第4章 天の魚
第5章 地の魚
第6章 とんとん村
第7章 昭和四十三年
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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「水俣病」を知っているだろうか。もちろん知っていると答える。たぶん中学生のころ社会の授業で、「日本の四大公害病は水俣病、イタイイタイ病、新潟水俣病、四日市ぜんそく、です」と習った。しかし、そこで起きている事実についてはほとんど知らなかった。そして、「知ろう」とすらしていなかった。そこでは、実際に苦しんでいるひとりひとりの患者がいて、その家族がいる。そのことにはじめて思いいたることとなった。無関心はある種の暴力でもある。その企業に誇りさえ抱いていた企業城下町において、患者とその家族は地元共同体から孤立しさえするということにも恥ずかしながら初めて気が付くことになった。
本書『苦海浄土』は、最近、池澤夏樹の世界文学全集に収められることとなり、さらにはNHK Eテレの『戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち』でも大きく取り上げられた。ずいぶんと前の著作であるにも関わらず、近年あらためて高い評価を受けて、今こそ取り上げられるべき著作という形で話題に挙がることも多いように思う。その評価に値する作品である。
自分が本書を知ったのは、高橋源一郎『恋する原発』の「震災文学論」のP.221から数ページにわたって引用された胎児水俣病を患った杢太郎少年の様子を語る祖父の言葉(を石牟礼さんが綴ったもの)を読んだからである。忌避されるものを中央から見えざる周縁に押しつけ、いざ何事かがあったときには、そのことから利益を得ていた私たちを含む中にいるものは、話題にこそすれその無責任の仕組みにより誰も責任を取ることなく、内部的圧力とともにやがて放置され忘却される。高橋さんは、そこに水俣病と原発の類似性を見たのだろうか。そこでは、「おそらく、「震災」はいたるところで起こっていたのだ。わたしたちは、そのことにずっと気づいていなかっただけなのである」と書かれている。
続く高橋さんの著作『弱さの思想』においても(P.186~)『苦海浄土』を「弱さの文学」として、中央に対する周縁として対置する。そしてその文章を「美しい」という形容詞で評するのである。
著者の石牟礼さんは水俣市の出身である。本書は、水俣病についてのルポルタージュとして、デモや陳情などの経緯や患者数などのデータも記載されているが、患者や家族の方言による独白的描写が、この本を特別なものたらしめている。そこには、文学としての価値と、近代社会の問題提起という二つの側面が、このやり方でしかありえなかったような形で表現されている。特に、高橋源一郎をして「美しい」と言わしめた、胎児性水俣病の杢太郎の祖父による方言を使った訴えは、公害問題の告発というレベルを超えて読み手の心を揺さぶるものがある。自分の子どもが脳性マヒになるかもしれないという経験をした高橋さんは、特にこの胎児性水俣病の患者の保護者である祖父の言葉に特に心動かされるのかもしれない。石牟礼さんの書く言葉は抑制が効いているけれども、その分心を動かす突き刺すような力がある。それはその土地に紐づいた土着の言葉の持つ力なのかもしれない。NHK Eテレの番組内で「一字ずつ ゆっくりかかって一字ずつ言葉を探して 書き始めましたね」と石牟礼さんは語った。四十年を掛けて仕上げてきたという動かしがたい重みがそこにはある。それがゆえに、ある種の「力」がこもる。高橋源一郎はそれを「美しい」と言い、「音楽」と呼んだのかもしれない。
本書は一般的にはノンフィクションに分類されるものかもしれない。しかしながら、高橋源一郎にとっても、世界文学全集に選んだ池澤夏樹にとっても、これはそこに文学的価値を見出すべきテキストなのである。そして、それに自分も強く賛同する。
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NHKの番組の副題は、『近代とは何か 魂の行方』と付けられた。その中で石牟礼さんは、都会では「大地が生き埋めになっている」言う。編集者の渡辺さんが彼女のことを「現実を透過してね 現実のかなたにあるものを見る人だと思うんですね」と評する。
本書『苦海浄土』は三部作の第一部とされている。第二部『神々の村』、第三部『天の魚』はまだKindle化されていない。おそらくはこの時代において読まれるべき本だと思う。早期のKindle化を望む。
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著者の故郷で起こった公害病・水俣病の患者と家族の苦しみを綴った、1972年発表の作品。第1回大宅壮一ノンフィクション賞(1970年)に選考されたが、受賞を辞退している。
本書は、水俣病の患者や家族に対する取材によるルポルタージュとして読むことができ、その記録は壮絶かつ清冽なものである。また、中で使われている天草のことばと、時に詩的な表現が、人々の魂の叫びを生き生きと伝えている。大宅壮一ノンフィクション賞に推されたのも宜なるかなである。
しかし、本書の原型の作品が連載された地元の雑誌の編集者が記した解説によると、本書は膨大な事実のディテールを踏まえて書かれた作品であることは間違いないが、一般に考えられているように、患者たちが実際に語ったことを基にした、所謂聞き書きではないと言う。
そして、石牟礼氏自身も、その編集者の問いに対して、「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」と語ったと言う。
まるで巫女のような仕事。石牟礼道子の作品は、その後「巫女文学」とも呼ばれている。
日本の近代産業史で語り継がれなければならない事件を、美しいことばで綴った稀有な作品である。
(2008年11月了)
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水俣病のことは,学校でも習ったし,なんとなく知っているつもりでいた…が,本書を読んで,患者の苦悩について,まったく分かっていなかったと反省した。
何の病気か分からない時期…自分に起きていることでさえも笑い話にする人々もいる。
原因が,工場の出す廃液ではないか…ということが分かってからも,それを認めようとしない工場。水俣の市民の生活を支えているのが,この工場とあっては,なかなか話が進まない。
漁民は,自分が水俣病の患者になることもあるが,一方で,病気のせいで,安全なはずの魚が全く売れない…という状況にもなる。収入はなくなる一方。
こんな所に来たから病気になったと嘯く女性患者。献身的に看病してきた夫は,限界に達して,離縁をせまる。そして離婚。
工場の出すメチル水銀が水俣病の元凶であるということが正式に決まったのは,なんと,第二水俣病の原因発表からさえも遅れているのだ。なんということだろう。
それからも,水俣は,様々な差別を受けることになる。
本書に描かれている患者やその家族の生の声は,とてもキョウレツで,いちいち心に響いてくる。
なんで,県や国はもっと積極的に動かないのか…とやきもきしてくる。
しかし,これは過去のことではないのかも知れない。
工場の廃液が原因だと分かってからも,「患者を救おう」というスローガンと「チッソ水俣工場を救おう」というスローガンが一緒になった集会を開いたという水俣市。患者関係者は出席しなかったらしい。
被曝者を救う,生活を奪われた住民に補償をさせるということよりも,東電がつぶれたらどうする…ということが先に立つ発想と,余り変わらないように思うのだ。
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(2016.09.18読了)(2014.08.29購入)(2013.03.01・第11刷)
副題「わが水俣病」
Eテレの「100分de名著」9月で取り上げられているのでこの機会に読んでしまうことにしました。いつか読もうと文庫の旧版も買ってあったのですが、読む前に新版も買ってしまい積読中でした。
この本を読み始める前に予め
「水俣病」原田正純著、岩波新書、1972.11.22
を読み予備知識を入れました。
予備知識なしで読めば何か得体のしれない怖さを味わうことができたかもしれません。
水俣病の患者さんを扱った看護婦さんが同じ症状が出たので感染したのでは、という話は怖かったです。実は、・・・。(読んで確認してください)
『白鯨』を読み終わった後でちょうどよかったかな、と思います。「水俣病」(この本では「水俣病事件」と呼んでいます。)に関するあれこれが順不同で記してあります。
患者に関すること、海のこと、国会議員の視察団のこと、医師団による調査のこと、議会での質疑のこと、などです。
患者の思いが綴ってありますが、著者の聞き書きではなく、著者が患者に成り代わって述べたもの、とのことです。方言で書いてあるので、意味が分からない部分が結構あるのですが、患者さんの思いや雰囲気を読み取ることはできると思います。
表現にユーモアが感じられるのですが、内容は悲惨で深刻なことが述べてあります。泣き笑いしながら読み進むしかありません。
水俣市の住民の多くがチッソ水俣工場の恩恵も受けているため、チッソに出て行かれては困るという面もあって、簡単ではありません。
水俣病の原因がわかるまでは、伝染病を疑われたり、ありがちな病名をつけられたり、大学の先生方も調べに来てくれるけど、病気を治してくれるわけではないので、あきらめて医者にもゆかなくなるし、不利なことが多いので隠しておくしかありません。
原因がはっきりして、保証金の話になると、認定基準というのが出てきます。
人間は生き物なので、個人によって発症の仕方が違うでしょうし、摂取量によっても違うでしょう。原爆症と同じで、難しい問題です。だんだん実態に即した形で、認められるようになってきているようですが、ずいぶんと時間がかかります。
この本の単行本は、1969年に刊行され、1970年の第1回大宅壮一賞に選ばれたのですが、受賞を辞退しています。文庫本は、1972年12月に刊行されています。
旧版と新装版の違いは、新装版では、活字を大きくし、その分頁数が増えています。さらに、原田正純氏の解説「水俣病の五十年」が追加されています。
【目次】
第一章 椿の海
第二章 不知火海沿岸漁民
第三章 ゆき女きき書
第四章 天の魚
第五章 地の魚
第六章 とんとん村
第七章 昭和四十三年
あとがき
改稿に当たって
解説 石牟礼道子の世界 渡辺京二
解説 水俣病の五十年 原田正純
〔資料〕紛争調停案「契約書」
●胎児性水俣病(23頁)
誕生日が来ても、二年目が来ても、子どもたちは歩くことはおろか、這うことも、しゃべることも、箸を握って食べることもできなかった。ときどき正体不明の痙攣やひきつけを起こすのである。魚を食べたこともない乳幼児が、水俣病だとは母親たちも思い当たるはずもなく、診定をうけるまで、市内の病院をまわり歩き、その治療のため、舟や漁具を売り払って借財をこしらえたりしていた。
●うつる(43頁)
この頃、看護婦さんが、手が先生しびれます、といいだした。看護婦さんたちが大勢で来て、先生うつりませんかという。よく消毒して、隔離病院に移すようにするというと、うつらない証明をしてくれという。このとき手がしびれるといった湯堂部落出の看護婦さんは、あとになって胎児性の子どもを生むことになった。
●舟に牡蠣がつかん(83頁)
「百間の港に、舟をよこわせとけば、なしてか知らんが、舟虫も、牡蠣もつかんど」
●私小説(368頁)
『苦海浄土』は聞き書きなぞではないし、ルポルタージュですらない。ジャンルのことをいっているのではない。作品成立の本質的な内因をいっているのであって、それでは何かといえば、石牟礼道子の私小説である。
(解説を書いている渡辺京二さんによると、聞き書きなのかという質問に「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」と答えたとのことです。(371頁))
☆関連図書(既読)
「水俣病」原田正純著、岩波新書、1972.11.22
「水俣病の科学 増補版」西村肇・岡本達明著、日本評論社、2006.07.15
「谷中村滅亡史」荒畑寒村著、新泉社、1970.11.20
「田中正造の生涯」林竹二著、講談社現代新書、1976.07.20
「沈黙の春」カーソン著・青樹簗一訳、新潮文庫、1974.02.20
「奪われし未来」T.コルボーン・D.ダマノスキ著、翔泳社、1997.09.30
(2016年9月27日・記)
(「BOOK」データベースより)amazon
工場廃水の水銀が引き起こした文明の病・水俣病。この地に育った著者は、患者とその家族の苦しみを自らのものとして、壮絶かつ清冽な記録を綴った。本作は、世に出て三十数年を経たいまなお、極限状況にあっても輝きを失わない人間の尊厳を訴えてやまない。末永く読み継がれるべき“いのちの文学”の新装版。
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著者は 水俣病患者を 苦しい現世を生きている 仏様のような存在と見たのだろうか
読み手も 苦海をさまよっている感覚になる。「沈黙の春」のように 企業の利益主義や政治の責任に終始していたら、ここまで 心揺さぶられなかった。
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言葉を失ってしまった
水俣病の患者の方たちが
どれだけ 海を愛していたか
どれだけ 平和な暮らしを愛していたか
それは 同郷の同じ思いを
もっていたからこそ
書けたのでしょうね
企業や国 地方の偉いさんが
私利私欲のために
こんなに豊かなものを
奪ってしまったこと
それは やはり忘れてはならない
と思う作品でした
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子供の頃習った水俣病。無知でした。なにも知らなかったも同然でした。水俣の海の美しさや、自然と共に生きる漁師の生活が、豊かに綴られ作家の郷土愛を感じます。そしてそれがまた罹患した人々の辛さをより浮かび上がらせるのです。水俣病患者に寄り添った気持ちが、ひとつひとつ言葉となって心を打ちました。こんなにも大変な問題を知らずに過ごしていた自分が恥ずかしいです。まさに名著でした。
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もっとも恐ろしい言葉が「あとがき」にある。
「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、四十二人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」
「もはやそれは、死霊あるいは生霊たちの言葉というべきである」
これに引っ張られるようにして読んだ。
作者が「白状すればこの作品は、誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの、である」といい、解説者渡辺京二が「聞き書きなぞではないし、ルポルタージュですらない。私小説である」という意味が、了解できた。
一読のあとに獲得したものとしては、まずはこれだけで上々だろう。
というのも、熟読前はやたらと難解でとっつきづらい印象で手を伸ばしかねていたのだ。
地の文、方言による語り言葉、報告書などの固い言葉づかい、が混在しているため。
ところで小説を読み終わった時に、美味しかったとか食べづらかったとか比喩することがある。
本書は咀嚼しても噛み切れず呑み込んだのに重くて吐き出さざるをえなかった「それ」を、食べねばといま思っている。
繰り返すようだが、初読でここまで味わえれば、上々だ。
これは「小説で」「重い美味しさがある」とわかっただけでも。
あとは多方面から読んで「小刻みに腹に納めていく」だけだ。
永遠に腹からはみ出し続けるであろう記述を、少しずつ食べていく。
私なりにまとめてみれば。
作者の巫女的な性質。(手をつなぐことで、相手のすべてが流れ込み、自分の中で生きる)
ルポではなく創造的真実が生み出す人々……患者、患者の家族、遺族……の声が、幾度も反芻される。
反芻を繰り返すことで洗練さていく言葉と、生(き)の言葉と、の混在。
各章ごとに「わたくし」が直面している現在がまず提示され、思い返される過去が各々患者の言葉として思い出され(だからルポではない)、また現在刻まれていく政治的事実や研究報告書などが差し挟まれていく、この繰り返しで本書は構成されていく。「転ー起ー承ー転ー(本来存在しない結は先送りされていく)」そのため、割と時間は前後する。
主な患者は、山中九平少年ー野球の稽古。仙助老人ー村のごついネジすなわち柱。釜鶴松ー苦痛よりも怒り、肋骨に漫画本。坂上ゆきー海が好き、流産したややが食卓の魚。杢太郎少年の爺さまー棚に乗せたものはすべて神。杉原彦次の娘ゆりーミルクのみ人形。
ちなみに石牟礼道子さんの写真や映像を見て……ややスイーツ(笑)な雰囲気も感じ。
かんっぺきに感受性ばっかりの書き手が、幸運にも時代的題材を得て生き生きと書いている、とでもいうような。
いまにひきつけてみれば、「川上未映子が本腰入れてフクシマに取り組んでみました」とか。笑
その違いは要は継続性にあるのだと思うのだけれど。
(フクシマヲズットミテイルティーヴィーの醜悪さ(たとえば熊本はすっかり忘れているじゃん!)とはまた違う、人生を賭けた継続的アプローチ)
感動一辺倒に水を差すような感想も、きちんと示しておこうと思って、この嫌な一説を書き足した。
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ずっと読みたい、いえ読まなければと思い続けて今になりました。
やはりつらくてページがなかなか進みませんでした。
これは聞き取りではなかったのですね。
ノンフィクションだとばかり思っていました。
なんと悲惨で美しい文学でしょうか。
水俣の漁業を営んできた人々の慎ましく海を愛する心が語られています。
方言の美しいこと
彼らの無念に心をえぐられます。
やはり読んでよかったです。
≪ 故郷の 海は苦海か でも浄土 ≫
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読みにくそうだな、との思い込みで、ずっと本棚にあったのに、読まなかった本。
気合いを入れて、読み込んだ。なんと濃密な世界か。想像を絶する悲惨さを描きつつ、それぞれが生きている証を感じた。死もまた生きた証なのだ。右も左も、そして神も、医学も、さらには作者自身をも唾するような場面が見られ、深く考えこまされた。
これがルポルタージュでないと、聞き書きでないと、文学なのだと「解説」で読んで知り、衝撃を受けた。文学として読むと、なんと人間の深部と崇高に迫った希有な書であろうか。
ゆき女、杢太郎、ゆりと脳裏に焼き付いて離れない。
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美味しそうな描写があるという書評をみかけて、興味を持ち、手に取りました。
すごい文書力です。
生き生きとした方言で語られる生活、そして、苦しみ。間にはさまれる報告書や記録の冷たい事実。
文学としてのすばらしさと水俣病に対する会社と政府の態度のゲスさ。
最近、中国の公害のニュースを見ると、バカにする日本人が多い気がするが、こんな公害が発生し、これほどまで放置されていた事実は忘れてはならないでしょう。
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水俣病をテーマにしたルポかと思って敬遠していたのだが、1ページ目に「こそばゆいまぶたのようなさざ波」というすばらしい表現があり、文学作品として拝読。
水俣病という重苦しいテーマにもかかわらず、著者が豊かな表現と感受性で描写する水俣の民のみずみずしさ。
人々が生き生きと描かれているだけに、公害病の恐ろしさがまた浮き彫りになる。悲惨なのに美しい。美しいのに悲惨。
「なんの親でもよかたいなあ。鳥じゃろと草じゃろと。うちはゆり(娘さん)の親でさえあれば、なんの親にでもあってよか。なあとうちゃん、さっきあんた神さんのことをいうたばってん、神さんはこの世に邪魔になる人間ば創んなったろか。ゆりはもしかしてこの世の邪魔になっとる人間じゃなかろうか」
万人におすすめできる作品ではないけれど、私は読んでよかった~。
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読まなくてはとずっと思っていたが、水俣病かぁ、、、と手に取れなかった。
しかし一読、このカラッとした明るさにビックリ。
この人たちは本当に海を愛していた、魚を愛していた。その人たちから奪ったのだ。
そして「3・11」も、また。
「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」
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ゆっくりと、時間をかけて読みました。
内側から描かれた水俣病の物語を読んだのは初めてで、こんなにも一人一人の人が美しく尊厳をもって描かれている物語を読むのも初めてで、想像しては揺さぶられ、でも必ず読み終えなくてはという意思を強く持って読みました。
文字だから伝えられるもの。
物語という形だから訴えられるもの。
合間で示される、具体的なできごと。
柔らかな、けれど確かな意思を感じさせる文章。
ほかのところでは出会えない感触を味わえた時間でした。