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面白い。私達は錯覚をしまくっている。らしい。最初は「理系チック〜・・・読めないかも」と挫折しかけたが、ハマってしまえばこっちのもの。常識を覆すための一冊。脳ってすごい・・・
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途中まではすごく面白い、し、分かりやすい。
けど最後ちょっと強引にまとめようとしたのか訳分からんくなってるよ。
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「心」とは何か?「意識」とは何か?
自分の脳みそを完全にコピーし、別人の脳みそに上書きした場合、「わたし」はどうなるのか?
こんな疑問を抱いたことがある人は、ぜひ読んでみてください。
論理の飛躍があったり、諸説を十分踏まえていなかったりはするものの、分かりやすく意識について論じられています。
工学的なシンプルな発想が良いですね。
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下條信輔「サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ」における議論と、基本的な立場は一緒です。
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いわゆる心脳問題に関するロボット工学の教授の著書(心脳問題という言葉は出てこないが)。おもしろいが、何度も何度も茂木健一郎さんの考え方を批判しているのがどうにも。2007/09/04読了
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コネクショニストの視点から、心とは、意識とは何かを説く。
一般向けにわかりやすい表現で書かれているので非常に読みやすい。
心身一元論の立場で書かれているため、魂の存在を信じる方(心身二元論を確信している方)にはおすすめできない。
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感情を訴える心というものは、体の中のどこにあるのだろうか?
実は、感情をつかさどる部分、思考する部分がニューラルネットワークという組織で、そのニューラルネットワークを無意識の小人達に例えているのが面白い。
小人達の仕事は、情の情報処理、外部の状態の知覚、記憶の連想などである。
記憶の中の、エピソード記憶の大切さもわかった。
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脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説―
前野隆司,筑摩書房,2004年11月15日第1刷発行を読んで周辺知識を学習して思ったこと
受動意識仮説―の更なる副題は「ロボットの心の作り方」だそうです
終わりに アイ・ロボットへの想い入れがかいてありました。
さて、この本は発刊されてから、様々な議論があり、様々な課題が残っているので
専門的な事については、茂木健一郎とかに任せる事にします。
クオリアでもアハ体験でも議論してください
この本を読んで私が注目したのは
「1つの面白い実験結果がある。人が指を動かそうとするとき,脳の中の,「動かそう」と意図する働きを担う部分と,筋肉を動かそうと指令する運動神経が,どんなタイミングで活動するかを計測したカリフォルニア大のリベット博士の実験だ。結果は実に意外だった。筋肉を動かすための運動神経の指令は,心が「動かそう」と意図する脳活動よりも,0.5秒も先だというのだ。常識的に考えると,まず人の心の「意識」が「動かそう」と決断し,それにしたがって体が動くと予想されるのに,結果は何と逆なのだ。」
この実験の概要は以下の通りである
頭骸骨を切開した人の大脳・随意運動野に電極をつけて、ひとさしを指を曲げる運動に対する運動準備電位を計測した。
運動準備電位は、無意識に始まる運動の指令信号である。
行動(筋肉の収縮)は、意識されて動くのかどうか、を確認する実験ということになる。
?指を動かそうと「意図」する。
?指令が随意運動野に伝わる。
?無意識のスイッチがONになる。
?運動準備電位が発生する。
?指が動く
この順番に神経活動が起こると考えるのが普通である。
ところが結果は意外なものだった。
?無意識のスイッチがONになる。
?運動準備電位が発生する(「意図」するより0.35秒前)。
?指を動かそうと「意図」する。
?指令が随意運動野に伝わる。
?指が動く(「意図」の0.2秒後)。
そんなバカな! と思うのは当然で、世界中の学者がみな驚いた。
これはどういう事なのかと考えてみると
「イチロウ」や優れたピアニストのようにスピードや即時の0・5秒以下の意思決定をする動きをする場合、
意識が形勢される依然に鍛え抜かれた筋肉と意識を形成するまでに計算されている結果に基づいて筋肉が連動して動くという事だ。
即ち、意識というのは単なる人間の誤謬、もっと言えば、後付の思い込みなのである。
私の大好きな劇画、子連れ狼の「毒流れ」で拝一刀を殺害しようと企てる阿部怪異が、一刀を昏睡状態に落としいれ
多勢の刺客に攻撃をさせる、しかし 一刀は昏睡でありながら、同田貫を自在に操り、全ての攻撃をかわし、刺客をしとめて行く、それでも昏睡状態、
其れを観た阿部怪異は恐れおののき、「恐ろしや・・話に聞いたことがある。。剣の手練には心気と肌気の二つの気ありと。。。その意識不覚たりとも、この二つの気は常に鋭く研ぎ澄まされ、不覚たらざしとも、心気にて殺気を捉え肌気にて迫り来る風を感じ、無意識にその剣は動き。。。これぞ一切が無の中の入神の技たりし。」
というシーンを思い出した。
本の本題とはかけ離れ、仏教の「無」というのは同いう事なのかを科学的に説明できるようになったんだなと思いました。
一休が最初に悟った洞山三頓の棒と言う公案の解が、「有漏地より、無漏地へ帰る一休(ひとやすみ)」の意味も理解できた
脳の意識の形成が後手に回って、人間の心が無意識の体の動きを都合よく解釈して意識を形成するならば、心を無にして正しい体の動きを見につけなければならないという事だ
本能的な煩悩や性衝動などはやはり、心の鍛錬をして、体が其れを拒絶するようにしなければならない
難しい事である
脳の意識より正い動きができる体を作らなければならない、これは、本当に難しそうだ、僧侶や修験者の修行が
なぜあのように厳しいのかがわかった。
そしてもうひとつ、ピアノなど想定した理想の曲想を弾こうとするときは、脳でバーチャルな経験をさせることで
その筋肉は動くのである、
即ち、これがバーチャルイメージトレーニングなわけである。
脳の緻密な想像力が芸術を生み出し、イチロウのような選球眼が生み出されるわけである
やっぱり、霊長類というのは想像力と合理的に鍛えれた体が必用なのであるという事だ。
動物はこの誤解をする意識を作り出す、前頭葉が無いか、もしくは、小さいかなのであるから、無の心もしくは無に近い反射神経なのである 無視が払いのけようとする人間の手の動きを予測するように
人類が哲学や宗教観をもって何万年なんだろうがようやくその謎が解き明かされてきたようなきがします。
それにしても、流石、数千年続いている宗教においては心の仕組みなど科学などがわからなくても、理解していたと言うこの事実に感動しています。
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面白いけどいろいろつっこみどころがあるというか。脳のネットワーク分散処理という概念はだいたいわかるし昔にブルーバックスでそんな本を読んだ。意識は主体的でなく、受動的に観察しているだけの存在だ、というのがこの本の骨子だが、そこはちょっとどうかな・・・
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[途中]
まず一番不満なのが、第4章、
個人的には下らないとも思える話になる。
第3章までの内容で、心について、
より深く突き詰めて欲しかった。
本書で言っているのは、
人間の人間性や個性は、無意識であること。
自己意識とは、無個性でちっぽけな存在であること。
だとするなら、
自由意志について
著者の説が正しいとするなら、
私という自己意識には全く自由意志はない。
では、小人たちはといえば、小人たちは、
五感からの情報と内部モデルの情報を、
処理しているに過ぎない。
自由意志というのは、インプット情報に関係なく、
自ら判断していなくては自由意志とは言えない。
小人たちにそんなことが可能であろうか。
小人単体では少なくともそんなことは無理だろう。
では、小人たちという集団としてはどうか。
一見、自由意志があるように見えるのは、
はたして、自由意志なのだろうか。
罪と罰について
私という意識には自由意志がなく、
意思決定のプロセスに掛かられないとすると、
私という個体が犯した罪は、誰が償うべきなのか。
それは結局、私の個体に内在する、
無意識になるべきであろう。
無意識とは結局、人間が人間であり、
個人が個人であると識別するものとなる。
昔、世紀の大悪党が捕まり、その法廷で、
敏腕弁護士は、その悪党の切断された右腕を掲げて、
こう言った「全ての罪を犯したのはこの右腕である」と。
そんな小説を読んだ事がある。
未知の感覚について
意識には、五感のセンサーを知覚出来るのは分かる。
でもそれは、実際、本当にセンサーなのだろうか。
意識が人間にとって主体的でなく、
無意識の決定を見ているだけの隷属的な存在であるなら、
全ての受け取った感覚を意識出来ているはずはない。
意識として感知出来る五感以外にも、
感知できない感覚があると考えるほうが自然だろう。
五感とはいわば、分かりやすく形式化したもので、
無意識はもっと繋がりあった世界感覚で、
モノを捉えているとしても可笑しくはない。
意識はエピソード記憶の為にあるというのが正しければ、
意識できない感覚とは、なんだかの理由で、
エピソード記憶に不適切なものなのだと考えられる。
人間は五感感覚に「生きている」という感情を付加し、
クオリアとすることで、エピソード記憶として保存し、
未来の行動の損得や善悪、是非について問う。
だとすれば、意識出来ない感覚とは、
感情の付加に適切でない、又は、生きていると実感出来ない、
そのような情報ということにならないだろうか。
または、普遍的過ぎてエピソード記憶する、
意味、必要がないような感覚情報とも考えれる。
そういった情報は無意識段階での判断基準にされていても、
意識には上がってこず、我々の意識では認識出来ないばかりか、
我々が絶対だと思っている五感に集約もされない。
未知���感覚は、存在したほうが自然のように思えてくる。
動物への人権拡大について
ありえなくないが、相当な困難が予想される。
まず、人間でも自由や政治参加が認められない者はいる。
子供である。
オラウータンに人権が認められるのであれば、
人間の子供にも認められて当然だろう。
でも、子供に政治家を決めさせ、ポルノを見る自由を与え、
成人と同じように裁判を受けさせるのだろうか。
今の時代は、オラウータンも人間の子供も同じく、
保護されるべき存在だ(一昔前は、女性もそうであった)。
無論、子供の政治参加は必要だという意見には僕も賛成だ。
現にアメリカでは子供の間で選挙が行われ、その結果には、
政治的な拘束力はないが、実際の選挙に影響を与えるとされる。
人権を与えるということは、自由と義務、自己責任が発生する。
それは、オラウータンにとって幸せなことだろうか。
自由という概念がなかった滅私奉公の江戸時代より、
職業選択の自由がある我々は幸せと言えるのだろうか。
なんだか幸せだろうとそんな感じがするのは、
明治政府やGHQの教育による洗脳ではないだろうか。
また、人権のある者が、人権のある者を食べる事態も発生する。
人間は、生き物を殺し食べることで生きている。
動物性たんぱく質が取れなくなれば、どうなるだろう。
それから、医療用実験用マウスはどうだろうか。
医学の発展に著しい影響が出るだろう。
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ワタシ は 数ある脳細胞の中の一つの存在で、しかも 多くの脳細胞が判断して動いたものを、後で察知する存在である、という非常に新鮮な解釈であった。こう考えると説明できることもあるのかもしれないが、じゃあどうすればいいのか、というところの出口がなかなか見出しにくい本であった。
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自由意思なんて存在しない! 似たような話は、池谷裕二さんの本にも出てきますね。脳科学者の間では一般的な考えなんでしょうか。
この本を読んで「自由意志がないのは分かった! でも自由意志がないってことは法律の根本概念が無くなっちゃうんじゃないか? これからの毎日はどうやって過ごしてけばいいんだ?」と思った人は、
『和解する脳』 池谷 裕二(著)
『寝ながら学べる構造主義 』 内田 樹(著)
『考えない練習』 小池 龍之介(著)
なんかを読むと勉強になるかもしれません。
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もう20年前になるが、脳の処理の方法であるニューラルネットワークの出口に心が待ち構えていると言う作者の論には素直に受け入れられる気がする。
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ロボット工学の人による意識に関する本。受動意識仮説という自説について展開しているが、ものすごく分かりやすいのはちょっと感動するぐらい。<私>というのは、単なる意識のみならず、エピソード記憶を含めたモデルだというのが中心。著者はAIの人なので、こういう捉え方で、今後のロボット開発などに実装してゆくのだろう。内容的にはLibetの説と特に変わったところはない。我々の認知は錯覚にすぎず、「赤いリンゴ」が見えてるのではなく、「赤い」と「リンゴ」を脳が勝手に合成しているだけ。バインディング問題なんか不要。自由意思も実は単なる後付けの理屈にすぎず、よく言われるように「悲しいから泣くんじゃない、泣くから悲しいのだ」という機械論的な立場をとっている。クオリアの問題も、実はクオリアを感じる私、という機能があるだけで、そこに特別なものを想定する必要はないという。川人先生の、「脳内では多数の並列的な処理がされているが、意識に上る時点では簡単な直列処理として認識される」という(おそらく正しい)説をベースに開発を続けているようで、これは「心を持っているように見える」ロボットを作るためには正しいアプローチなんだろう。でも、実際は「川下にいる<私>」として、認知を統合し、感情という形でエピソード記憶を強める何者かが必要になってくる。意識を説明する、という点では昔のホムンクルス問題から一歩も進んではいない。
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http://www.youtube.com/watch?v=Ox8gJEIe5Ac
意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説 - YouTube
を見てから読むと、分かりやすいです。
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・心の地動説
・自分とは、外部環境と連続な、自他不可分な存在
意識は全てを決定する主体ではなく、川の下流で見ているかのように
受動的に受け入れ、自分がやったことと解釈し
エピソード記憶とするための、ささやかで無知な存在
・更に、意識の中で最も深遠かつ中心的な位置にあるように思える
自己意識のクオリアは
最も愛しく失いたくないものであるかのように感じられるものの、
実は無個性で、誰もが持つ錯覚