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それでも英雄に憧れる。だから全体の評価は3かな。織田、豊臣、徳川その三代にわたり生き延び、幕末までその家を残した山内家。家祖山内一豊とその妻。司馬作品では珍しい女性の主人公千代(実名はまつ)。
長宗我部作品も好きなので複雑。司馬作品では、戦国期の俯瞰図として良い。豊臣の功臣たちが徳川支持に変遷する、私には理解しずらかった部分の司馬さんの解釈は本作に最も詳しい。
藩翰譜、鳩巣小説、常山紀談にその引用があり、戦前の教科書には頻繁に紹介されていたとする名馬購入の話。面白い。知らない人が多いでしょう。(NHKの大河ドラマでやや復活)今やそれを貞淑良妻のモデルと捉えられない人が大半では無いでしょうか。
永井路子さんの解説で、司馬さん作品への解釈が拡がった。紫式部の「あはれ」と清少納言の「をかし」の対比説明。司馬作品の決定的な新しさと面白さは「をかし」にあると。徹底した客体視、中立の独立した視点。冷徹な観察。「をかし」の説明になるだろうか。それでありながら小説であって、その独立した視点には強烈な好き嫌いがある。
本作最終章。夏草の賦とともに、龍馬がゆくを読む前に読めるといいですね。
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山内一豊の4巻目。一豊が土佐に入り、国守となるまでだったが、国主となって千代と政策を練るのかと思っていたのだが、どうも守りに入ったような気がした。一豊を応援していただけに、残念な結末。しかし立場が付けば一豊のように守りの面も出てくるものなのか。物事様々な視点で考えないといけないと痛感した作品だった。
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土佐を得てからのすれ違いが凄まじい。
二人三脚でどうこうなるレベルを超えて出世してしまうと、自らの支えがなんだったのか分からなくなるほど眼が曇るのかと思うと、なんとも虚しく感じてしまう。
関ヶ原までは秀逸そのものだったと思う。
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四巻は、関ヶ原の前哨となる奥州、上杉討伐のころから描かれる。
史書によると関ヶ原では山之内一豊は、さしたる槍働きがないとされるのにもかかわらず、土佐一国を与えられている。このくだりは、本巻のハイライトとも言えるものであろう。読者は、凡庸の中の非凡を山之内一豊の中に感じ、近親感を持って一巻から読み進めてきたと思う。千代の操縦にも上手く嵌り、誠に良く出来た山之内夫婦に理想を重ねていたかもしれない。しかし、司馬遼太郎は、そのような偶像視がいかにも人間の本質を捉えてないことを諭す。人間の器と地位との関係のバランスが崩れるといろいろ難しいということを最終巻では語っている。いろいろ考えさせられる一冊である。
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解説は成る程と思った。確かにあはれではなく、をかしという感じかもしれない。
人間なんてそんなものと言われればそうなのだが、千代も一豊も思考や性格が安定していないように感じた。感情に関する描写があまりないので、何を考えてその言動なのか、よくわからない時があった。
にしても、時代物っておもしろい。地名と照らしあわせて考えると、未だに昔からの流れが続いているのだと感じられる。
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もう、何年前になるだろうか?歴史系小説が好きになったきっかけの本。最近、歴史年表が気になっていて本書も再読してみる。再読してもやはり面白く、特に後半はグググッっと引き付けられる。
織田、秀吉、家康に使えてきた山内豊一の話。機転の利く妻の協力もあり、最後は四国の大名にまでなる。
織田、秀吉、家康と歴史の流れもわかるので、日本史初心者にも良い書物なのではないだろうか。
【感心】
「関ヶ原の勝利の一因は、山内対馬守夫人と細川越中守夫人に多くを負っている」
現代にも通じるところがあるな
議場が合戦、決まれば実行するだけ
男が自分の技能に自信を持ったときの美しさと言うのは格別なものだが、自分の位階に自信を持った場合は、鼻持ちならなくなる。
豊一と言う男が現在の高知市を作ったわけだが、それはまったく土地を造成したと言えるほどの土木工事であった。
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自分だったら、たまたま、コネのおかげで、出世できたとしても、あんまりうれしくない。冷静に分析しすぎて、引け目を感じてしまうだろう。
分析すらせず、ただ素直に地位を受け入れる伊右衛門は参考にならないが、
分析したうえで、自分のこれからのために、手に入れたものを最大限活かす。そういう開き直りができたら、いいんだろうな。
ある意味千代も、伊右衛門に依存しているのか。
伊右衛門が土佐を拝領したときに、現地の人を採用していたら、明治維新でも何か変化があっただろう。土佐内で上士と郷士の間の軋轢なんてのもなかっただろうし。武市が処刑されることもなく、もしかしたら、長州・薩摩と肩を並べる維新推進藩になっていたかも。竜馬も、脱藩せず、土佐の中で・・・縮こまったままだったかも。
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愚直で正直者の伊右衛門が軍議での功を讃えられ土佐一国を食む。運もあるがやはり千代の存在が大きい。残念ながら24万石はその器量には大きすぎたらしく、種崎浜の悲劇となる。史実は少し違うようだが、この逸話で物語全体の印象か大きく変わります。千代が察知して悲劇を未然に防いてくれると願いつつ、はらはらしながら読み進めました。その後何事も無かったように“あとがき”は進みますが、これを境に一豊と千代の確執が深まったことでしょうね。
今回も戦国武将の逸話が散りばめられ濃密て読み応えがありました。知的好奇心を存分に満たしてくれる作者の作品を貪り読みたくなる衝動に駆られます。
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ネタバレ 1976年刊行。関ヶ原の勝利でも寂寥感しか残らなかった一豊。が、土佐24万石の国守となった時から心の転落は始まっていたのだ。長曾我部盛親への冷淡。一領具足への弾圧。律義者・忠義者とは到底言えない最晩年が待っていた。それを見つめる千代の目線も暗い。そしてあまりに呆気ない最期。この巻があったがゆえに、本作が唯の夫婦純愛作品に留まらないものにしている。実のところ3巻くらいで読むのを止めたくなったのだが、4巻を読み通してみて、結果としては最後まで読んでよかったかな、というのが正直なところ。
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最終巻はとにかく怒涛の展開でぐいぐい引き込まれて読了。
家康が天下をとり、一豊と千代の最期まで。
ここまで読んで、一豊と千代のほのぼのとしたやり取りにほっこりしていただけに、後半一豊が土佐の国主になるあたりからなんだかもう読むのがつらくなる。
確かに、身分不相応な地位を得ると人はおろかになるのかもしれない。
でも、一豊には最後まで千代に相談してほしかった。
二人三脚でここまで来たのに……と思ってしまうほど、最期が切ない。
ただ、種崎事件の後、「あとがき」としてその後の二人が描かれているけれども、そこでは二人は仲睦まじくしていたようなので、この事件は二人の間にそこまでのことではなかったのかな? と思ったり。
いや、もしかしたら千代はあの事件ですべてをあきらめたのかもしれないけど……うーん。
ただ一つだけわかったのは、歴史小説意外と面白いってことで(笑)
次は何を詠もうかな♪
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大河ドラマにもなった大人気歴史小説の最終巻。この巻の本編では、関ヶ原の戦いから土佐での地位を築くまでが描かれ、その後「あとがき」として、主人公である山内夫妻の最晩年の様子が描写されている。本編のラストは後味のあまりよくないものであるが、これが本書をただの出世物語で終わらせない深みを与えていると思う。
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掛川城主6万石になった山内一豊(伊右衛門)は徳川方への忠誠を尽くし、関が原の合戦を経て、土佐二十四万石の領主になる。奥方・千代は大坂の屋敷に篭って関が原の合戦まで主人の帰りを待っていた。その後、土佐に住むことになるが、土佐の領主になった主人の変貌と領民への誹謗な行ないに千代の心は塞いでいく。シリーズ完結編。
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信長、秀吉、家康に仕え、土佐藩主に上り詰めた山内一豊とその妻 千代の物語。(小説では)ボンクラな一豊を千代が励まし、煽て、苦言しながらもワンチームで生きていく姿が、なんとも微笑ましい。
一豊のボンクラっぷりが、自分を見ているようで、なんだか親近感だわ。
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伊右衛門はもはや残りの春秋の多くもない生涯であるが、この最後の世の変動を機会に一国のあるじになりおおせてみたいと思っていた。(おれは太守、千代は太守夫人)という、まるで子供っぽい夢ではあったが男の生涯など、思ってみればその子供っぽい夢がかれを駆けさせる原動力になっているのではあるまいか。(p.86)
(ひととは強欲なものだ)と、千代はぼんやり考えた。一代できずいた身代は一代かぎりでほろぼせばよいのに、晩年になればいよいよそれを永世にのこそうという気持ちが強く動くようであった。特に大名家業というのはそうであった。家が滅べば、家臣は禄をうしなって路頭に迷う。この家業に関するかぎり家をつづかさねば、伊右衛門の創業は成功したといえないのである。(p.300)
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山内一豊と千代の一代記。
山内一豊(伊右衛門)は千代の作品である
という軸に貫かれた作品。司馬遼太郎が描く主人公に共通する快活さや明晰や、人間的魅力は伊右衛門ではなくどちらかというと千代にそれが見いだされている。
出世や功名、その前提としての主人との関係というものを当時の武士、武将がどのように捉えていたか(江戸時代以降のいわゆる忠義や礼節重視のあり方ではない)ということを繰り返し描いてくれるのですが、こういう当日の「普通の感覚」的なものは、時代をつくった英雄による物語では描きにくいし、想像しにくいわけです。伊右衛門という一人の特別の才のない武士の目線で語られるからこそ、家を興すことに対する強力な執念や、戦場に赴く怖さや、一つ一つの判断の難しさが分かる。
また、この作品の価値は、『新史太閤記』では描かれなかった秀吉の晩年を描いたことにもあるように思う。(『関ヶ原』にも描かれているのかもしれませんがまだ読んでない)司馬遼太郎に「日本人の傑作」とまで言わしめた秀吉も、その晩節は非常に醜く、後世にもさまざまな禍根を残すものでしたが、その変容を「家を興す、残す」という戦国的発想から描き、かつ土佐入国後の伊右衛門とも重ねながら描いたのはなるほど、とうならせるものだった。
伊右衛門の土佐での国造りの影響がその後幕末に至るまでどのような影響を残したのか、それこそ圧倒的な竜馬びいきの司馬遼太郎がどのように結末を描くのかとドキドキしながら読み進めたがある意味拍子抜けするほど淡白な描き方でなるほど司馬遼太郎らしい、と感じる作品でした。