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7月4日、広島女児殺害事件に無期懲役の判決。昨年、小学一年生の女児を陵辱し殺害したペルー人は「悪魔が自分の体の中に入って動かした」といっていた
2006/07/10 12:40
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「神になりたかった男」といえば日本の歴史で思い浮かぶのは魔王・革命児織田信長。最近流行の解釈は信長の野心は天皇の地位の簒奪にあったとか、神の国を造り自らが神としてその国の王たらんとしたなど。普通、人間がなりたいと思う「神」はこのような俗世界を政治機構の頂点で支配する超絶の専制者のことでしょう。ところで『悪霊』の主人公、悪魔的超人スタヴローギンですが、俗世界の専制者になろうとする野心などまるで持たない男です。ピョートルたちがもくろむ革命運動でもピョートルたちからは革命後の政権にあって伝説のイワン皇子のような神的存在になってもらいたいと懇願されるのだが、それを拒否している。
まるで政治世界には無関心なのだ。にもかかわらず亀山郁夫氏がスタヴローギンを「神になりたかった男」としているところが大いに関心をもたされたところです。
ここで亀山郁夫は『悪霊』から「スタヴローギンの告白」だけをつまみだして個性的で刺激的な解釈を試みています。それは私の全く気がつかなかった『悪霊』への視点でした。
「神さまがだれかに相談するなんて考えられません。無言のまま、決定をくだすのが神さまです。そして、ほとんど極限といえる冷静さを自分に要求するのも神さまです。神さまが慌てふためき、うろたえる姿なんて見たくないでしょうし、想像もできません。たとえ恐れや怒りを感じ、左右に少々ぶれることがあっても、最期はぴたりと中心に回帰する。振り子が止まるように。スタヴローギンにはそのように、どこか神の視点から世界全体を眺めおろしているところがあるのです。」
人間の運命を意のままにコントロールしているのが神である。そういう絶対者を人間にたとえてその人格の断面をさらせば、あらゆる事象に、あらゆる人間の行為の結果に無感動であり、つまり喜怒哀楽をもたず、無関心でただ眺めているだけの存在であろう。別の人間から見れば傲慢であり、冷酷であり、血も涙もない無慈悲な存在であるかにみえる。にもかかわらず、圧倒的なカリスマ性を備えていることになる。
亀山郁夫氏は神の本質をこのように切り取って、知力と腕力と類まれなる美貌を備えたスタヴローギンを「神になりたかった男」と定義したわけです。
しかしスタヴローギンは神になれなかった。スタヴローギンが神の視線でいくつもの罪を犯す。彼がきっかけを作って、人の運命をもてあそび、その人がもだえ苦しみ、あるいは精神が壊れていく様を眺めるのです。神の高みに立って彼は「卑しい快楽」を感じていたのです。
それらの行為のすべてがとてつもなく衝撃的なものでした。新潮社版江川卓訳『悪霊』の「告白」を読んでいましたがこれほど汚辱まみれの内容だとは気づきませんでした。一つ一つのエピソードがまさか19世紀のロシアの話だとはおもわれません。この現在の日本で頻発している猟奇的犯罪、サディスト、マゾヒストによる性犯罪。無差別の愉快犯的事件、幼女性愛者による陵辱と殺人、そして幼児虐待の悲惨などあまりにも酷似したそのリアルさに、これは時代を超え、民族を超えたところにある人間の本質的悪魔性なのだと。ここにはドストエフスキー自身の全人格の投影があるといわれる。たしかにドストエフスキーの観察力、人間の心の深奥に潜む恐ろしいものを抉り出す観察力には鬼気迫るものがあります。
この著書はそれ自体ミステリーを読むような謎解きの面白さにあふれています。たとえば彼の犠牲になった少女マトリョーシャの秘密などは著者自身の独自の解釈なのかもしれませんが、上出来のサイコサスペンスです。
なるほど『悪霊』の中の「スタヴローギンの告白」はドストエフスキーの全作品でももっとも危険とされる理由がよくわかりました。
ドストエフスキー文学のはかり知れぬ恐ろしさ
2005/06/25 19:35
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
スタヴローギンの「告白」(『悪霊』)という「いくつもの真実を同時に隠しもつ、永遠に解くことのできない、開かれたテクスト」に仕掛けられた、あるいは隠蔽されたさまざまな謎──「告白」の文体はなぜ「壊れている」のか、母親に鞭打たれながらマトリョーシャが「奇妙な声をあげて」泣いていたのはどうしてか、ドスエフスキーはなぜルソーに言及したのか、スタヴローギンがゲッテインゲンでまる一年聴講したのは誰の講義だったのか、また世界遍歴の最後に立ち寄ったアイスランドで何を見たのか、マトリョーシャ=スタヴローギンはなぜ縊死したのか、等々──をくねくねと迂回しながら解明しつつ、「ドストエフスキー文学のはかり知れぬ恐ろしさ」すなわち「意識という恐ろしさ、内なるポリフォニー(多声性)の地獄」に迫る。そしてスタヴローギン的な狂気=ニヒリズム、つまり世界をたんに見る対象として突き放す「神のまなざし」の傲慢さへと解きいたる。「九月十一日、神は死んで、人々が神になった」。
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