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伊藤桂一さんというと、この詩を思い浮べます。
2005/08/16 00:22
9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:和田浦海岸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
私は靖国神社の参拝をしたことがありません。
しようと思っているのですが、いまだ参拝してはおりません。
ところで、私は地方に住んでおります。
町にはところどころに神社があります。
神社には近隣町村どこでも日露戦争記念碑と忠魂碑とがあります。
さて、今年 伊藤桂一著「静かなノモンハン」が文庫で新しくなりました。司馬遼太郎・伊藤桂一の対談も、前と同様この文庫に入っているようです。この対談はこうはじまっております。
「司馬:伊藤さんがお書きになった兵士たちは、無告の、自分自身では世間に訴える言葉を持っていない人々ですね。それは、どういう心づもりではじめられたのですか」
無告の兵士といえば、伊藤桂一さんには「桜」という詩があることを思い浮かべます。
桜
天神山へ桜を見に行った
山口県都濃郡久米村の天神山へ
ただ単に桜を見るために出かけた
天神山の桜の中に立つと
眼下に一列になって久米尋常高等小学校へ通う子供らの中に
小学五年の小生の姿もみえる
おおい と呼びかけたい懐かしさだ
その行列の中のテルヒコ ノブオ シゲオ スエキチも
みんな戦争で死んで
天神山の頂の忠魂碑に祀られてしまった
七十を超えた小生ひとりがいま桜ふぶきの中で涙ぐむ
小生が天神山の桜をなぜ見に来たかを
天神山の桜だけが知っている
もはや人に何を語ることも煩わしい
春のひと日 衝撃的に
わがうちなる少年に桜ふぶきを浴びせたくなってやってきたのだ
さて、司馬さんとの対談で伊藤桂一さんは
この小説を「ここに出てくることは、フィクションはないんです」と語っておりました。
司馬さんは「経験しない世代だと、普通わかり切っていることがわからないですね。たしかに一から丁寧に説明しなければならないしんどさがあります」と語っておりました。その司馬さんはノモンハンについて「しかし、死ぬまで書くことがないかもしれません」と、ここでも断っておりました。
「もはや人に何を語ることも煩わしい」と詩にした伊藤桂一氏は
対談で
「ぼくの場合、たまたま自分が生き残ったものですから。責任とか使命感とかいったものに、どうしても律しられますね」
と小説のことを語っておりました。
もうこの小説を古典と呼んでもいいのでしょうね。
注:詩については、土曜美術社「日本現代詩文庫 新編伊藤桂一詩集」が手頃です。引用の詩「桜」も、これに収録されております。
「無意味な戦」と片付けたら、死傷者がすくわれない
2019/01/31 11:38
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
登場人物の一人が「もぐらしか住めないような草原の陣取り合戦に何の意味があるのか」と呟く場面があるが、あの当時の戦闘には重要な場所だったのだろう。あとの時代の我々が一言「無意味な局地戦だった」と片付けてしまうのは簡単なのだが、それではノモンハンで死んでいった多くの戦士たちがうかばれない、もう戦争はたくさんんだ
悲劇の激戦が残したもの、残された者
2011/08/14 13:38
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
伊藤桂一の戦争小説(戦場小説)はたぶん複雑に出来ている。ああ俺は死ぬんだなと思いながら幸運に生き延びた人の記録である。戦場の矛盾を声高に訴えるような言葉は使わない。前戦では将校も下士官も兵士も、そういう言葉を持ち得なかった。戦後になって出来事を語る段においては、自分を巻き込んだ巨大な矛盾についての説明を得てはいる。だがそれと自分の体験を結びつけることが誠実であると、自信を持つのは凡人には難しいようにも感じられる。
それから本書の巻末で、作者と司馬遼太郎の対談がある。司馬も伊藤も、戦史をなぞる過程において、戦争の実態に大きな怒りを感じてしまうという。ゆえに司馬はノモンハンについては書かないと言い、兵士としての経験のより豊富な伊藤は本書のスタイルを用いた。伊藤は戦場の実態、無名兵士たちの肉声を伝えることが、戦場で多くの生死の分かれ目をくぐって生き延びた自分の使命であると語っている。
語られるのは、歩兵部隊で2年目の上等兵、衛生兵の伍長、速射砲隊の中尉、それぞれ全滅に近い被害を被った部隊の中の数少ない生き残りとしての三つの物語。ノモンハン事件というのはソ連の機械化部隊、あるいはその支援を受けたモンゴル軍によって日本軍がけちょんけちょんにされたわけで、戦車に歩兵が立ち向かっていくという戦闘自体に、戦備や補給のやる気の無さが現れているが、攻める方も何が目的だったのかよく分からなかったりする不思議な戦争だ。とにかく前戦に行くまでに200キロ余りを徒歩で進むというあたりから悲しさが溢れる。敵を迎え撃って撤退しなかった、勝つはずの作戦だった、そういう参謀本部のアリバイ作りのための戦争。そんなことのために戦争が行われるなんて、兵士達の、いや日本人の誰も思いもつかなかった。
停戦後に遺体収集の任に就いた少尉は、同じ任務の敵方将兵と邂逅し、それから戦死した知古の兵士の背嚢が、風でバタバタと音を立てているのを聞く。戦争の論理を一瞬だけ外部から相対化して眺めながら、しかし兵士の遺体が自分を呼んだのだと思う出来事により、また死の充満する戦場に閉じ込められてしまうように見える。生き残った兵たちは、戦後の経済成長を担いながらも、常に死の記憶の待つ戦場に回帰していく。戦場ではよくある不思議な出来事と言いながら、なにかそういう構造を暗示しているようでもある。作者の書き遺したいことが、戦闘の体験にとどまらず、そこでの心象、そこから生涯に渡る影響にまで及んでいるが故に、作品にそういう構造が生まれてしまったということだろうか。
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