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投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
井上ひさしによる今回の戯曲は二人の落語家を主人公にしたもので、舞台は終戦直後の満州である。二人の落語家、円生と志ん生といえば落語好きな人にはたまらない名跡だろうし、落語を知らない人でも和田誠が描いた名人の似顔絵をみればなんとなくははんと思い出すにちがいない。落語家が主人公だけあって、今回も井上流の言葉の遊びがふんだんに楽しめる。
言葉の遊びと書いたが、井上は決して日本語を粗末にしているわけではない。むしろ井上ほど日本語の豊かさを認識している作家は稀有である。豊かであるから言葉を縦横に使って遊ぶことができる。そんな井上によく似た大作家がいる。明治の文豪夏目漱石である。まだまだ日本語が未熟であった明治という時代にあって、漱石は語り言葉である落語の力をきちんと把握していた。
井上のこの戯曲でも紹介されているが、漱石は『三四郎』の中で落語家三代目柳家小さんをこう評した。「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない」と。そして「彼と時を同じゅうして生きている我々は大変な仕合せである」とまで書く。では漱石は小さんのどこに魅力を感じたのか。先の文章に続けて。「小さんの演じる人物から、いくら小さんを隠したって、人物は活溌溌地に躍動するばかりだ。そこがえらい」と。さすが漱石だけあって落語家を芸術家とまで言わしめる、明解な理由を示している。
実はこの『三四郎』でこの小さん評に先立って、興味ある記述がある。主人公の三四郎が故郷の母に手紙を書く場面だ。漱石は書く。「母に言文一致の手紙をかいた。−学校が始まった。これから毎日出る。」今ではごく当たり前のような手紙の文面を、漱石はあらためて、言文一致とことわって書いた。漱石はそのようにして日本語の、しかも生き生きとした言葉の躍動感にこだわった作家である。井上の作品も漱石同様に日本語へのこだわりが垣間見える。だから、登場人物たちは「活溌溌地に躍動するばかりだ」。漱石流に言えば、「そこがえらい」のである。井上の作品に小難しい理屈はいらない。日本語が持っているリズムを、日本語が醸しだすおかしさを堪能すればいい。そんな言葉を、大切にしたいと学べばいい。
この組み合わせ、面白くないはずが無い
2006/01/21 16:16
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投稿者:萬寿生 - この投稿者のレビュー一覧を見る
昭和の落語名人、五代目古今亭志ん生と六代目三遊亭円生を主人公に、井上ひさしが書いた戯曲、面白くないはずがあろうか。
内地では食えないため、満州へ巡業に出かけた二人が、昭和20年8月15日の敗戦とともに侵攻してきたソ連軍により、遼東半島の先端の大連から帰れなくなり、食うや食わずと苦労する話。
読みはじめると期待するほどは面白くない。おかしいな、と思いつつ読み進めると、さすが現代の戯作者、やはり面白くなる。第二幕九場における、二人の小咄のやりとりと、それを盗み聞く修道女見習い達の聖書の文句との、言葉の対応付けが傑作。さすが言葉の魔術師、よくぞ落語と聖書とを対比させられるものだ。こじつけといえばこじつけなのだが、滑稽でおかしみがにじみでてくる。実際に芝居を見ると、もっと面白いのではなかろうか。単に面白いだけでなく、庶民の優しさと、権力者におもねる弱者(一般人)のいやらしさにたいする、さりげない皮肉などの、薬味も効いている。
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
稀代の落語家ふたりが力を合わせていくところが面白かったです。極限状態の中でも、ユーモアセンスを忘れない姿には胸を打たれました。
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円生と志ん生の戦時中の満州での話。状況によっては大変悲惨なめにあっているのに、どこかしらユーモアがあり、また史実的に当時の満州へ渡った人達の苦労が分かる本。面白かった。
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日に日に被害が過酷になる日本を抜け出し、満州にやってきたものの、敗戦のあおりを受けて、噺家二人、あちらこちらへ珍道中。そこで繰り広げられる戦争の悲哀と煩悶、涙と苦しみ、そして笑い――円生と志ん生、二人が日本へ戻れる日は来るのか?
圓生と志ん生が満州に渡っていたことは実は最近知った。命からがら日本へ戻ってきたこともなんとなく知っていましたが、まあこの戯曲通りではないだろうけど、それはもう想像を絶するような体験だったのでしょうね…
途中に挟まれる劇中歌がちょっとおかしいだけに何とも悲しい。特に禁演落語を歌った歌と四人の若者の歌は。。。(´;ω;`)ウッ…
修道院が舞台で志ん生を衆生を救いに降臨したキリストと勘違いしてるラストが爆笑ものすぎるw 実際に声に出して笑ってしまいましたwそしてそこで語られてる噺家とは? っていうのにすごく感動してしまった……苦しいことしか無い災難ばかりの世の中。ならその災難をステキなものに変えて上げましょう、笑えるものにしましょう、笑いを生み出しましょう、それが噺家、落語家ですよ……喜劇ここに極まれり。感動です。
それから三代目小さんと漱石を語るところで今更ながら「日本の近代小説を作ったのは落語なんだナ」と気付き改めて感動。私が本を好きなこと、小説を書くことと、落語が好きなのは全然関係のないことじゃないんだな。むしろルーツがそこなんだなとあったかくなりました。
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戦後の荒廃やらバタバタをユーモラスに描きつつ、井上ひさしの「笑い」についての考え方も垣間見える佳作。
表紙の絵がだれが見ても角野卓造(笑´∀`)
舞台でも観てみたい!
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20160702 演劇はあまり見た事が無い。台本だけでも面白いがやはり役者がどう演じるか?は観るしか無い。又やらないかな。
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「円生と志ん生」は2005年に上演した井上ひさしさんの戯曲。
当然ながら上演はこまつ座で、確か初演を観た記憶があります。
あまりにも有名な(落語ファン、というより「落後史ファン」にとっては、ですが)、「古今亭志ん生と三遊亭円生が、戦後直後に満州から帰国できずに散々苦労をした」、という実話の演劇化です。
ちょうどつい最近NHKのドラマで「どこにも無い国」という、まさにこの時期のお話がやっていて、なかなか映像にならない「戦後直後の新京や大連の無政府状態」が観られて、興味深かったです。
あらすじでいうと、本当に割と叙事的で。
ただ、苦労と放浪の中でも、とにかく落語を演じるという工夫や情熱に賭けるふたりの姿、というのがちょっと胸アツ。
ただ、実話としてのパンチ力も含めて、志ん生と円生、それぞれの自伝を活字で読んだ方が圧巻。
そういう意味では、終わりの淡々とした感じも含めて、井上戯曲としては、「大傑作」というグループには入らないと思いました。
(今回ちょっと縁があって活字で再読して、改めて思いました)
ただ、実話の悲惨さに対してあるリスペクトと鎮魂の感覚で、このくらいに叙事的にしか語れない、という作者の距離感のなせる意図かもしれません。ひょっとしてまた年月を経て巡り合ったら、このくらいのほうが気持ちいい、ということもあり得るのが読書の醍醐味だったりもします。
ちなみに、井上ひさしさんの「文学作品」としても、実は戯曲がいちばんなのでは?と僕は思っているのですが、
(無論、それを上演された演劇を生で見る、というのがベストなのでしょうが)
個人的には「雨」「化粧」「きらめく星座」「闇に咲く花」「人間合格」「父と暮らせば」「紙屋町さくらホテル」あたりが大好きです。
また、未読、未見の戯曲演劇も多数あるので今後、読むなり再演を観るなり、というのが長く細くの楽しみであります。
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2019.10.5市立図書館
宮藤官九郎が大河ドラマを手がけるに当たってヒントになったという一冊。古今亭志ん生と三遊亭円生が満州に慰問に渡ったものの終戦の混乱で苦労してなんとか帰国したという逸話をもとにしたお芝居。主演の二人の他に女優4人が場面ごとに旅館の女将と相客となる現地妻、娼妓置屋の女性たち、開拓村から逃げてきた若い母親たちの亡霊(?)、大連高女の女学生と教師、修道女ら、落語家たちといきあわせる違う役で登場する。渡航した行きがかり上「文化戦犯」として追われ、着の身着のまま難民としてうろうろする二人がかなしくもおかしく、大河ドラマの孝蔵の物語に親しんできたおかげで「なにもかもカミサンにまかせて成り行きのまま」とか「なめくじ長屋」とかよくわかったし、森山未來&中村七之助で脳内再生できて楽しかった。
(ちなみに2005年のこまつ座の上演は角野卓造&辻萬長、和田誠の訃報に接したところで表紙のふたりの似顔絵と裏表紙の円生と志ん生の似顔絵にあらためてみいってしまう)