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「小説への序章ー神々の死の後に」「森有正ー感覚のめざすもの」「トーマス・マン」「薔薇の沈黙ーリルケ論の試み」所収
-2010.11.27記
高踏的かつ粘着質の、精緻な言葉の連なり、読む者を否応なく深遠な文芸の森へと惹き込まずにいられぬ、こういったものに触れていると、自身の来し方が蜉蝣のごとき淡く泡沫のものにもみえ、もし叶うものなら、まだなにも知らない幼かった頃に立ち返って、もう一度生き直してもみたいなどと、そんな妄執に憑かれもする。
以下は、本書の結語に置かれた一文より―
小説こそは「嘆き」の徹底からうまれてくる時間の究極的な「反転」によって現前する「祝祭としての時間」である。
小説は読者にかかる時間のもつ積極的な効果を通し「物語的形態」という全一的な同体感を与える装置..によって時代の達成した、眼に見えない本質の生を生活させるところに、より本源的な役割をもつ。
小説の中に「よろこばしく限定」された具象的世界は意味の世界となって、霧の中からカテドラル-寺院-が現れてくるように、堅固に生き生きと現れてくる。われわれは小説の世界を生きる...ことによってわれわれをとりまく現実の生活をもう一度....象徴的に生きるのである。「生」を純粋によろこび...として生きるのである。われわれは小説という行為によって無意味な偶然的な空間を真に人間的な空間へと「反転」させ、神秘的な共同体的な非合理性ではなく、人間としての生命を快復する可能性を創造するのだ。
この意味で小説はわれわれの理性の支配の進む方向に、より意味深い役割を担いつづけるであろう。そして小説が物語という古い過去の泉から尽きない水を汲みだすとすれば、この物語の行為は太初にかえる行為であり、しかし太初の蒙昧へでなく、太初の純粋にかえる行為であるといいうるであろう。