日本の戦後が、いかに欺瞞に満ちたものであったか、それが現在の精神の荒廃となっている、そういうことが描かれる本です
2005/12/15 19:59
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
装丁は司修、装画はグスタフ・ドレが描くドン・キホーテです。基本的には単行本と同じなんでしょうが、若干色が薄くなっている気がします。2000年に出版された『取り替え子 チェンジリング』の続編とも言うべき書下ろし作品の文庫化。
前作では映画監督 塙吾良の自殺を巡る話と、彼から託されたタガメという録音機を頼りに義兄の死の真相を求める古義人、そして2人の敗戦直後の四国での物語が中心でしたが、今回は、吾良の死は殆ど語られることはなく、小説家長江古義人が四国に住み着くことに対する波紋が描かれています。
保守的な四国の真木町では、移住してくる古義人を利用しようとする人々、そうした人権派と呼ばれる彼に反発する人々がいます。ここでは対立する人々の思いと、小説家の老いによるであろう無謀な行動が描かれます。特に、故郷に住む以上はインタビューに応じるべきと考える地方紙の記者の厚顔ぶりや、学校の教師や水泳部の人間の、古義人に対する暴力的な苛めは、読んでいて辛くなります。これはまさに日本の現実の反映であることはいうまでもありません。
自害した吾良、亡き母から貰った土地に建設される住居、妹アサと妻の千樫、障害のある息子アカリ、古義人の小説を研究する30代後半のアメリカ人女性ローズ。ホテル経営に古義人を利用しようとする田部、不思議な動きを見せる医師の織田。人々の間で立ち回りながら、自ら小説家を目指す友人の黒野、息子動と古義人の関係に嫉妬する真木彦。
祖母が遺した「その時が来れば、古義人は「童子」について書くはず」という言葉。古義人の幼い頃の奇行と森との結びつき。彼が分身しコギーが森へ行く、それが「童子」と言うことの意味は。老いた古義人のドン・キホーテを髣髴とさせる錯乱振り、酒の席での暴力、中学での講演会と妨害、「ジュスチーヌまたは美徳の不幸」を巡る古義人と黒野とのきわどい会話。ローズと動、ローズと長江、ローズと真木彦、ローズと織田医師といった関係が、老いた作家を軸に廻っていきます。
この小説の中でも、古義人が難しい小説を書くようになったと独白する部分がありますが、この作品を詳しく説明しろと言われても、私には政治的な印象以外に上書くことが難しいのが実際です。マスコミの愚、人間の持つ排他性と暴力、保守といわれる人々の厚顔、そして進歩派と名乗る人種の欺瞞。まさに今の日本です。ここまで書かれて、この本を抹殺したい、と思う人は基本的に敗戦を終戦と言い換え、戦後の教育を自虐的とののしり、アジアや沖縄で皇軍が行った虐殺はなかったと声高に主張し、それでいて自分たちの記録を敗戦直後に何故か燃やした、そういう人々なんですね。
相変わらずの、まとわりつくような粘着質の文体、見通しの利かない物語の展開は、四国の樹林の中を歩いているような、不思議な酩酊感を催させるのですが、そうした鉄面皮な日本人のありようを、これでもかと私たちに突きつけてきます。いい小説かどうかはともかく、濃密な時間を味わえる一作であることは確かです。
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
老作家大江健三郎が自らの老いと失われゆく世界を見据えつつ、自らのルーツをたどるが、単なる懐古的物語とはならないのがさすがは大江である。
投稿元:
レビューを見る
びっくりしました。
大江健三郎は過去の作家ではなく、今でもかつて「同時代ゲーム」を書いた時と同じ意味で同時代性を持った作家であることが、この本から確認出来ます。
興味のある人は、村上春樹の「海辺のカフカ」と本書を丹念に比較して見るといいでしょう。
2つの小説の構造を丹念に解き明かしていくならば(本書の言い方にならってRe-readingするならば)、この2つは実は中心点がほぼ同じところにあることが分かるはずです。
ただ、惜しむらくは現在の大江健三郎がライターズライター(小説家のための小説家)になっていることでしょう。
コアな読み手、あるいは小説を書くために読んでいるような読者でなければ伝わらない書き方を選択しているので。
それ故に「海辺のカフカ」のような幅広い読者は得られないかもしれませんが、小説というものをとことん知的に楽しみたい読者が今の日本に仮に存在するとするならば、そういう読者にとっては堪えられない小説になっています。
(知的に楽しむという意味で、文庫版の解説でリービ英雄が実に的確なガイドを行っていますね。おそらくそのような的確さがリービ英雄に可能であったのは、彼が小説を書く人間であるからだとも言えますし、同時に知的に小説を楽しむ方法を知っているからだとも言えそうです。)
もしこれからこの小説にチャレンジしようとする人がいるならば、「主人公に感情移入しない読み方をしたほうが良い」と言っておきます。
感情移入しない、というよりは、主人公に感情移入出来ない小説です。
そういう意味で楽に読める小説ではありませんし、そこでこの作品を醜悪な失敗作と位置づけてしまうことも可能です。
しかし、作者の大江健三郎はそういう書き方を明らかに意図的に選んでいますし、そこで
「なぜそのような書き方をしているのか?」
という問いを発しつつ読むならば、そこからこの小説の面白さは立ち上がってくるのです。
でも、まぁ、どう読んでも良いんですけどね。
賞賛も批判も批評的な読みも含めて
「私の小説をどう読んてもいいよ」
ということが、大江健三郎がこの小説にこっそり仕込んだメッセージでもあるのでしょうから。
投稿元:
レビューを見る
小説家・長江古義人を主人公にした『取り替え子』の続編。
古義人の妻・千樫がベルリンに行ったこともあり、この巻ではローズさんという古義人の作品の研究者でもあるアメリカ女性の存在が目立つ。
大江の女性の描き方は常々気になるところだが、この作品でのローズさんの描かれ方はミソジニックで嫌な感じがした。
ラストワークに向かおうとする古義人の思考の渦の中に巻き込まれていくような気がする作品。
投稿元:
レビューを見る
「おかしな二人組」三部作の真ん中にあたる作品。ドン・キホーテをモチーフに作品は進んでいく。そして、毎度のことながら面白い。やはりアカリのキャラクターが彼の作品の中ではとても大事な、光になっている。彼の何気ない一言で、作中にパッと灯りがともる。(10/6/7)
投稿元:
レビューを見る
大江健三郎の初期は別に好きじゃないんだけど中期以降を読んで行くのが最近の唯一楽しいことといってもよくて、彼の何が好きかという理由の一つに、あの連綿としたいつ終わるともつかないかんじというのがあるのだけど、展開や終わりを殆ど気にしないで、その1ページ1ページが面白く読める。だからきっと何度でも読める。少し前まで彼の作品をいつか読み終えてしまう日が来るのを怖いと感じていたけど、ほとんど終わりなく読める、ブレイクを読んで、ドン・キホーテを読んで、また戻ってくることも出来る。こんな「森」を作り出せるなんて、魔術。
しかしながら通して読んでみて、はっきりと続きを予感させる終わり方の部分を読み終わって、理解が追いつかなくて頭が混乱していると同時に、他の作品でも幾度も語られていた、ウグイのエピソード、頭をがっきと捉えられ、その後に大きな力で一度突っ込まれ、引きずり出されるあのエピソード…、母親が居なくなった今、本人はこの小説の中では使っていないけれど、リーブと呼ばれる「跳ぶ」に近い行為の後、しかしウグイの時のように救助してくれるもののいなくなった今、自らの力で再び生きようとする展開に、私には気持ち的に追いつかなかった。
「当たり前だ、彼でさえ、ここまで来るのにどれくらいかかったと思う?」と思ってみても、それでも置き去りにされた気持ちが拭えない。
文章が悪いとかそういう話ではなくて…。どんどん私から彼がはがれていくような、どこへ行ってしまうの、と声に出したくても最早届かないくらい遠く後ろ姿だけ見せつけられるような、だからこそ今後の私が幾度読み返すことになるか分からないだけの力の差、文章力というのもそうだけどそれのみならず、彼のいる地点と私のいる場所の差というか…。読み込んで理解されるというのみでは埋まらないような差に、猛烈に疲れてしまった。こんなことで『水死』まで至れるのだろうか。
投稿元:
レビューを見る
http://blog.goo.ne.jp/abcde1944/e/f68b8374142429b509434aea096f0ee0