投稿元:
レビューを見る
再読。私が読んだのは単行本の「詩歌の待ち伏せ 上巻」ですが、文庫のリンク貼っておきます。読んでいるうちに次々と読みたい本が出てくる一冊。この人の愛情こもるやわらかな言葉で綴られる解説を読んでいるだけで嬉しくなってくる、そんな一冊です。大好き。
投稿元:
レビューを見る
ミステリー作家であり高校の国語教諭でもあった北村薫氏がこれまでの人生で思わぬ「待ち伏せ」に会った詩歌を、氏の感性と言葉で紹介していく。
本の虫である氏の、子供の詩に対する感性や、西條八十への強い思い入れが感じられる。
投稿元:
レビューを見る
なんとなくでも詩歌に興味を持つようになったきっかけ本ではあるかと。単行本版は続まで全部一応目を通してますが、文庫は思い出したときに買いに行きます…。
投稿元:
レビューを見る
本の達人北村薫が、ふと出逢った折々の詩歌。それらについて語られた本。
詩歌のこと自体よりも、ものごとに興味を持ちそれについて調べるという行為に感銘しました。ひとつの詩歌について調べる為に本にあたる。そこに引用されている文章の原典を探るべく別の本にあたり、それが呼び水となり別の詩歌に行き当たる。これはものごとの調べ方を示唆してくれ、調べるということの楽しさを教えてくれる。
インターネットの発達により、人は調べることが下手になっていると常々思っています。調べるというのは「答を知る」ことでも「答を教えてもらう」ことでもなく、「答に至る道程を知る」ことです。その過程なしに答に行き着いた処で、何の面白みもなく何の為にもならない。ひとつのものごとに対して本を介して広がり繋がっていく面白みを北村薫は示してくれ、これぞものごとを知ることなのだと思い知らされます。点ではなく、それらが集まり結ばれて面となった時、初めて知ることができたと言えるのでしょう。
投稿元:
レビューを見る
まろやかで優しい文章。
ああ、確かに、こういう、待ち伏せ、出会いってあるなあと。
こういう本に中学生くらいで出会っていたら、
きっと国語の時間が楽しかったことでしょう。
中でも、「可愛い」という言葉についての考察がとても面白かったです。
―夕闇迫る頃、はりねずみの子が迷子になり、サボテンの温室に迷い込む。
あちらに触れ、こちらに触れ、「ママなの?、ママなの?」―
(引用の、引用ですが、本文30頁より)
さて、これを読んで「可愛い」と思う(よね?)のはいかなる感覚なのか?
投稿元:
レビューを見る
とても素敵な本だった。
素敵、という言葉がぴったりな、
珠玉の言葉でつづられた丁寧な文章で、著者の詩歌に対する愛情を感じた。
選ばれた作品も含めて、美しく心に染みる文章。
著者が詩歌に出会った、さまざまな状況が綴られている本だが、
先ず「待ち伏せ」という表現がすばらしい。
作品との出会い(作品、に限らないかもしれないが)は、待ち伏せ、という言葉であらわすと深く、納得してしまう。
今後、他の言葉では表現出来ない気がする。
残念だったのは、著者の博識に自分がついて行けない事。
当然の事のように展開される作品と作品のつながりに、自分の無知から分からない事が多くあった。
漢詩から歌詞まで、著者が自由自在に行き来しているのに、追いつけなかった。
もっともっと沢山の作品に触れて、もう一度読んでみたいと思う。
全ての作品や作者について知った上で、北村さんはこういう出会いをしたのか…と読めるようになるのが目標。
ちなみに大好きな「蝶」(西條八十)の作品が扱われていたのがうれしかった。
教室の机に俳句が落書きされてるような、そんな時代があったんだなぁ…。
投稿元:
レビューを見る
【かもめ来よ 天金の書を 開くたび】
読書する時の気持ちって確かにこんな感じかもしれない。
詩歌の待ち伏せという本に待ち伏せされていた、そんな気になりました。
投稿元:
レビューを見る
北村薫が、さまざまな詩歌との出会いを語るエッセイ。
うーん。
国語の先生の話を聞いてるようだ。って、実際先生なんですよね、北村薫。
ワタクシ、高校の現国の教科書で、三好達治を書いた評論に出会って、それからがっつり三好達治にはまったという経験があるので、まぁ、ちょっとそーいうのを求めていたわけだ。
がっつり肩透かし。
ま、それはそれでもいいんだけどね。
だって、「待ち伏せ」なんだもの。
きっと、JPOPとか聞いて、突然歌詞の一部にがつんとくる、そーいう感覚に近いんだろう。
…三好達治を取り上げてるところがあって、萩原朔太郎の哀悼の詩が出てた。やっぱ、達治はいい。心にしみる。日本語の美しさが半端ないよ。と、思ったのであった。
投稿元:
レビューを見る
今まで、解釈が難しそうだと敬遠していた詩に、一気に興味が湧きました。
「他人を傷つけようとしている顔」や「れ」についての話が興味深かったです。
北村さんの他の著書にも同じ感覚が描かれていましたが、こういう優しさ・ナイーブさは大事だと思います。
投稿元:
レビューを見る
たいへんな読書家として知られる著者が、詩歌との思いがけない出会いを綴ったエッセイ評論集。
これは素直に、読んでよかった!と思った本だった。
この本が素敵な「待ち伏せ」をしてくれていたおかげで、読んでいる間、詩歌をしみじみと味わう楽しさを実感することができた。
北村さんが詩歌の「待ち伏せ」に出会ったその折々の経験を振り返りながら、詩歌を読む楽しみを丁寧に解説してくれるエッセイ集。
取り上げられるのは詩や短歌、俳句といったものから、小学生の詩や童謡まで、幅広く古今東西を縦横無尽。それらが北村氏による巧妙にして柔らかい語り口で、まるで折り紙がみるみる折鶴になるように展開されていく。
いやはや、その手腕の華麗にして愛情に満ちていること! 素晴らしい博覧強記振りもさることながら、著者の詩歌への愛情が隅々までいきわたっていて、改めて北村さんの読書へ、ひいては読むことへの愛を感じることができた。
続巻も絶対読みます。続きが文庫であと2冊も楽しめるなんて、うれしい限り。
北村先生、どうもありがとう!!
投稿元:
レビューを見る
「悲しみ」(石垣りん)の一節だけでも星5つの価値があると感じました。
この他にも親と子に関する詩歌が挙げられており、そちらも魅力的でした。
投稿元:
レビューを見る
小・中・高と12年間、国語の授業は大嫌いでした。でも、もし、この12年間のどこかで、北村薫に国語を教わることができていたなら、国語の授業の印象は180°違ったものになっていたことでしょう。
この本は、言ってみれば詩歌の評論集ということになるんでしょうけれど、平易な言葉で、著者の日常の体験をきっかけとして語り始められるエピソードは、自分のこれまでの評論や文学史やらに対する思いをひっくり返すものでした。
取り上げられている詩歌も正統派だけではなく、「じ」や「そうだ村の」など、「詩歌」と言われても思い浮かばないようなものに至るまで幅広く、普段詩歌にあまり興味がない自分でも、楽しく読む…と言うより、北村先生の講義を聴くことができました。
ついでに言うと、興味深いのは、解説にわざわざ自分が大嫌いな「文芸評論」的なものを持ってきているところです。
「<詩歌の待ち伏せ>は、メタフィジックな広がりにおいても語られ得る含蓄のある書名といえないだろうか」という書き出しで始まるこの駄文は、この書き出しで一気に読む気をなくさせてくれます。我慢して読んでみても、内容は解説ではなく、出来の悪い二次創作に過ぎません。
この解説を、敢えてこの本の解説に持ってきたのは、この本の良さを引き立たせるために、わざとやったのではないかと思われてなりません。
投稿元:
レビューを見る
様々な詩人を紹介してくれる。
歌舞伎から英文学までカバー範囲が広い。
昔の文化人は本当に博識で海外の文学にも親しんでいたのだと感心する。
芥川龍之介がビアスのファンであるとか、レイチャールズがevery time we say goodbye, I die a little という言葉をフランス人の言葉から引用したとか。
豊かな感性で、読者を言葉の世界へ連れ出してくれる。
投稿元:
レビューを見る
これまで小説ばかりで詩には縁がない読書生活を送ってきたので、たまには違う世界を覗いてみようと思って読んでみた。
なるほど、北村氏レベルの知識と教養があればこんな楽しみ方ができるのか。
自分にはまだまだ程遠い境地ですが、こんな大人に憧れます。
投稿元:
レビューを見る
<待ち伏せ>という題名。読書好きにとってこういうシーンが多ければ多いほどいい。本を開いて出会った言葉や文章に再会する感動とか、懐かしい題名を思い出し長い疑問が解けることがあるとか。
北村さんの、そんな嬉しい出会い、まるで待ち伏せに逢ったような驚きと感激が満載のエッセイ。
読書を積み重ねていると、忘れられない言葉や文章に出会う。それに思いがけない所でまた出会う。作者が引用していたり、登場人物のふと浮かんだ想いだったりする。
北村さんが取り上げる様々な詩歌との出会いは時の流れに埋もれていたのを改めて思い出す。ああそうだった、そんなところが好きだったと。
ここではタイトルのように詩や俳句短歌に限っているが、それでも読書量に比べて一冊には収まり切れなかったらしい。い1,2,3とシリーズが出ている。
あげられているものは、人柄を写してほのぼのと暖かい、どこでどんな風に出会ったか。収められている詩や俳句の断片が、作者の歴史と重なり、読んでいると、昇華されていなかった謎解きやほかの読み手が受け取った違った面や新しい意味に目が開く。知識を広げる爽快さも味わうことができる。そして鑑賞の深さや理解が、また違った楽しみを開いてくれる。
面白かった。
200ページに足りない本だが自分を振り返りながら読むと、読むことがどんなに愉快で心にしみるものか、幸せを感じた。
例えば少年少女の詩に,純粋に驚き感動する。
「じ」 松田豊子 京都・竹田小4年
おとうさんは
「じ」だった
せんそうに行かれなかった
せんそうにいけなかってよかった
ばくだんで
家のとんだ人
おとうさんに死にわかれた人
しょういだんでやけ死んだ人
お父さんは
「じ」でよかった
「じ」でよかった
不謹慎ながら吹き出し、捕らえられた。病気にユーモラスなものはないし、生理的に読むのが苦手だが力を持っている。
たまたま「キリンの詩集」でこの「じ」に再会して嬉しかった。
私も生理的な言葉を露骨に書いているのは特に苦手で、途中で本を置いてしまう、文学というものの価値を知るには読まなくてはいけないこともあるとは思うけれど。
サキサキとセロリ嚙みいてあどきなき汝を愛する理由はいらず 佐々木幸綱
セロリはお洒落、野性的という人もいたけれど
北村さんは都会的と読む
胸に抱く青きセロリと新刊書 舘岡幸子
きゅうりをかじってもセロリをかじる日常はまだ現実ではなかった。
堀口大學はある女性をセロリの芯コにたとえた「日本のウグイス 堀口大學聞き書き」
母白い。
サキサキという音で、砂漠の歌の「サキちゃんも思い出す」
「月の砂漠をさばさばと」とはいい話だった。
『閑かさや岩にしみ入る蝉の声』
その蝉はなにぜみか。北村さんはいっぴきのアブラゼミのように思っていた。
ニイニイ蝉や法師蝉では軽すぎるし日暮は寂しいし、アブラゼミが一匹ジーと鳴いて染みこんでいくと。
ところが大��になって諸説あることを知った。現在ではニイニイ蝉であろうということに落ち着いている「芭蕉全句 加藤楸邨」
また多数説もあるらしい。
多数という説があるのには驚きました。感じ方は色々あるものです。それは面白かった。しかし『作られた時と場所を考えるといた蝉はこれこれだ』などという迫り方には、正しくとも、あまり有り難味を感じませんでした、事実と真実は違います。
私はとても共感を覚えます。読書の楽しみ方もそれぞれでいいと思っているのです。
少し引用しましたが
三好達治「測量船」から「乳母車」の詩について、心惹かれる詩人は詩集がいい。
西城八十について、歌謡、流行歌を多く残しているが、生き方の他方の面から考察もしている。
黄泉路かへし母よふらここおしたまえ 星野慶子
「ふらここ」ブランコのこと
響きも優しい。「鞦韆」という固い響きもいいが、やはり日本語のふんわりとした言葉や淡い悲しみが感じられる歌に親しみを覚える。
目次は21ある、数え歌しりとり歌もあって懐かしい。
2も読んでみよう.