紙の本
「若者論の失われた10年」を超えろ!
2006/05/26 23:33
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:後藤和智 - この投稿者のレビュー一覧を見る
若い世代を口悪く罵った本——『ゲーム脳の恐怖』『ケータイを持ったサル』『下流社会』など——が定期的に出版されては、瞬く間にベストセラーとなり、若い世代の「病理」を「証明」するための資料としてさまざまなところで引き合いに出されるようになる、という状況を見るにつけ、若者論の研究家としての私はつくづく嫌気がさしてくる。そもそもこのような本を書く人たち、あるいは嬉々として読む人たちは、若い世代の「実像」や「現実」を見ようとはしていないのではないか。むしろ、マスコミで喧伝される「今時の若者」的な「記号」をバッシングし、それによって自分は「あいつら」より劣っていないんだ、と安心感を得たいのではないか、と思えてくる。
しかしそのような言論状況下でもまじめな人はいて、地味ながらも実証的な研究を少しずつでも重ねて、社会に通俗的な青少年イメージが本当に正しいのか、と懸命に問いかけようとしている。本書は、平成4年と平成14年に、都市部の若年層に行ったアンケートと、その統計学的な分析で成り立っており、テーマもまた「メディアと若者の今日的付き合い方」「若者の友人関係はどうなっているのか」「若者の道徳意識は衰退したのか」など、マスコミが好んで採り上げそうなものが並んでいる。
しかしその結果は、「記号」ばかりを採り上げて面白おかしくバッシングする人たちとは違い、きわめて実証的なものばかりだ。疑われる向きは、本書を手にとって、まず第6章の「若者の道徳意識は衰退したのか」(浜島幸司)をぜひとも読んでほしい。
この論文によれば、「「今時の若者」は道徳・規範意識が低下している」という言説はまったくの筋違いの批判でしかないことがわかる。しかもその結論にたどり着くまでにも、しっかりとした根拠を重ねているという点が、本書とは逆の結論を出している本——すなわち、ベストセラー路線の若者論本——と違う。
本書の編者は、青少年言説のこの10年を「若者論の失われた10年」と表記する。編者によれば、80年代に若者論においては少しでも含まれていた肯定的な若者像が、90年代になると急速に後退し、否定的なものが主流を占めるようになり、青少年に対する「わかりやすい」、かつ声の大きい言説ばかりが横行するようになった。もちろん、それらの言説の中には、ある程度は的を射ているものもあるかもしれないが、全体としてはやはり、そのような言説の横行はマイナスのほうが大きかっただろう。もちろん本書は、そのような言論状況に一石を投じるものであるけれども、少々気になる点がある。
それは、この「若者論の失われた10年」が、若い世代にも影を落としている、ということだ。具体的に言えば、社会意識が高いであろう若い人たちは、投書欄に投稿しては「我々若い世代は〜」などといった物言いで、同世代をバッシングする。もちろん彼らがバッシングしているのも、通俗的な青少年言説が批判せずにはいられない「記号」ばかりである。彼らは、その言説が彼ら自身と決して無関係ではないことを知りながら、そのようなことを語っているのだろうか。
「若者論の失われた10年」を超えて、若い世代が自分を口悪く罵ってきた若者論を研究の対象にする時代が幕を開けつつある。本書がその扉を開く一つの突破口となってくれれば、「若者論の失われた10年」をはね返すことができるであろう。したがって本書は、少しでも青少年言説に興味のある人が、本屋の奥まで行かないと見つけられないような場所に置かれるべきではない。本書の置き場所は、ベストセラーの棚で並んでいる売れ筋の若者論の隣にこそ相応しい。
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「メディアと若者の今日的つきあい方」、「若者の道徳意識は衰退したか」、「若者の友人関係はどうなっているか」といった問題意識から”現代の若者”を取り巻く様々な様相を解き明かした本。世に蔓延る「最近の若者は~」というようなステレオティピカルな若者論や不毛な若者バッシングに対して反論している。
この本を読むと一般的な若者に対する認識と実態にズレがあることがよくわかる。「メル友」、「オフ会」を利用する若者は10%台と意外と少ないものであること、友人関係の親密さは事故の開示の度合いから〈深い―浅い〉と単純に位置づけられないこと、若者の規範意識は案外高い(「約束の時間は守るべき」、「ゴミのポイ捨てはするべきではない」という意見には9割以上が賛成)ことはその具体例。
意識調査のサンプルが少ない(特に道徳意識に関する章)という問題もあるが、若者バッシングを超えて若者の実態を知るためにも勉強になる本であることは間違いないと思う。
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本書は、青少年研究会によって、1992年、2000年、2002年に行われた、都市部の若者の意識と行動に関する調査を、「音楽」「メディア」「友人関係」「アイデンティティ」「自己意識」という5つの観点から分析・考察した結果について論じたものである。
本書全体が、若者をネガティブにしか語らない、現代の若者論に対するアンチテーゼとなることをねらっているところもあり、章によっては、それが暴走しすぎて、かえって調査研究としての妥当性を脅かしてしまっているところがあるのが気になる(何章か暴走気味なものもあった)。が、全体としては、今、若者に起きている変化を捉えようとする姿勢に貫かれているようには思う。
量的データの分析としてもっとも面白いのは、「アイデンティティ」に関する章である。データの数値をさまざまな指標に変換しながら、現在のアイデンティティのありようを描き出そうとする姿勢は、研究者としてとても関心させられる。量的調査の可能性を見せてくれる論考であると思う。
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若者、および若者論について取り扱った一冊。
調査のデータを豊富に紹介していることに加えて、データの読み方についての解説(検定、ソマーズのD等)が付されているのが特色なのではないかと思う。統計そのものや社会調査法を取り扱ったもの以外で統計の読み方について触れられているものは今まであまり見なかったような気がする。
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若者バッシングに根拠はあるのか。若者に変化があるとしたら、どんな変化があるのか。そこんところを、印象批評ではなく、1992年と2002年の調査結果を比較しながら、データを使って検証してみようとするのが本書。それがどのくらい効果的つーかおもしろい議論になってるかどうかはおいとくとしても、姿勢としてはエライ。
特に「若者のアイデンティティはどう変わったか」と題した第5章がおもしろかった。
まず、大前提として「変わってないところもいっぱいある」。とーぜんね。そこを前置した上で、アンケートをもとに「自己意識」について10年間の変化を見ていくと。「仮面使い分け型」から「素顔複数化型」へという変化があるかもしれない、という。「場や人に合わせて、自分も対応を変える」ことについて、「本来の自分と違う“仮面”がある」と考えるのか、「その都度その都度出てくる自分は、どれも本当の自分、素顔の自分」だと考えるのか、という違いである。
若者について「アイデンティティが不確かで、未確立である」という批判がなされることがある。しかし、現代社会は多様な関係に満ちている。昔みたいに地縁/血縁/同じ会社……といったつながりが幅をきかせるのではなく、若者はネットやケータイを通じた多様な人間関係のなかにある。そういった多元的で流動的な世界では、もしかしたら「たった一つの自分」にこだわるよりも、むしろ「多元的な自分」が適応的なのかもしれない……とする。
多チャンネル化と、状況指向。「仮面」ではなく「素顔」を使い分ける。しかもそれが「自分らしさが大事」という意識と矛盾しない。そう考えると、「その場のノリが大事」「キャラかぶり」……いろんなことに説明がつく、かもしれない。
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2006年刊行。◆ステレオタイプ的な若者像、そしてこれに対する安易な印象論に基づく批判・軽侮・賛美・擁護を回避し、統計的社会学的手法を用い、その実相に迫ろうとする書。規範意識低下や友人関係の希薄さといった手垢のついた若者論を超克し、分析は丁寧。一読に如くはない書であり、また、コラムで統計的手法の内容について解説しているのは、読者としてはありがたい。◇本論とは直接的な関係は薄いが、少年法改正が拙速に行われたこと(これは首肯)、それを実行した当時の政権には別の意図・裏があるのでは、との指摘には今後注視。
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ほぼ10年前に書かれたもの
10年前とそのさらに10年前の比較
結果的には色々言われるほど変わっていないとのこと。
おそらく現在までのその後の10年も変わっていないのだろう。
結局は思い込みとか偏見とかバイアスとか。
確かに技術や道具、環境は大きく変化しているのだろうけれど。
社会調査(データで語ること)の大切さが思い知らされる。
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世代間を超えた見方を知れる
◯友人関係への過剰な配慮が苦しめる
◯仲間以外みな風景
◯若者は繊細である
◯視点を増やす
◯相手にしすぎない意識