投稿元:
レビューを見る
小森先生お得意の二項対立批判を読んだら、お次はこれ。
二項対立批判が引き起こすに小対立。その自己撞着。
二項対立は分かりやすい図式だけに気をつけなけれないけないことがとくとくと書かれている。確かにその通りなのだが、仲正先生の口の悪さと執拗なサヨク攻撃には感情的に納得できないこと多し。
投稿元:
レビューを見る
むずかしいです。やっとの思いで読みきりました。きつかったです。でも、このスタンスは大いに参考にします。
投稿元:
レビューを見る
ヘーゲル、マルクスの二項対立、弁証法の罠
プラトン哲学、キリスト教との共通点は、目から鱗
シュレーゲルなどのドイツ初期ロマン派の”アイロニー”に共感を覚える
投稿元:
レビューを見る
世間で価値判断を迫られる際に「AかBか」の二分法的な選択で迫られることが、ある主張に反対する主張(反論)する側でさえもある。さらに、互いに二分法的な性格を帯びてしまっていることを自覚していない。その際に、なぜ二項対立的な図式に嵌ってしまうのかを考察するのが本著のメインテーマである。以下、著者の主張を強引にまとめたメモ。
左右論者の二分法的思考方式(著者はサヨク人に特にこの傾向が見られると言うが)だけでなく、二項対立を超えた「第三の道」を提示しようとする立場でさえ、二項対立の図式から抜け出せていないことを自覚していない。この二項対立は西洋古代ギリシャ哲学(プラトン)以来の伝統的な思考方法と言えるが、しかし、この二項対立図式では汲み尽くせないものについてどのように処理するかは問題である(例えば、カントは『純粋理性批判』で「神の存在証明」の問題は、<物自体(Ding an sich)>を人間は認識できず、あくまで事物の<表象>を人間が認識できるように加工して認識するだけだと主張して、神が存在する余地を残しつつ、それでも神は存在すると、あくまでゴリ押しの主張を展開した。だが、このような主張はあくまで二項対立的図式を残したままで価値判断を行っており、問題点をずらしたに過ぎない)。
やがてヘーゲルやマルクスが<弁証法(Dialektik)>の二項対立的図式を初めて積極的に評価するも、<世界精神の実現(ヘーゲル)>や<共産主義社会(マルクス)>のように初めから帰結すべき目標が設定され、その目標へ進むスタイルのため、それらを阻害するものを排除しようと働いてしまう。そのような問題に対し、デリダがエクリチュール(ecriture;書記言語)が抱える「作者の意図と外れた解釈が行われること」を踏まえた上で、哲学(=思索)の営みを再考するように脱構築(déconstruction)することを主張する。
このデリダの動きと呼応したのがドイツの初期ロマン主義の文芸批評である。ロマン派は上記のような、二項対立的図式を避け、尚且つ懐疑論を即時に展開するものでない思考方式として、<アイロニー(Ironie)>を提示した。<アイロニー>は、自分の考えが間違っているかもしれないという可能性を捨てず、自分の考えについて問い続ける態度である。そこには常に自分が価値判断を下したものについても再確認をすることをしなければならない。この<アイロニー>こそが「AかBか」の選択を迫る二項対立的図式自体を斜に見ることを可能にし、二項対立的図式を避けることができる可能性を含んでいる。
正直、哲学・思想についての基本的な教養がないと、全くチンプンカンプンな書物である。だが、論理展開は丁寧で確固としている。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
「分かりやすさ」という名の思考停止が蔓延している。
知識人ですら、敵か味方かで「世界」を線引きする二項対立図式にハマり込んでいる。
悪くすると、お互い対立する中で「敵」の思考法が分かるようになり、「敵」に似てきてしまう。
こうした硬直した状況を捉え直す上で、アイロニカルな思考は役に立つ。
アイロニーは、敵/味方で対峙する。
“前線”から距離を置き、そこに潜む非合理な思い込みを明らかにする。
本書はソクラテスやドイツ・ロマン派、デリダなどアイロニカルな思考の系譜を取り出し、「批評」の可能性を探る刺激的な一書である。
[ 目次 ]
序 カンタン系化するニッポンの思想
第1章 「二項対立」とは何か?
第2章 哲学に潜む「二項対立」の罠
第3章 ドイツ・ロマン派の批評理論
第4章 「アイロニー」をめぐるアイロニー
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
20100810
「分かりやすさ」の何が罠なのか、そのことについて哲学に関する知識がなくても読めるのは第1章のみ。
その第1章の叙述を支えるのが、第2章以降に語られる著者の哲学的立場。
「分かりやすい」新書であれば第1章で十分だろうが、それで終われば善か悪かの「二項対立」に、どちらでもない、の一枚が加わった、三項対立?的な分かりやすいが実りのない読書になってしまう。
多少なりとも哲学史的な知識がないと当然読むのに骨が折れる。しかし、多少でもそれがあれば、理解できない箇所が途中いくつかあろうが読む甲斐はある。
本書への予想される批判を見越して、単純な批判者をパブロフの犬になぞらえる箇所が多いと感じたが、パブロフの犬を何度も持ち出す著者自体がパブロフの犬的なのではと思う。が、そういう私も著者に言わせればパブロフの犬なのかもしれない。
よく考えよう。
投稿元:
レビューを見る
序盤は読み易く二項対立についてなど参考になった。
中盤以降は予備知識がないのでちゃんと頭に入って来なかった。きっと俺なんかは対象外の読者なんだろう。
やたらネットの論評や2ちゃんねらーの反応を気にしていちいち事前にエクスキューズしてるのが痛々しい。
投稿元:
レビューを見る
思考は分かりやすさに甘えず、表現は分かりやすくする。アウトプットが無意識に恣意的になることから誰もが避けられる表現方法って存在しないの
かなぁ。
投稿元:
レビューを見る
本の批評をするということはつまり、よいか、わるいか、で書かなければならないということであり、したがって、この本を批評するということはできないのである。
この本は、そのような「二項対立図式」を批判し、自身の立場である「アイロニスト」を押し出してかかれたものである。
つまり彼も、鳥瞰図のように世界を見ては、それにちょんちょんとつつきをいれるだけで、自分は攻撃されないようなしくみになっているのである。
ある種の逃げを行っているのである。
著者自身は、うまく逃げたり、やる気ないそぶりをしてやるとこだけちゃんとやる、みたいな現代人を嫌っているというのに、やはり逃げるのか。罠にはめようとしているのか。と思ってしまいちょっと失望するのである。
前半の解説書としての部分はいいと思います。
無知の人にもわかりやすく凝縮されてるよ。
投稿元:
レビューを見る
前半と後半の難易度の差が激しいが後半の哲学の流れを追った説明は大変参考になる。
2ちゃんやブログの反応を気にした言い訳は蛇足。
投稿元:
レビューを見る
「二項対立」の概念の起源とそれを克服しようとした思想家と考え方を解説。分かりやすい喩えと明快な言い回し。哲学の重要問題の一つの「主客問題」と同等になるのだと。解決策の一つである「アイロニー」の説明。そして著者が論壇で苛立ち巻き添えを食ったエピソードを紹介。
第一章の状況については自分も常々感じていたことだったので、読んでいてそのとおりと同感してしまった。
ベンヤミンの意図やロマン主義批評の話はスリリングだった。新書でも実に楽しめた本。
投稿元:
レビューを見る
政治的な二項対立の焦点になっている問題に、アイロニカルな批評を試みれば、私のようにロクでもない目に遭うので、人に嫌われたくなければアイロニストになるな
批評家というのかいろいろな考えを巡らせているのだということはわかりましたが、難しくて、なかなか理解には至りません。
投稿元:
レビューを見る
予想外に(?)骨太な西洋哲学史でした。
現代思想をデカルトからかたりおこすのはよくありますが、(西欧の)二項対立的思考法のルーツをプラトン主義(!)にまでさかのぼる見かたというのは、私にとっては発見でした。
それでも抜群によみやすい。
いま同時に読んでいるほかの本とひびきあう部分もあって、愉悦につつまれる読書体験でありました。
投稿元:
レビューを見る
「右」対「左」のような分かりやすい「二項対立」の図式に陥ってしまうのはどうしてなのか、そして、「批評」ないし「評論」と呼ばれる営みの役割はいったい何なのかという問題を考察している本です。
もともと現代思想は、こうした二項対立の図式をズラす戦略を編み出してきました。二項対立の発祥は、プラトンがイデアの永遠性に基づいて提出した霊/肉二元論にまで遡ります。またヘーゲルは、「霊」すなわち主体と「肉」すなわち客体との対立が、弁証法的なプロセスを経て統合されると考えました。ところで、ヘーゲルの哲学においては、自己自身の哲学的理論体系と、当の体系が過去の諸体系とどのような相互関係にあるのかというメタ理論とが、明確に区別されることなく結びつけられていました。そのために、こうしたヘーゲルの哲学理論の中核にある「絶対精神」を批判する試みは、メタ理論の部分でヘーゲル哲学を補強する結果に陥ってしまうことになります。著者は、こうしたヘーゲルの弁証法的理論の呪縛を逃れようとする、ベンヤミン、アドルノ、デリダの試みを紹介しています。
さらに著者は、ベンヤミンの『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』以降再評価されているドイツ・ロマン主義の「アイロニー」の戦略を紹介します。シュレーゲル兄弟やノヴァーリスは、文学的な創作活動をおこなう「主体」はみずからの「意図」を完全に把握することは不可能であるという立場から、主体の意図が作品の展開の中でズレてゆくことや、主体としての「私」の中にエクリチュールを介して他者の意図が入り込んでくることに着目しました。彼らは、そうした意図を超えたところで働く詩的想像力を、「超越論的ポエジー」もしくは「ロマン主義的ポエジー」と呼びます。そしてそれは、つねに「生成」の途上にあって「完結」することがないと考えられています。「批評」とは、まさに作品の「批評」という当の営みを通じて、詩的想像力の「生成」に加担する営みのことにほかなりません。著者は、こうしたドイツ・ロマン主義の「批評」概念に見られる、みずからの思想が事後の反省によって新たに捉えなおされる可能性に対して開かれているという意味での「アイロニー」のスタンスを見なおし、その可能性について語っています。
投稿元:
レビューを見る
「アイロニカルな批評」ということで、アイロニーそのものについて、最初から最後までじっくり書かれているのかと思ったらだいぶ違った。
この辺りはこの著者のいつも通りという感じで、安心してページをめくることができる。
しばらく二項対立の話が続き、二項対立というのはわかりやすさMAXなのだけど裏表の関係になる問題がある、というあたりでアイロニー臭が少し漂う程度。
この二項対立や弁証法について、「この先に正しいものが存在する」という自身の正義を思い込みと指摘したり、「誰もが二項対立のどちらかの側に存在するはず」という根拠のない安心感を得たいとする衝動について、哲学/哲学史の視点から書かれていて、哲学が正直よくわかっていない自分が読んでもおもしろかった。心理学だとこのあたりは白黒思考とか防衛機制とかの(なんとなく科学的に思える)説明で終わってしまうので、ちょい物足りないと感じていたので満足できた。
あと「過ぎ去りゆく自然の後を追いかけるものとしての芸術」というのはニールヤングを思い出したわ。