紙の本
平和に耐え得ない狂気を鎮魂するとしたら…
2006/07/21 23:13
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ヒロシマから語り継がれた「原爆の火」で<私>の結婚式のキャンドルに火を灯す父親のアイディアに娘は違和を感じる。その過剰なメッセージは社会的正義を体現しているからこそ、頭では抗うことは出来ない、そこに、素晴らしい「戦後平和民主主義」のメッセージが刻まれている。でも、娘は言葉にならない違和感を裡に蔵して、父親が聖人さんから分火してもらった「原爆の火」を「フツーにやりたい結婚式」に点火することに、ためらいを感じる。
結婚式だからこそ、好い加減に妥協したくない、最初の物語『永遠の火』は全編に流れる4つの物語の助走に相応しいフツーの日常の風景の中に原爆という異化を行う。それがいかにも工夫を凝らした一番バッターのクリーンヒットという感じ。原爆に関心のない人でも、ふと、そのことについて娘とともに考え初めていることに気がつくかもしれない。
閘門式運河のように4つの物語は4つの閘門ですね、2番目の閘門は広島平和記念公園での小児癌に罹ったことのある中学生とホールで被爆者体験の語り部をやっている老婆とミンミン蝉の降りしきる夏の盛りの真っ昼間、ベンチに並んでそれぞれの思いを噛みしめる。『時の川』は二番バッターで、三番目の『イワガミ』、四番目の『被爆のマリア』の本流につなげる役割といった格好でしょう。 『イワガミ』では等身大の作者らしい作家が登場しドキュメンタリーの趣がある。取材で訪れた全国紙の広島支局で、『磐神』という小説を発見する。それまで、様々な原爆資料や被爆者にインタビューしたのですが、一番目の『永遠の火』の娘のように言葉にならない違和を感じて作家は原爆について書くことを半ば諦めて東京に帰ろうとした矢先、被爆者宮野初子著『磐神』に出会うのです。
記者に巫女が書いた御詠歌のような小説だと言われるが作家はこの小説に取り憑かれる。でもそれは作家にとって「イワガミ」は「賢者の石」であったのでしょう。ランディさんは一気に最後の閘門を開けて広い海原に飛び出す。満を持して弓を放つ、それが四番バッター(物語)の見事に弧を描いた『被爆のマリア』です。
《マリア様、人の目は武器です。/どうしよう。あの人が見ています。なにか言いたげです。だんだん近づいて来ます。目が光っています。赤く光っています、》
ランディさんの原爆の火は60年後のこの街にも灯っている。『被爆のマリア』の無惨さを日常の皮膜をめくれば、すぐそこに見出す、今そのものの世界の生き辛さ、一人一人の実存を通して発見してゆく、その呻きの向こうに作家は政治的なメッセージで回収されない、何かを作品化するしかないのであろう。キャンドルに火を灯す戸惑いをランディさんが持ち続ける限り表現の泉は枯れないと思う。
歩行と記憶
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うーん。原爆を落とされた広島、という現実が強すぎて、小説が負けているような感じ。ちょっと偉そうですみません。
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戦争を知らない世代から捕らえた、広島の原爆をテーマにした短編集。
原爆の話は得てしてどきつい物が多くて苦手なのですが、この本は戦争を知らない世代として、共感しながら読めました。
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広島や長崎の人等、原爆に関わった人たちの話。
平凡な主人公が原爆の火を結婚式で使うことになりそうな話がおもしろかった。
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表題作はなんかもうへこむ感じ。被爆のマリアが唐突に出てきて違和感あったな。「永遠の火」がよかったなあ。原爆をテーマに持ってきてこういう風に書けるってのはちょっと新鮮だった。
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戦争に関する本はあまり好んで読みませんが、田口ランディということで読みました。何故好まないのかというと、経験したことがないので、何も言えないからです。ただ、一人一人が平和のために出来ることって、なるべく心穏やかに、優しく人に接することだと思います。それくらいしか、思いつきません。
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1,いつかの実力テストの問題文に使われていた。みんな胡散臭い。2,一番響いた。求められているものがわかるだけに辛い。自分の無力を目の当たりにしてしまうから。だから平和学習とか環境問題に対する取り組みとか苦手なんだ。もどかしさばかりが募る。痛みを感じ取ってあげられたとして、あたしはそれを癒してあげる術は知らない。優しい悪夢だ。3,感じなくていいはずの罪悪感の存在は生きていると同時に得ている。意識していないだけで、誰しも。万人に受ける文章はない。ただ一人へ届けば良い。しかし、もし届いてしまった場合、どうすればいいのか、誰も教えてはくれない。4,苦手。こういう読後感のわるい話を最後に置かないで…しんどい。救いがない。借金に関係するお話はいやだ。暴力的なシーンに目を伏せるほど感受性があるわけじゃないけれど、なんていうか、きつい。かわいそうだけど自業自得だとも思う。いらいらして、吐き気がする。
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読みながら、胸がムカムカしてたまらなかった。
ムカムカの原因は、たぶん、登場人物たちのせい。
弱かったり、無関心を装うとしていたり、自虐的だったり、不器用だったり・・・出てくるのは、そんな、人間ばかり。
「原爆」という最大の悪と、現代を生きる人間の心に潜む悪。それが、不思議なほど上手くリンクし、描かれている。
私は、主人公たちの中に、いつの間にか、自分の姿を見つけていた。
こんなにムカツク彼らと、実は、同じ?そんなことを考えて、また、ムカムカした。
ああ、なんともいえない読了感。なんだろう、このモヤモヤは?
3編の小説の合間には、取材旅行先のエッセイが収録されている。その中に、取材した被爆者の方の言葉があった。
「人間は、神であり、悪魔ですから。」
私の中にも存在している、善と悪。強さと弱さ。いつ、それが逆転するとも限らない。
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私が大学で所属していたゼミでは、先生が広島の原爆を巡る研究をしていたこともあって、毎年8月に有志が集まって広島に調査旅行に出かける風習がある。私はこの本を、その広島へ向かう車中で読んだ。向こうについてから分かったことだが、現地・広島では、この本は非常に厳しい評価を持って受け入れられたようである。中国新聞には「戦争の記憶の風化を感じさせる」と評論されている。それは、偏にこの本の持つ「語りの主体」の問題性に起因するものだと考えられるだろう。従来、「原爆文学」と言えば、例えば林京子や原民喜のように、原爆を実体験として語りだす一人称的な取り組みがほとんどであった。しかし、戦後60年以上を経て、そうした取り組みに限界が訪れている。実体験を持つ人々が高齢により死んでいくという世界の中で、「原爆文学」は一人称の主語を持てなくなりつつある。本書の著者である田口ランディは、戦争も原爆も経験していない世代の人間である。今後は、彼女のような戦後世代の人間たちが「原爆文学」の書き手にならなければならない(それを描き続けることの是非は別として)。「自分が体験していない<原爆>という体験をいかにリアルに描き出すか」というランディの取り組みに、同じく戦後世代の読者である私などは、凄まじい共感を持って接することが可能であった。しかし一方で、もう少し上の世代、原爆や戦争の影響を色濃く受けた世代や、あるいは広島の人間にとっては、若干抵抗感があるかなと思う節もある(特に、原爆による「恐怖」あるいは「突然の暴力性」の描写を、DVのそれにオーバーラップさせるようなことは、果たして問題の本質を矮小化させているとは言えまいか?)。ただ私は、広島からも原爆からも隔絶された場所で育ちながら、なぜかそれに関心を持たずにはいられなかった個人としては、この作品でランディが伝えるものから、大変な勇気をもらった部分がある。私たちの世代の「原爆文学」として、これからも是非読まれていってほしいと思う本の1つである。
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久々に田口ランディ。よかったです。
どれもよかった。電車の中で読んだら倒れそうになったけど。
だけど、どう感想を述べていいのかわからない。
こういうテーマは、ややもすると子供の読書感想文みたいに
「だから平和がいちばんだと思いました」とか
「戦争はいけないと思う」とかいうコメントしか
しちゃいけないみたいになっちゃうしねぇ。
もちろん著者はそうじゃないヒロシマを
とりあげたと思いますが、読むアタシはまだまだ
ヒロシマ&ナガサキ・原爆・戦争反対の単純な方程式に
飲みこまれたままです。
長崎、行ってみたいな。
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著者の視点で描いたヒロシマ・長崎。内容に共感はしないけれど、
せめて夏にはこの題材の本を意識して読んでいこうと思う。
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広島に修学旅行に行って戦争体験を聞いたり原爆資料館に行った時に感じてしまう
他人のトラウマ、激しく辛い過去をどうしても感じ取らなければいけない時の、純粋な苦痛や、
「やはり自分は体験していないので分からない」っていう、根本的にどうしようもない気持ちや、
自分以外の人間がすべて順風満帆に見えて、もがこうとも本当にどうもならない時の諦めに似た静謐さとか
共感しすぎてちょっと辛くなった
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「ヒロシマ」というと原爆のイメージがどうしても強い。原爆が落ちる前の「広島」はとても美しい街だったそうな。原爆を背景にしてしまった禁断の短編集。田口ランディの作品は主人公が絶望から自分なりの答えを見いだせるものが多いけどもこれは・・・?強い精神力を持って読むことをおすすめします。
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田口さんの好きなテーマ
ゆーたらなんか失礼な感じもしてまうけど
スピリチュアル的な要素には
いろんなもんが含まれとって
例えばオカルトやったり宗教やったり
どろどろしたダークな部分も
嫌なもんも全部
すっきりそのまま言葉にして
それが話になる感じ
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広島。戦争。あるいは原爆。
重すぎて、気になりながらも避けてきたテーマ。
でも、田口ランディが書く広島は知りたかった。
彼女の感じ方には通じるところが多いから。
他の三作品は、ふう~んとしか感じなかったけど、「イワガミ」だけはズンときた。
原爆の前の広島。
縄文の時代から日清、日露戦争の時代まで。
そして原爆がやってくる。
『磐神』という(たぶん)架空の作品の中で語られる、そのとき起きたこと。
広島の鬼門にあたる山の上に坐し、すべてを見てきた巨石が、神の使いであるキツネたちに、死者の無念を至福の記憶を蘇らせることで浄化し、彼岸へと導かせる。
そのイメージは、とてつもなく切なく、神々しい。
だけど、作者がこの挿話で語らせているのは宗教ではなく、至福の記憶が苦痛を消し去り魂を鎮めるということ。
あるいは、世界一元気な被爆者の、「核なんて役に立たない、そんなものを作っても無意味だ」と、自分の存在によって証明しようとする意思や、「人間は神であり、悪魔ですから」という言葉。
今も苦しみながら被爆体験を語る語り部が、原爆前の広島の街を楽しげに語ること。それが部屋の空気すらも変えること。
広島で起きたことは、耐え難い苦しみであり、二度と起きてはならないことだけど、その苦痛を語り継ぐことが、そしてその苦痛を受け継ぐことが、本当に答えなんだろうか。
人間は人間に対し悪魔にもなるし、神にもなる。
祈り、弔い、供養することの力を、伝えられたような気がした。