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時代を経ても色褪せないその価値感 - 「用の美」
2012/09/21 18:24
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Fukusuke55 - この投稿者のレビュー一覧を見る
バーナード・リーチ展を観て、その勢いのままに目の前の日本橋丸善に飛び込み、購入した一冊。
1920年代の「民藝運動」をリードした柳 宗悦さんが1941年に出版した著作の復刻版です。
「民藝」とは、民衆が日常に使う工芸品であり、民家、民具、民画を総称して「民藝」と呼ぶ・・・
「民藝」の真髄、「用の美」というのは、日常に使われて(用いられて)こそ美が宿るものであり、質素こそがまさに徳と言える・・・。
いくつか印象に残った箇所をご紹介します・・・
・・・用い得ないことにおいて、美もまた死んでくるのです。(p.28)
技巧に走る大名物(観賞用美術工芸品のこと)に丹念・精密さはあってもそれは「美」ではない。技巧の歴史は美の歴史ではない。
民藝とは何か、何がそれを美しくさせたか。(中略)なぜ「下手」と云われるものに美が宿るか。普通の品たることにどうして美があるか、かかる美はいかなる社会を要求したか、いかなる経済を保障するか、その美がどんな関係を私達の生活に持ち来すか、なぜかつてできていたのに今できないか、どうしたら未来にもできるか。これ等の疑問から大きな真理の展望が吾々の前に開かれてきます。(p.54)
これらの問いかけへの解が、まさに「民藝運動」の精髄なんだろうなぁ。
展覧会や「銀座 たくみ」で実際に見て、触って、自宅に戻って使ってみると、やわらかさと暖かさに包まれて、確かにちょっと満たされた幸せな気持ちになります。この「ちょっと満たされた幸せな気持ち」こそが、今、日本人に最も必要なものなのかも知れません。
約一世紀の時を経て、この価値観は依然として語り継がれ、受け入れられ、実践されていることを考えると、日本人が日本人たる価値感のひとつであり、共通してもつ心のありようだと思います。
昭和初期に日本各地を巡り、発掘し、日本のみならず世界中にこの価値観を発信した彼らの仕事は、今でいうキュレーター。そこにある「モノ」、「コト」に意味と意義を見出して、その価値を伝播させています。
・・・やっぱり、日本民藝館に行ってみたいな。
紙の本
昭和初期に始まったとされる「民藝運動」の真髄がわかる一冊です!
2020/03/12 16:38
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、「民藝」及び「民藝運動」について理解できる格好の入門書です。「民藝」という言葉が流行して久しいですが、この意味を知っている方というのは意外にも少ないのが事実です。同書によれば、「民藝」とは私たち一般の民衆が日常に使う工藝品を指し、民家や民具、民画を総称して「民藝」と呼ぶのだそうです。日常使うものですから、使い勝手がよいように質素な作りとなっていますが、そこに芸術的な美があると言います。昭和の初めに創始された「民藝運動」は、まさにこの「質素さ」と、そこに内在する「美」に注目したものだったのです。同書を読まれることで、この「民藝」というものの奥深い思考が理解できるようになります。
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民藝運動で有名な柳宗悦の本。意外に読みやすい。
今和次郎とはまた違った観点で、名もない職人による民間工芸に美的価値を見出した人です。
ちなみに東大では超能力の研究をしてたらしいです。
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この名文にやられた。ただ、「真の美」という発想がいかにも時代を感じる。私の世代の人間には、逆に民藝もまた骨董の一種と化しているように見えるから。それに、他の本で見るようなゴテゴテと色んな民芸品を所狭しと並べている人は、正直言って悪趣味にしか思えない。ただ、河井寛次郎記念館や日本民芸館のように、客への心遣いを感じる装飾としての民芸品はさほど嫌みはない。何事も中庸を良しとするのだろうか。その意味で、「なぜ柳氏は茶道の世界を批判したのだろう?」というのが自分の中では疑問として湧いた。茶道のデフォルメはもはや用の美を忘れたと言いたいのか。それとも、千利休を称揚し、その美的感覚がスタンダードとなる中、流れに竿を指したかったのか。もうちょっと勉強すれば、実際の柳さんの歩みから答えが出そうな気がする。
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『民藝とは何か』、『日本民藝館について』、『民藝の性質』いずれも似たようなことを言っていると感じた(おそらく多くの人が同意してくれると思う)。
だから、読み進むうちにだんだんと読むスピードが増していった。
そして、はたと立ち止まって、「これってホントに読書なのかな。やっていることは速読と似たようなもんで、いつの間にか『早く読み終わらせる』ことそれ自体が目的になってないかな。俺はそんな読書がしたいわけじゃない。」と思った。
しかし、その一方で速く読むことそれ自体はそれほど非難されるべきものでもないという考えもある。
高橋源一郎は「『明治の文章』は明治人の音読の速度で読まないと味わえないのではないか」という仮説を立てたという(『態度が悪くてすみません』所収の「速度と祝福 God speed you」)。
これが書かれたのが1940年前後。
ならば、リズミカルに読んでも問題ないのではないかというわけだ(昔の人は今より早口だったみたいだから。それに文章もリズミカルな漢語調だし)。
ああ、全然内容に触れてなかった(まあ、僕がやってるのはレビューという名の日記なので)。
言ってることは至極全うなことだと思う。
錯雑とした意識に捉われない、日々の健康的な生活の中から生まれる実用的な民藝品にこそ真の「美」が存在するのだと(多分こんな感じ)。
でも時々横槍を入れたくなることもありました。
僕にとって象徴的なのが、人々が在銘の品を求めるのは、「それは『銘』を愛し、『人』を愛し、『極め』を愛しているのであって、美そのものを見つめているのではない」(p.64)という部分。
これはブランドの概念にもつながってきそうな部分ですね。
宗悦さんの言っている「美」にはだいたいにおいて賛同しますが、僕はそれがいつの間にか「健康的で実用的であるといった諸々の要素さえクリアできればそれは無条件に素晴らしいものである」ということになってしまうのではないかと恐れます。
それでは在銘の品(いわゆるブランド)を盲目的に求める大衆と全く同じことではないかと思うのです。
宗悦さんがこのような反論を想定していたのかは分かりませんが、宗悦さんはそうした諸要素の拠って立つところとして、さらに「直観」というものに説明を求めました。
「直観」で諸要素を、また美を感じるのだから、そこに自身の独断の入る隙はない。「もし見誤るなら(それは)充分に直観が働いていないからです」(p.93)と。
僕は人が皆(偏見などを取っ払って)「直観」で物事を見れる、またそこで同じことを感じるであろうということを信じていない人間ですから、ここらへんの記述(この文章の核な気もしますが)には多少の違和感を感じました。
まあそんなことはどうでもいいか。
今度日本民藝館に行ってみたいと思います。
(2007年09月16日)
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たまたま目にとまった。柳宗理の父について興味を持ったから読んでみた。正直、宗悦が紹介する民藝を見ても美しいと感動をすることはない。ただ彼の考え方は嫌いではない。美についてそこまで真撃に向き合う姿勢には敬服する。民藝はさておき、自分なりの美の基準について考えを持つきっかけとなった。
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・・・・・書きかけ・・・・・
柳宗悦は、49年前の1961年5日3日に72歳で亡くなった思想家・美学者・宗教哲学者。
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柳宗悦の民藝に対する考え方には感心するところはとても多い。
ただ、読み物としてですね、同じような文章の繰り返しなので、結構読むのがしんどいです。。。
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柳宗理のお父さんの柳壮悦。民藝運動を興した人。駒場にある日本民藝館はこの人の活動の中心地。
フォークアートとアートというふうに二つに分かれちゃって美はアートの方にあるってことになってるけど本当?みたいな話がずっと繰り返される。いろいろなところに書いてある文書をとりあえずまとめて本にした感じなので繰り返しだらけなんだけどおもしろい。
無名性
シンプリシティ
廉価性
生活への密着
ローカリティ
みたいなのがカギだと。そして、美しさの本質になってるのは絵師が、大量に同じものを生産する中でのディシプリンによって生まれるのではないか?みたいなこと。同じ絵を大量に書くことでその絵の本質に達するみたいなこと。大量に行われることで効率化が行われ、その事物の本質に達するということ。
勃興期の茶道の大名物とかも全部民藝じゃん。作家性のあるやつとかだめじゃんなんかわざとらしくて。
スマホに当てはめるとどうなんだろう。朝鮮からわたってきた民藝品が本当の美であるということなんだよね。でもs5のバンドエイドは違うだろうなという気はするが。
あと、壮悦さん、分析のなかで、
コミュニティとか、宗教とか、ちょっと時代的にインターナショナルな感じに行きます。そういう時代だったんだね。
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芸術作品の見方を考えさせる本。有名性からくる「良さそうなもの」を認識するのではなく、無名性でかつ実用的なものにこそ美があると言っている。確かに有名なものや、ブランド品はそれだけでよく見える。美しさとはなにかを考えるな。
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しばらく前に日本民藝館の展示を見に行った際、館内の売店で見つけた本。
本書は、民藝運動の創始者である、柳宗悦(やなぎむねよし)による、民藝論の入門書です。
著者自身が民藝学概論、と位置づける表題の小編と、やはり民藝の概念や良さについて、簡潔に語った随筆がいくつかおさめられています。
原本は1941年に刊行されていますが、現代仮名づかいに改められ、文字の大きさや組み方も新しく、読みやすい仕上がりが有り難い。
本書における著者の主張は終始一貫していて、民藝品は、大衆が用いる工藝品として、大量に、廉価に、簡単な手法で、実用的であるために不要な装飾を省き作られたことで、無心の健康的な美がやどっている、それはいにしえの茶人達が愛した美であるーーとしています。
そして、「ここに用というのは、単に物への用のみではないのです。それは同時に心への用ともならねばなりません。」という言葉に、東京帝国大学哲学科を卒業した宗教哲学者でもある著者の人となりが、象徴されているように感じました。
展示を見た後、たまたま売店で1つ700円くらいの湯呑みが気に入ったので買って帰ったのですが、帰宅後いつものマグカップでなくそれでお茶を飲んでみると、これまたいつものティーバッグの番茶が、自分比で3倍くらい美味しい。
「私!いま!お茶を飲んでるーー!」という気分が腹の底から湧いてくるというか。
「心への用」って、ひょっとするとこういう気分なのかな。
本書が執筆されてから、80年近くが経過した現代には、無印良品も100円ショップもあり、民藝品が、廉価の、無名の品々であるとは、一概には言えません。
でも、湯呑みで番茶を飲むことが、単に水分を補給するためだけでなく、ひと息つく時間になったり。
団扇であおぐことが、ただ汗をひかせるためだけでなく、炎天下を歩いてきた自分への労いになったり。
民藝の品々を見ていると、日々は単なる通過点ではなく、今を感じながら生きる喜びこそが大切なのだと、語りかけられている気がします。
どれだけ経済、社会、生活が変化しても変わらないことは何か、本書の言葉が伝えてくれているように思いました。
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・なんで読んだか?
アートについて深める一冊。
・つぎはどうする?
ぶるーおすすめの「日本の手仕事」を読む。柳宗悦と彼の民藝論についてもっと理解したい。
・メモ
民藝の美しさ。その美しさをつくるもの、その美しさが意味するものについて。その美しさは農にもバッチリ関連する。
ふだん使いするもの、誰でも日々用いるもの、毎日の衣食住に直接必要な品々、それが民藝品
姿は質素であり頑丈、形も模様も単純。つくるときの状態も極めて無心になる。材料も天然物であり、その土地の物質。目的も実用品で、日々の生活に必要なもの
貴族的なものは真逆
作りては職人と芸術家にわかれる。
『なぜ特別な品物よりもかえって普通の品物にかくも豊かな美が現れてくるか。それは一つに作る折の心の状態の差異によると云わなければなりません。前者の有想よりも後者の無想が、より清らかな境地にあるからです。意識よりも無心が、さらに深いものを含むからです。
主我の念よりも忘我の方が、より深い基礎になるからです。在銘よりも無銘の方が、より安らかな境地にあるからです。作為よりも必然が、一層厚く美を保証するからです。個性よりも伝統が、より大きな根拠と云えるからです。人智は賢くとも、より賢い叡智が自然に潜むからです。人知に守られる富貴な品より、自然に守られる民藝品の方に、より確かさがあることに何の不思議もないわけです。華美よりも質素が、さらに慕わしい徳なのです。身を飾るものよりも、働くものの方が常に健康なのです。錯雑さよりも単純なものの方が、より誠実な姿なのです。華やかさよりも渋さの方が、さらに深い美となってきます。なぜ民藝品が「美しい民藝品」となる運命を受けるか、そこには極めて必然な由来があると云わねばなりません。
美への認識はすべて直感であり、直感において観ることは思うことよりも先である。
美のためにつくられたものが、用のためにつくられたものよりも美しかったことはない
用を忘れて美だけを求めるとき、それは「美術品」になっても「工藝」にはなりえない。用美一如である。
平常心の自然さから美しさが生まれる。民藝品の美は生まれる美であり、つくられる美ではない。
工藝美は社会美であり、工藝の問題は人類の道徳の問題である。ラスカルはいった、美は道徳である、と。
商業主義では美しい品はうまれない。利を第一とせず、用を第一とし、ギルドという組合で結びついた人間がつくるもの。個人個人の作品ではなく、統一ある一時代の作品であり、一民族の作品である
民藝館では、それが上等のものか普通のものかにこだわっていない、それが美しいかどうかだけを見ている
美術品、fine artが、純粋藝術、pure artと実用品、practical artになった。
モリス(william morris)以降、造形美は美術と工藝 arts and craftsになり、藝術家artistに対し、職人あrtisanになった。
藝術ばかりが評価されてきた。近世の作品の基礎は、①個人の上に成り立つ。自己の表現をおいて深い美はない。②自由を出発点とする。一切の拘束から開放さ��ずして真の美はない。③純粋に美を追えば追うほど、その作品は藝術度を増す。実用性からの離脱を伴う。しかし、個人的なものよりも超個人的なものにもっと大きな深い美があるのではないか。近世の美術には異常なものも多く、虚無的なもの、悪魔的なもの、醜悪なものにさえ美の対象を求めた。美の世界の自由主義は多くの秩序を破壊した。そして、美は人間の生活そのものを深め温める日々の伴侶であった。
民藝の美は、①実用性。美が用途と結合し、生活に即して生まれてくる。美を健全にする。茶道は「生活の美学。」②多量につくられ廉価であること。美しいものをたくさん安くつくることが必要。社会的、経済的に満足させるもの。③平常性。常態の美。何か変わったものを求めると、異常なものや病的なものに美を見出そうとしてしまう。民藝はnormal artであり、natural artである。最も自然な状態にある美が一番美しい。④健康性。最も多く社会の幸福を約束するものでないといけない。民藝品は一番の働き手であり、健康的でないといけない。⑤単純性。質素であり簡単であること。単純美。⑥協力性。近世では他の誰にもできないような仕事であってこそ個性の表現とされ作者の名を誇っていた。民藝では名乗らない。作者の不浄な野心や欲望を拭い去り、無心な清浄なものにしてくれる。大勢の人の協力の仕事である。民藝品は、各々持ち場があり、協力して仕事が完成される。個人で美を生むのではなく、大勢で協力して美を生むことが大切。個人の名誉より全体の名誉を重んじるべき。⑦国民性。民藝は国民の生活を反映するから、国民性が最も鮮やかに示される。民藝は地方的工藝に依存する。地方にこそ特殊な材料の所有者であり、独特な伝統の保持者であるから。国民的伝統の上にこそ、強固な国民的美が発露される。国民的な作品ほど普遍的要素を含むものはない。国民的なものは、どこの国のものとも並在し調和する国際性をもっている。国家的なるものをお互いに尊敬しあうことで、将来の世界の平和がある。民藝の美学は私にかかる新年を呼び起こしてくれる。
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名もない人が、生活のために拵えたもの。
過剰さも、個性もいらない。無駄なものがないからこそ、美しい。
わたしは、芸術なんて無駄なもの、ないならないで過ごせるもの、個性的で唯一無二のもの、でもなかったら、寂しくて自分の心が求めるもの。という風に思っている節がありまして、
その対極にあるものが、民藝なのだろうと。
わたしは今、そのような民藝にとても強く心を惹かれています。
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民藝とは、運動である。
民の協働としての運動である。
とても面白い視点を与えてくれた、と思う。
芸術というものが権力を志向するのに対して、民藝は協働を呼ぶ。現代のシェアリングエコノミーにも通じる、何かがここにはある。
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アートとサイエンス、人間と機械、定性と定量、be or have、よく語られる最近の二分に共通する、民藝と貴族的工藝。この視点で読むととてもわかりやすい。