紙の本
美しいものを作るひとが、さらに美しさに対峙する。
2020/09/09 00:17
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:タオミチル - この投稿者のレビュー一覧を見る
自らも塗師という「モノを創るひと」である著者が、モノを作り出すひとに焦点をあて、「美しいもの」に対峙したエッセイ集。
経済的に大きな痛手を負って、その対策としては薄利多売という方法が主流となってしまったニッポン。その後、安物の大量生産、大量消費そして大量廃棄の方向へ。
...変わろうとしない脆弱な社会の流れを見るにつけ、そうゆう社会と、なるべく無関係でいられる方法を虎視眈々と探す自分がいて、こうゆう物語にひっそりと憧れを抱いたりする。
投稿元:
レビューを見る
輪島塗の塗師・赤木明登が、早川ユミさんやヨーガンレールさんなど物づくりをする友人たちのことを書いたエッセイ集。
投稿元:
レビューを見る
輪島の塗師・赤木さんが工芸作家(インドにも・・)とか経済学者、フードジャーナリストなどと「美しいもの」について語りあう探訪記。
平明で読みやすいけれど、そこには生きること、作ること、観ることへの赤木さんと訪問者の楽しい語らいとつっこんだ思索ともいうべき討論がある。
生きる・暮すっていうことにこんなに真摯に向き合っている人々は、やっぱり芸術家です。
投稿元:
レビューを見る
きちんと生活しようと思える
きちんと自分らしくいたいと思える
眺めているだけでもいい
美しい心をもつ人が作るから美しいものなのか?
美しいものだとおもったら作った人はいやな人だったということは?
それでも向き合っている人・ものと気持ちいい関係をつむぐ。のが美しさにつながるのでは。
の辺り確かに。。。
リーさんの器と竹次郎さんの器は、まるで逆だという記述もおもしろい。
一方からみると「この器を、茶碗として使い込んでも、何も変化しないだろうから、つまらん」の一言。
作者は、でもどちらも素敵と思える不思議さ。
投稿元:
レビューを見る
この人の進路の選び方が、人生のひとつのサンプルとして気になっていたので。
哲学科を出た後編集者を経て輪島へ渡り独立して塗師として成ったという人に興味があったのです。もちろん、最初にひかれたのは、このひとの作品だけど。
美しいものをつくりたいと思っていて、でもじゃあ「美しいものってなに?」という話。
雑誌の連載をまとめたものなので、いろんなことの合間にちまちま読み進めてました。おもしろい。
投稿元:
レビューを見る
これを読んでいる間、
とてもいい時間が流れていました。
私の結論は
「美しさとは、きちんとした生活の中に生まれるものだ」となりました。
毎日同じ時間に起きて、同じことをして、
美しい音楽を聴きながら過ごす。
帰ってきたら、同じことをして身体をいたわる。
そこから美しさがにじみ出てくるし、
美しさに敏感になる。
すると美しいものにどんどん出会える。
そう思います。
きちんとした生活は、見ていて文句なしにかっこいい。
投稿元:
レビューを見る
「美しいものってなんだろう?」
塗師の赤木明登氏がものをつくる友人を訪ねながら、
答えを探して問いかけてきた記録。
もちろん正確な答えはないのだけれど、ものを通して、人を通して
伝わってくるかけがえのないものに心を打たれてしまいます。
投稿元:
レビューを見る
冒頭の、著者の初めての個展に寄せた文に心揺さぶられました。
美しいもの、について、そのまわりにいる人と言葉を交わし、「もの」自体を観察し、またそれを言葉にする。
珍しく繰り返し読む一冊として、手元にあります。
投稿元:
レビューを見る
塗師から見た、芸術の世界で生きる人たち。思索に満ちていて、このような見方を知ることができるのは貴重な体験だなぁと。
投稿元:
レビューを見る
塗師の筆者が14人の工芸家を訪ね、美しさとは何かを考える一冊。
筆者が前面に出すぎていて、肝心の対象者の言葉が見えづらく感じた。
もう少し枯れた後に出版されたらまた読んでみたいと思う。
と、書いてみる20代の自分。
陶芸家の言葉が良かったので引用。
投稿元:
レビューを見る
題名には引っかかったものの表紙に呼び込まれて借りてはみたものの
後回しになってサイドテーブルにあったのを
今日やっとそれもいやいや読みだしてみた
それがいきなり人の出会いの妙と言うか
鉄平さんとゆみさんの暮らす面白い風景が活字のバックとなって浮かび出してきた
おしゃれ過ぎるぐらいに反射の少ない
気取りのない詩といった軽い雰囲気で
中身の理屈っぽさを拭い取っている
これは企画が先にあって出会いをつくりだしたプロの本ではなく
かつてあった出会いから拾い出して取材した記録なのだろう
ここに何かを想定した企画と言う媚がなかったら
もっと素朴な心が滲むミニマルな表現を楽しめたのかもしれない
社会と個性がつながりにくい現在そんな贅沢も言えない中で
ちょっとシャクであるけれど気持のいい本だった
図書館に「美しいこと」と言うのがなかったので注文した
投稿元:
レビューを見る
美しさとは を問う。
各分野において活躍する著者の友人や先輩から、美しさに関する答えのヒントを導きだそうとするも、答えはたった一つではなく、各々の中にあることに気付く。
投稿元:
レビューを見る
塗師、赤木明登が友人やリスペクトする職人たちと「美しいもの」について語る。
切り口は人それぞれだけど、みなそれぞれに真剣にものを作っているし、自分の専門以外の持ち物にしても本気で考えながら使っている。
村上龍の「一流のクリエイトをしたければ一流の消費者になれ」という言葉を思い出した。
投稿元:
レビューを見る
今、己の世界観が揺れている。
芸術、モノづくり、生活、命とは、世界観が変わった一冊。
こう生きてみたいものです。
投稿元:
レビューを見る
・なんで読んだか?
美しいもの、アート的なものを学ぶため。感じることが大切なんじゃないかと最近はよく思うようになった。前はデザインてきなものがいいと思っていたけど、いろいろ変わってきた。
・つぎはどうする?
なし
・めも
小野哲平、器をつくる人
結局何がよくて、何が美しいのかは、よく解らないけれど、確かなのは、二人が、自分たちの作るものから、優しい気持ちみたいなのを誰かに伝えられると信じていて、使ってくれる人にそう感じて欲しいと、強く願っているということだ。
哲平さんが言うように、美しい心や、美しい暮らしが、美しいものを作り出すきっかけになっているとしたら、彼らは、それを実現している稀有な存在なのかもしれない。
安藤雅信、陶工
「私とは何者であるのか」という、普遍的というか、少し陳腐と言ってもいい問題と、どうしようもなく向き合ってしまう体質の人が、この世には少なからずいるようだ。安藤さんも僕もその一人だろう。モノゴコロついた頃からずっと、「本当の自分とは何だろう」とか、「僕はいったい何をする人なんだろう」と、迷い続けてきた。そのことが、今でも僕たちがもの作りを続けている理由の一つかもしれない。「民芸の本質は、作り手が自らを消していくことにあるんだ。美術家の本質は、誰も気付いていないことに気付き、人に伝えること。その両面を含みながら作られた生活道具は、鑑賞してもらうものではなく、使って初めて、それまで気付かなかった何かがわかるものなんだ」そう主張する安藤さんにとて、ものを作るということは、こだわりを捨て、何事にもとらわれないこと。この世に決まりきった絶対などはなく、やわらかい心で、さらさらと流れるように物事を見つめるとき、最良のものが紡ぎ出され、私とは何者であるのかを了解するのだ。
ヨーガン・レール、デザイナー
想像力というのか、美しいものを生み出すレールさんのエナジーには僕は敬服している。そしてその源は、レールさんの自然を見つめるピュアな眼差しにあると思う。海岸に流れ着いた一個に石には、そこに存在する原因はあっても、そこにある理由は何もない。波に打ち寄せられ、ただわけもなくそこにあることゆえの美しさになぜだか僕は感動する。意味や理由がまとわりついた人工物に囲まれて生活していると、人は疲れ切ってしまうからだろう。
「最近の日本人は醜いものに鈍感になっている」
「あの人があんなに木を植え続けているのは、島の神様につかまってしまったからなんだよ。そして、本人は、意識していないと思うけれども、今まで森の材料をいっぱい使って服を作ってきたんだから、それをただ森に返しているだけなんだよ」
真木千秋、テキスタイルデザイナー
染め師はいつもこう言っている。「きれいな色だったらそれでいいよ。工夫して使うから」「絶対にこの色でなければとは思わない、だって、自然にはかなわないもの」
いつも疑問に思うことがある。一方にひとつ百円くらいでプラスチックか何かのお椀があり、もう一方は、僕のお椀で、安くてもひとつ一万円はする代物。器としては、中がへこんでいて、食べ物を入れることがで���ればヨシなわけで、機能としては大差ないだろう。なのに値段に百倍もの差があるのはなぜだ。それより、同じ用途に百倍も高いお椀を買う人がいるのはなぜだ。つくづくそう思う。でも、その答えを知っていて僕はここまで書いている。高い理由は、簡単。それは天然素材だけを用い、人間がいわゆる手間と暇をかけて作っているから。だけど、そんな理由だけで人が高いお椀をわざわざ買ってくれるのではない。百倍の値段のお椀を人が買ってくれるのは、そのお椀を見たときに心がふるえるからだろう、たぶん。そして、ウチに持って帰って使うのにドキドキして、なんかあたたかい感じになって、ちょっと幸せだったりするからだろう、たぶんね。そう思うのは、僕も時々そういう気持ちにさせられる素敵なモノに出会ってしまうからだ。そういうとき、人間の作ったものってホント、スゴイなと関心するのだ。
千秋さんの布は、何かを表現したり、人を感動させたりしようとして作られたものではない。いたって素直に「ただ自分が好きなものを作っているだけ」なのだ。
植物も、布も、お椀も、そして人も、土の中から生まれ、世界と繋がり、やがて土に還る。そんなあたりまえのことを、インドの職人さんたちの手が思い出させてくれる。
松原隆一郎、社会経済学者
景観は、自分の外側にただ客観的な存在としてあるものではなく、それはすでに自分自身の一部なのだと、松原さんは言う。コンクリートに囲まれた、無機質でただ清潔な空間にいる人は、すでにそれが人格の一部になっているのだ。景観がそうならば、もっと我が身に近い生活道具も同じこと。子どもに漆塗りのお椀を使わせてみるとよくわかる。そんな高価でデリケートなものを子どもに使わせると、すぐに壊してしまってもったいない、と時々言われるけれど、実はその逆だ。子どもの方がよくわかってくれる。丁寧に作られた椀を、「これは大切なものだよ」と渡してあげると、自然と丁寧に使い始める。そして、食事や暮らしがだんだん丁寧なものになっていく。その時、お椀が、使っている子どもの人格の一部になっているのだ。大切にしている器と同じように、ある人にとって心地よい景観は、生命感を持っている。命があるというのは、繋がっているということだ。それは、過去との連続性であり、記憶の連続性であり、特定の人と人との繋がりであり、人と物との繋がりであり、それらが重複して絡み合った複雑さがそこにある。人は、身近な道具、住宅、そして環境を、自分の一部として織り込みながら、自分と自分の居場所を生き生きとしたものに作り上げる能力を持っている、と僕は信じている。
李英才(リー・ヨンツェ)、陶芸家
誰かを、何かを、美しいものとして見るという人間の持つ感情そのものが、美しいものの根源です。そのものを愛する人が、それを美しいものとして見たいのではないでしょうか。美しいものとは何なのか、まだ私も探し続けています。