紙の本
コッカとヤクザ
2009/04/28 07:55
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:半久 - この投稿者のレビュー一覧を見る
『国家とはなにか』の続編。
骨格となるロジックはシンプルだ。言葉は機能に徹し、ごてごてとした装飾は排している。かくして、質実剛健な書像(論文)がロールアウトされる。
ごてごてとした装飾を排したといったが、見かたによっては挿入されるドゥルーズ=ガタリやフーコーなどからの引用文が装飾的に思えるかもしれない。これらは文体からして「異物」だ。しかし、前作でもそうだったが、著者はこれらを自分の文章に取りこんで血肉にしてしまう。
それだけなら、すくなからずやっている人はいるだろうが、肝心なのは次のことだ。それは、著者自身だけにわかるような独りよがりのものではなく、読者にも通ずる形でなす、ということだ。
だから、おそらくは高校3年生ぐらいでも読みこなすことのできる思想書ではないだろうか。いや、少々背伸びしてでもいいから若い人にこそ読んでもらいたいと思う。
なぜ「金」でなくて「カネ」なのか。著者の説明はないが、想像するにある種の「いかがわしさ」を醸しだせるからではないか。また、新しい重要なアクターとして「ヤクザ組織」が登場することも関連していそうだ。
ふだん私たちは、このヤクザ組織と国家とはどこが違うのか、なんてことを考えたりはしない。「違うのはあたりまえでしょ」で思考は停まる。しかし、著者はあたりまえとは考えない。どこが違うかを追求する。わざわざそうするのは、国家とヤクザ組織にはとても似たところがあるからだ。それは、両者が存続し発展するための活動にかかわる。枝葉を落として単純化していうと、暴力によってカネを徴収するという活動のことである。
この似かよったところのある両者から「違い」を抽出することによって、国家の像がクリアカットに浮かびあがる。
著者の論理展開の手つきは、タイトでクレバーだ。
ヤクザ組織はアウトロー集団である。本書ではアウトローは「法の外」と定義している。法の外と国家は手を組むことがある。国家はアウトロー集団を利用することによって、逆説的だが統治のための秩序を維持しようとすることがある。この戦略は、秩序を維持するためにかかるコスト削減にも資するのだ。
戦争の民間委託にも似かよった点がある。それによって国家にかかる責任と負担は軽減できるのだが、いいことであるとはいえない。
著者の提示する国家像は、あくまで冷徹でシニカルだ。一瞬、アナーキストかリバタリアンにでもなりたい気分になるが、もちろんそれは気分だけだ。いったんは、つきはなして根底から考えてみるということが大切なのだろう。そのうえで、どう「国家」とつきあっていくか。
後半では国家と資本の関係において、ある大胆な仮説が語られる。ここはもっと論証を深める必要があると思ったが、それは今後に期待したい。
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カネと暴力という二つの要素をどのように操ることで、国家による支配が行なわれてきた&行なわれているかを根本から考えさせてくれる。特に「暴力への権利」という表現を用いて、国家がアウトローな人々を操縦したり資本主義を裏付けてきた過程は非常に興味深かった。フーコーやカール・シュミットを引用しつつ、彼らの考えを筆者なりに分かりやすく説明してくれている点も有難い。
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被害者の身内が加害者を殺すのは違法なのに、なぜ国家が加害者を殺すことが合法なのか。
言い換えよう。死刑という「合法」な殺人は果たして「正当」なのか。この問題を突き詰めると、国家は暴力を独占していることがわかる。
なぜ戦場だと殺人を行ったのに罰の代わりにカネを与えられるのか。国家から委託された民間軍事企業が行った殺人にも関わらず、なぜそれが「合法」なのか。この問題を突き詰めると、国家は暴力だけにとどまらず「暴力への権利」をも独占していることがわかる。
正当性は合法性の根拠にはなりえない、これはインパクトのある論理的事実だ。合法だからといったって、許されない行い、許してはならない行いはたくさんある。実社会を見てみれば一目瞭然だ。素知らぬ顔してウソぶいてる社会に噛み付いてやろう
あと紙厚が厚すぎるゾ、そんな所で分厚さをかせごうとしないで欲しい。
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[ 内容 ]
社会を動かす二つの力=カネと暴力への考察から国家、資本主義、そして非合法権力がかつてない姿で現われる。
『国家とはなにか』で注目の新鋭によるいまもっとも必要でリアルな書き下ろし。
[ 目次 ]
第1章 カネを吸いあげる二つの回路(カネを手に入れる四つの方法;二つの“権利”―暴力とカネ)
第2章 国家と暴力について(国家とヤクザ組織の同一性と差異;国家はなぜ合法的な暴力を独占できるのか ほか)
第3章 法的暴力のオモテとウラ(法と例外;非公式暴力の活用 ほか)
第4章 カネと暴力の系譜学(所有の起源;資本主義の成立と所有の変容 ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
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☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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かつての支配層がブルジョワジーとして姿を変えて旨みを吸っている。暴力をもって下層から搾取し、利用する為に国家を作り、法を都合よく作り変えて支配を続ける。
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国家、社会のなりたちを、暴力への権利、富への権利という二つの権利から紐解いていく。
ドゥルーズ=ガタリ、フーコーらを引用しつつ、なぜ国家だけが暴力への権利を持つのか、それが何を可能にし、どんな風に社会を作り上げてきたのか、比較的平易で順序だったわかりやすい文章で綴る。
大学で講義に来てくれていたのに、もっとちゃんと聞けばよかった。
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国家と資本という、現代に生きる人にとっては当たり前のシステムが「強制的、合法的にカネを吸い上げる回路である」という、なかなかショッキングな定義から始まる。論調は過激にも取れるが、論そのものは明快。
2章では、国家とヤクザの類似性について触れられている。一見すると両極端のようだが、カネを支払うことで暴力やトラブルの解決を期待できること、暴力を背景にカネの聴衆が強制的になされること、他の暴力を違法なものとして取り締まることなど、実は似ている点もあるということが分かる。
終盤では「暴力」からはやや離れた点として、資本主義が深化していくと「カネ無しで営まれていたことが、カネで買うサービスとして商品化される」ため、「カネを介さない相互行為の幅が狭まっていく」という論が提示される。
ここに来て、日本社会がかつてと異なり、子どもや老人の世話をコミュニティでしなくなったという社会問題の原因が明らかになる。子どもの世話は幼稚園や保育園や学童、老人の世話は介護福祉系の「商売」が成立したので、今の日本には互助のシステムがあまりない。翻って、そういった「商売」がまだ導入されていない途上国などでは、弱者の世話をみんながする、というコミュニティが機能している。なぜ、日本よりも途上国のほうが子どもや老人が幸せそうなのだろう、という自分の長年の疑問が一つ、解消された感があり、ここだけでも読む価値はあった。
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国家だけが暴力を独占的、合法的、実効的に占有できる。それには根拠があるわけでなく、実効的に占有できるものが国家となる。所有は暴力を背景に国家が認めることで成立する。
例えば日本の武家政権のなりたちや御恩と奉公を知っていれば事例として容易に理解はできるが、哲学・思想として説明されるのは面白かった。