紙の本
「黄色い爆弾」がはじけるときとは
2008/05/03 14:14
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ろこのすけ - この投稿者のレビュー一覧を見る
小池昌代は詩人である。
この人の作品は『詩と生活』 (思潮社)、『屋上への誘惑』(岩波書店)『小池昌代詩集』(思潮社) 『井戸の底に落ちた星』(みすず書房)などを読んできた。
『永遠に来ないバス』で高見順賞、『屋上への誘惑』で講談社エッセイ賞、『タタド』で川端康成文学賞を受賞。
小池昌代の文は、飲み物でいうならドライシェリーのような味。きりっとして決してウエットでない。スカートをひらひらさせることなくパンツスーツをかっちりとはきこなした知的な文が小気味良い。
今回読んだ『タタド』は表題の「タタド」ほか、「波を待って」「45文字」の三篇からなっている短編集。
表題の『タタド』は中年を過ぎた夫婦の海辺の別荘にそれぞれの男友達、女友達が泊りがけで集まって過ごす週末。
筋書きらしい筋もないままの時の流れ。
海辺を散策する夫婦と男。そこへ夫の友達の女優が加わる。
夕食を囲み、ワインを飲む。
庭に植わっている夏みかんがぼたっと落ちる。
この夏みかん、すっぱさは空前絶後の味。
この夏みかんはこの物語の行く末を暗示するようで小道具のような役割でありながら大きな伏線をかもしている。
それはアダムとイブの「禁断の木の実」を思わせる。
男友達と女友達はこのとんでもなくすっぱい夏みかんを食べる。
黄色く輝く実をむさぼる様子はこの筋書きのないような物語に鮮烈なインパクトをあたえる。
それは梶井基次郎の「檸檬」の一節にある「夏の陽に/身を焦がした/樹液はやがて/黄色い爆弾となる」を彷彿とする。
この4人は朝を迎え「黄色い爆弾」がはじける時をむかえるのだ。
「禁断の木の実」を思わせる「黄色い爆弾」がはじけるときとは何だろう?
それは読者へのお楽しみとしておこう。
まるでフランス映画を見ているような物語。
あとの二編も味わい深い。
特に二編目の「波を待って」は中年夫婦の心の奥を描いて白眉。
たそがれを迎えようとする者の残照は朝日のそれとは異なり、鈍いが一瞬の輝きを放つ。
それを詩人らしく絶妙の表現をしていて舌を巻いた。
(五十半ばの夫の背中に日焼け止めのクリームを塗ろうとする主人公は夫の背中のまぶしいほどの弾力にたじろぐ。
それは蛤の力を思い出していた。つい最近、潮汁をつくったことがあったのだ。火にかけた鍋の中で、蛤たちが、次々と口を開くのを亜子は待っていた。いよいよというとき、おたまで鍋のなかをかきまわそうとすると、ちょうど、ひとつがぱくりと口をあけ、亜子がぼんやりと握っていたおたまを、ぐいと押しやった。そこ、どいてくれよと、いうように。亜子は驚き、その柔らかく決然とした拒絶の力に、自分の命が押し返されたように思った。それは驚くほど官能的な触感だった。
夫の背中には、あの貝と同じ弾力があった。
もっとも、貝が何かを押しのけてあくとき、それは貝の死ぬときである。だがその死は、亜子の目にはほとんど生の絶頂に見える。生きている貝の生は、貝が開く直前、波のように盛り上がり、沸騰点に達する。そしてついに、開かれた死のなかへ、烈しくおだやかになだれ込んでいくのだ.夫の背に見えたものも、死を内包した、生の絶頂の輝きなのかもしれない。)
小池昌代の作品は物語の筋を追うよりもその言葉がかもす一瞬の光芒にある。
その一つの言葉のために筋書きがあるのではないかと思うほどである。
食前のドライシェリーが食欲をかきたてメインディッシュへと誘い込むように一つの言葉が脳髄を刺激し、胃の腑を満たしていく。
どの短編も小粋である。
紙の本
タイトルの意味や話の筋さえどうでもいいかもしれない
2007/12/04 23:08
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:つきこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
作中に夏みかんが出てくる。甘い果物全盛の中、すっかり人気の廃れた果物だ。文章を追うだけでその強烈な酸味が甦って口の中は酸っぱくなり、爽やかな芳香を鼻先にかいだような気がした。そしてこんな風に五感を呼び覚ますような文章には、近頃すっかりご無沙汰だった。読んでる本が悪いと言われればそれまでだ。
筋というべき筋もないような全三篇からなる短編小説集。個人的には官能の香りさえご愛嬌。ただ厳選された”ぴたり、ぴたりと石を置いていくように、言葉が胸に落ちていく”感覚をじっくりと味わい、吟味された一文一文を追う楽しみに、心ゆくまで浸りました。最低限の言葉で深い余韻を残す、そういう意味では詩人の小説だなぁとつくづく感じます。
この路線を踏襲しようとして、失敗した小説をたくさん知っている。小説はまず言葉ありきということ。ことばの力をまざまざと見せつけられます。
書店を賑わすぶ厚~い本の数々。著者畢生の著。十年に一度の大作。少々過大広告気味の宣伝文句も丸っきりの嘘ではない。どれも読み応えがある。あり過ぎる。著者の言わんとしたところを頭に詰め込まれすぎて、酸欠気味になるほどだ。貧弱な言葉でも、これだけは伝えねばならぬと千言万言を費やして語りたいことを語る小説なら、熱意だけでも買うことはできる。が、空間を生かすような小説でそれをやられると、もう目もあてられない。そこにあるのはただスカスカな枯れ木一本だったりする。がっと詰め込まれた雑多な情報で詰まった頭を、険しくなった眉間の皺をほどいてくれる本書は詰め込み型物語の逆をいく。
本当に大事な本なんて2、3冊しかない。その意見には賛成なのですが、じゃあどれが大事なのかを凡人が見極めるためには、やはり膨大な本を読まなくてはならない。
ぐっちゃぐちゃでカオスを極めたクローゼットがすっきりきれいに片付いた。そんな読後感です。何が必要で何が不要か、見通しが良くなってああすっきり。これでまた明日からたくさんの本が楽しめる。そしてまたいそいそと本を選びにかかるのであった。
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不明瞭な境界の上を延々と漂っている感じの三篇。遠くにあるようで、時々ちらつく死のイメージがずっと消えなかった。
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三篇の短篇集。「タタド」は川端康成賞受賞作。恋愛小説ではない官能小説だ。水平線をあやふやにする波のように、海辺のセカンドハウスに集まった四人の境界は亡羊となってくる。人といういれものは意味を持たなくなる。本能のまま混じりあう。どの物語も境界というものが不確かだ。実際に意識下では人間でいる必要がない。ただ思いがあるだけ。それだけでいい。
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中年を過ぎた夫婦とそれぞれの友人が海岸近くのセカンドハウスに集まる。だらだらとしたパジャマパーティ。もはや恋愛はない。そこにあるのは決壊への方向だけ。肉体って少し不便だな。タイトルと表紙の絵が内容の深みを連想させる。収録されている「波を待って」も若者の海ではない海の情景が広がる秀作。
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「タタド」
なりゆきに身を任せるのは作為?
「45文字」
キャプションをつけるという行為。
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表題作『タタド』は川端康成賞受賞作ということで期待していたのですが…私はあまり好みではありませんでした。収録された3編の中では『45文字』が良かったです。自分ならどういうキャプションをつけるか、つい考えてしまったり…。/(2008.01.31読了)
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この作家の文章には安心して身をゆだねることができる。
作中人物の、人との距離の取り方に共感できるからだろうか。
大満足。
『45文字』が特に好き。45文字でいろいろな物を切り取ってみたいような気がした。
作成日時 2007年08月21日 03:57
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小池昌代の書く散文には湿気がいつもあるように思う。それも大概は淫靡な湿度なのである。元々、小池昌代の詩の中でもそのような性的な奥行きのある湿った詩が好きであったのだけれど、彼女が小説を書くようになってみて、小池昌代の散文をモノにする力が実は詩というぎゅっと凝縮した言葉の中に押し込められていたのだな、という印象を強くしている。
ひょっとすると小池昌代自身が無意識の内に自らを縛り付け不要なものを削ぎ落としていたのかも知れないとも思う。
当然のことのようであって良く考えると不思議なことといってもよいことなのだと思うのだけれど、小説という形の散文を書いている時の小池昌代は、詩という「形式」で自らを表現する時に比べて饒舌である。しかもその饒舌さは冗長さとは程遠いところにある。言葉が積み重ねられ小説としての筋は進んでいくのに、読み手の心が大きく動かされているような受動的な嫌らしさが生まれて来ない。
決して淡いというわけではないのだが、どこか生に対する淡白さが漂う。冷静に出来事を眺め掴み取る、いわば詩人小池昌代の視線があり、不思議と彼女の散文詩を読み終えた時と似たような感慨が心に残る。そこに始まりはなく終わりもない。ただ切り取られた景色が、人の営みが存在しており、フロイトが行ったように、表向きの顔の裏側で小さくうねっている感情を小池昌代は探り出し言葉にしてみせる。その言葉の組み合わせが淫靡さを生むとしたら、それは小池昌代の性に対する無意識の中立性によるものなのではと思う。彼女に見えているモノを口に出してみて、その言葉の持つセクシャルなニュアンスに気付きつつもそのままにしておくという行為の結果といってもよいかも知れない。小池昌代の「あたりまえのこと」という詩の中に、既にその湿度の萌芽はあったのだと改めて思う。
−男の大きな靴をはいてみた。ら、あまってしまって。
それがまた、がぽがぽ、というような、ひどいあまりかた。
なので、あまってしまう、ということは、こんなにも、
エロティックなことだったか、と思うのだ。−
その程よい湿度にしびれる。
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静かな、大人の雰囲気のある作品集。
どこかひやりとするような、不安感がよぎるようなところが好みだった。
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短編が3つ。
自然と目の前に情景が広がる。どれも短い作品だけど強烈なインパクト。特に二編目に惹かれました。海のもつ抗えない魅力と、同じくらいの恐ろしさ。波の音が聴こえるみたい・・・夫は無事だったのだろうか。
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素っ気ないようでいて、ふいに濃密に香る文章。理由のわからない不安と、不思議な快感の間を行ったり来たりしました。好きです。
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タイトル、タタドを含む短編。それぞれの大人の夫婦のあり方、みたいな内容です。嵐の前の静けさ、のような独特な文体が魅力的です。大人な世界だなぁ。
ええと。若い方よりも中年以上の方が読むと良い本かと。
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著者の小池昌代さんは、知的で上品で素敵な女性だ。全く同年代の私は、BSNHK週刊ブックレビューの常連書評ゲストの彼女を見ていつもそう思う。同じ意味合いで川上弘美さんも魅力的だと思う。
実生活ではこういう聡明な才女には出会ったことはない。勤め先はもちろんウチの大学には極端なお嬢様しか女子学生はいなかったし、バイトやサークル活動で交流のあったワセダあたりの子は揃って、「総理、ソーリ」の辻本みたいな猛女ばかりだった。小池さんは津田塾、川上さんはお茶大なんだと。そもそもこの2校の出身者と言葉を交わしたこともない。なんか人生損したかなあ。
わき道はそれぐらいにして、コレ、小池さんが川端康成文学賞を受賞した作品。著者の人柄そのままに、一切の無用な緊張感なく実にホワンと破綻なく物語りは始まる。
なぜ『タタド』なのか。表題作の中でも一切説明はない。そもそもこの本、前書きも後書きも解説もない。ホワンと始まりホワンと終わっている(本当は終わり方はそうではないのだが)。
でも、私には解っちゃいました。伊豆半島の南端、下田の「多々戸」浜でしょ。「都心から四時間半」とだけ書かれたこの短編の舞台は、「ほんとうにすっぱい」夏蜜柑が自生してるってことは、南伊豆のサマーオレンジに違いないし、間違いない。
地場サーファーが「タタドビーチ」と呼ぶこの浜、普段は人っ子一人いなくて、さながらプライベートビーチ。「バイ・ザ・シー」っていう頗るお洒落なコンドミニアムが確か一軒だけ近くにあった。
勝手にタネ明かしをしちゃうと、ここが著者のイメージ上の舞台であることは確実でしょう。
小池さんにお逢いすることなんかがあれば(あるわけないケド)、「ね、そうなんでしょ」と聞いてみてみたいですね。
この浜、人気がなくて綺麗なのが好きで3、4回行ったことがある。で、一度だけ心底たまげた経験をした。
見てしまったのです。あろうことか、人がいないのをいいことに、AVの撮影してました。ホントびっくりしました。
で、また本題にもどります。
この短編、著者の人柄そのままにとても知的に上品に話はすすむのだけれども、最後の最後は、私の「たまげた」体験同様、オイオイな終わり方です。どうオイオイなのかは内緒です。
小池さんにせよ川上さんにせよ、知的な才女なだけじゃなく大人だねえ。やっぱり。
県立図書館の「今月の新着本」の一冊でした。
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お世話になった建築家の先生から紹介してもらった本。
読んどる途中はなんだか、もんもん。
読み終わったらびっくりするくらい、さらさら。
別になにかが劇的に変化した訳でも、
解決した訳でもないのに、
不思議な爽快感。
たぶんもう一回読み直したら、
また印象が変わると思う。不思議。